第6話 結

 心配そうな顔で鉢の鳥居からひょこりと顔を覗かせていた依都には金魚屋へ戻るように言って、累は女に付いて鯉屋へ向かった。

 大店のど真ん中を貫いている大通りをゆったりと歩く。それはまるで亀の歩みのようで、累はイライラを募らせた。けれど一歩進むたびに大店の人間がずらずらとひれ伏していく。まるで大名行列だ。


 「おい!もっと早く歩けよ!」


 けれど大旦那も女も返答せず、相変わらずゆるゆると歩くだけだった。しかも口を出した累が悪者のようで、誰もがひそひそと陰口をたたいているのが分かる。

 そのじれったい状態で三十分ほど歩くと、ついに大通りに終わりが見えて来た。そしてその先には朱塗りで城のような御殿が姿を現し、正面入り口にはニスが塗られたようなつるりとした表面をした木のの看板が掲げられていて、そこには『鯉屋』と黒字で掘られていた。

 大勢の人に頭を下げられるのも当然と言うかのようにして中へ入ると、すぐに聞き覚えのある声が聞こえてきた。


 「累!」

 「……結?結!結!!」


 そこにいたのはとても病室のベッドに括りつけられていたとは思えない、赤みの射した頬をした結だった。

 結の周りをずらりと多くの人間が囲んでいて、走り出し結を止めようとした。けれどその手が届くより早くに結は累の腕にすっぽりと収まってぎゅうと累に抱き着いた。その腕の力強さと温かさに、累はじわりと涙を浮かべた。

 

 「大丈夫か!?変な事されてないか!?痛いとこないか!?」

 「い、今痛い。苦しい」


 累は嬉しさのあまり力の限りに結を抱きしめてしまい、結は息苦しそうにぱたぱたと累の腕を軽く叩いた。それでようやく弟を半ば締め上げてる事に気付き、慌てて開放するとぺたぺたと顔や身体のあちこちに触れて無事を確認した。


 「大丈夫なんだな。何とも無いんだな」

 「平気だよ。あーあ。ほんと、僕の事になると泣き虫なんだから」

 「う、うるせー」


 累の目にはこぼれ落ちないのが不思議なくらいに涙が溜まっていた。

 累が、ずず、と鼻をすすると結は着物の袖でちょいちょいと結の涙を拭った。けれどそれが余計に幸せを感じさて、結局累はぼろぼろと涙をこぼしてしまう。結、結、と名前を呼びながらぎゅうぎゅうと抱きしめると、当の結はけらけら笑って累の頭を撫でた。


 「大丈夫だってば。現世にいた時よりずっと元気なんだ」

 「そうだよ。お前身体はどうなんだ。いつもの薬はこっちは無いんだぞ」

 「うーん。こんなに身体が軽いのは生まれて初めてなんだよね。治ったんじゃないのかな」

 「治ったのではありません。既に死者ですので病に苦しむ事はありません」

 「何だと!?」


 急に割って入って来た女の声に警戒して、累は結を背に庇った。

 結は今にも噛みつきそうな累に驚いて、どうどう、とまるで犬の手綱を引くかのようにして落ち着かせた。けれど累は結に触らせまいとして女を睨みつける。そんな累の必死な様子を見て、女はなんとその場に正座をして累に向かって手を着いて頭をさげた。


 「私は鯉屋次期当主の紫音と申します。この度は累様に謝罪させて頂きたく存じます」


 女が土下座したこ事に鯉屋中の人間が皆驚き声を上げた。お嬢さんが、なんて事だ、と大騒ぎになり、この土下座に相当の重みがある事を累も感じ取った。累はどうしたものかと困惑していると、それを止めたのは結だった。


 「紫音さん、止めて下さい。累もそんな怖い顔しないの。相手は女の子なんだから」

 「けど!」

 「いいえ。累様のお怒りは当然です。私共のやり様に非がございました。どうかお許し下さい」


 紫音はそのまま微動だにせず、周りがいくら言っても頭を上げる気配がない。

 これにはさすがの累も自分が悪者になっている事に気付いたけれど、それでも弟を拉致した犯人に気を許すことはできなかった。結はもういいと言うけれど累は到底その言葉を言ってやる事はできず、ふん、と顔を背けて一方的に話をし始めた。


 「死者ってなんだよ」

 「言葉の通りです。正確には半分ですが」

 「半分?」

 「こちらに入って来れるのは金魚(たましい)だけ。本来肉の身体はこちらには入れないのです」

 「は?俺も結も現世の肉体を持ってる」

 「例外があるのです」

 「……話しにくいから顔上げろよ」


 ここまで土下座したままだった紫音に、さすがに自分の方が子供だと思ってしまい累は許しを出した。

 それに対して有難う御座います、と礼を言って微笑む紫音を見て累は自分が恥ずかしくなり、そんな累を見て結がクスクスと笑った。それがさらに恥ずかしさを倍増させたようで、累は顔を真っ赤にした。


 「で!半分死んでるって何!」

 「はい。生者というのは肉体と魂が繋がっている状態を指します。肉体が生きていれば魂が乖離する事はありませんが、結様は肉体が生きているのに魂が乖離していました。生者でありながら死者だったのです。私共はそういった方を跡取りとしてお呼びしております」


 結はどういうこと、と首を傾げていたけれど累には心当たりがあった。


 (……結は脳死だった……)


 累は数時間後には完全に死ぬだろうというような内容を医者が言っていたのを思い出した。

 紫音が具体的に何を魂と定義しているかは置いておいて、結の肉体は確かに生きていた。まだ心臓が動いていたのは抱きしめていた累が一番よく分かっている。

 おそらくそのせいだろうとは思ったけれど、今ここでそれを結に聞かせる事はできなかった。何より、それを言葉にしてしまうと結が死ぬという事実を肯定する事になり、死を形にしてしまうようで怖かった。

 けれど病気で死にかけていた事は結本人も少なからず分かっているだろう。累は恐る恐る結を見たけれど、弟は予想に反してきりりとしていた。


 「僕はともかく累は?そんな特殊な状態だったの?」

 「何もないよ。結の病室にいたんだけど、急に鯉が出て来てさ」


 鯉、と聞いて結もくるりと紫音を振り返った。紫音は申し訳なさそうな顔をして俯いている。


 「私共がお呼びしたのは唯お一人、結様のみ。ですが結様と累様は肉体も魂もそっくり同じなのです」

 「まさか僕と累を二人で一人だと思ったんですか?」

 「……お二人だとは思わなかったのです」


 累と結は一卵性双生児だ。

 脳死が『肉体は生きている状態』とするなら死んでいるのは脳だ。となると魂とは脳を指し、それはつまり魂は現世のような概念ではなく物理的なモノという事になる。そうなれば細胞レベルで酷似している二人は確かに同一人物とみなされる。いや、双子は一つの細胞が二つに分かれたと考えれば、二人が一人にカウントされるというのはあながち間違いではない。むしろ正しい。

 結は魂かあ、とぶつぶつ言いながら何か考え込んでいる。けれど累は考えても分からない経緯より、これから結に何が起きるのかを把握して守る手段を明確にする方が優先された。


 「跡取りってのは何をするんだよ」

 「鯉屋の仕事を継いで頂きます」


 隠語ではなくそのままだった。

 それが全てではないかもしれないけれど、少なくとも目の前のこの女は肉体に異常があるようには見えない。

 大旦那に至っては暴力を振るうほど元気だった。と、そこで累はようやく大旦那がいなくなってる事に気が付いた。

 昔から累は結の事になると周りが見えなくなり、そのせいで両親や友人にも迷惑をかけて呆れられる事も多かった。そして本人はそれが悪い事だとはこれっぽっちも思っておらず、今も既に「結が無事だしいいや」くらいに思い始めている。


 ふいに紫音は立ち上がり袂を抑えて右手を上げた。

 するとふよふよと金魚が空を泳いでやってきた。一匹、二匹、三匹、次々に集まってきて紫音の周囲をくるくると泳ぎ回ると、すーっとどこかへ泳いで行ってしまう。その先には巨大な朱塗りの柱が立っていた。三人ほどで手を繋げば外周になるだろうか。そこには螺旋階段が巻き付いていて、延々と上へ上へと続いている。


 「これは輪廻回廊。ここで鯉屋は《金魚の弔い》を執り行い金魚の未練を晴らします。そして新たな生へと送り出すのが役目」


 結は教授の講義を聞くかのように紫音の話に頷いていたけれど、累が聞きたいのはそれではなかった。


 「それが何で結なんだ。条件が合えば誰でも良いだろ」

 「いいえ。鯉屋は代々現世から跡取りを迎え入れますが、鯉屋を継げるのは現世で最も清廉された深い愛情を持つ魂だけ。今世ではそれが結様でございました。結様でなくてはならないのです。」


 累は苛立った。

 どんな高尚な理由があっても結を危険に晒していい理由にはならない。そんな言い訳を当然のように語る事に腹が立ったのだ。

 けれどそんな累の想いなど知らず、紫音は再び重々しく土下座をした。


 「結様。その清いお心で金魚達をお導き下さい」 

 「ええ?お導くの?僕が?」

 「そっちの都合押し付けてんじゃねえ!危険じゃないのかよ!魂とかなんとか、怪しいんだよ!」

 「累。落ち着いて落ち着いて」

 「……弔いは祈りを捧げるだけで身を削る物ではございません。それにここなら結様は病に苦しむ事もありません」


 そういう事じゃねえよ、と累は吐き捨てた。

 結局のところ、条件に合致したのが結で結じゃなければならないというわけじゃない。紫音にしてみれば選ばれし者なのかもしれないが、累にしてみればたまたま清い魂ランキング一位になっていただけだ。そんなのは翌日にでも入れ替わっているかもしれない。

 そんな事すらも分からないのかと、累はぎりぎりと目を吊り上げて紫音を睨みつけた。

 殴ってやりたいほどに怒りがこみあげてきたけれど、それを察した結は累の腕をつんつんと突いて、駄目だよ、と諫めた。


 「紫音さん。それは分かりましたけど、累は戻して下さい。累は生きてるんです」

 「……現世へ戻るには今の生を捨て新たな生を得るしかございません」

 「それは、つまり戻れないって事ですか?」

 「はい」

 「そんな、困ります。何か方法は無いんですか?」


 結はひどく焦っていた。累も苛立ってはいたが、実を言えば紫音の言う事にも惹かれてしまっていた。


 累が健康な結を見たのはこれが初めてだった。

 こんなに顔色が良く歩く事ができて、しかも快活に話す結はここ数年で見た事が無い。

 ここにいれば病気で苦しむことはない。けれど現世に戻れば結は脳死の状態で、待つのは数時間か数分かの後にやってくる完全な死だ。


 (それにあっちに戻ったら二度と会えなくなる。そんなの耐えられない)


 どうするのが良いのか。

 累は怒りと焦りでまともな考えができずにいた。

 するとその時だった。


 「累!?」

 「ぐ、うっ……!」


 累が膝から崩れ落ちた。

 はっ、はっ、と途切れ途切れに息を吐いて、まともに呼吸ができなくなっていた。

 累は、発作を起こした結によく似ていると、そんな事を思っていた。

 結は世話を焼かれたことはあっても、焼いた事はない。どうしたらいいのか分からず、累の名前を呼び続けて背を擦っていると、紫音が累の胸に手を当てた。そして厳しい顔をするとすっくと立ち上がる。


 「依都を呼びなさい。急いで金魚屋へ」

 「はっ!」


 紫音に命じられて、数人の男がばたばたと駆け出した。もう数人が累を抱き上げて、そこで累の意識は途絶えた。


*


 「累さん!?」

 「……依都?」

 「よかったあ。心配しましたよ」


 目が覚めると、累は水槽の中で漂っていた。

 きょろきょろと周囲を見渡すと夥しい数の水槽に囲まれていて、まだ頭がぼんやりしていたけれどここが金魚屋だという事はすぐに分かった。

 けれど自分の状態が全く分からなかった。内臓が掻き回されているような吐き気がする。着物は脱がされ布団をかぶせられているのだが、寝ている場所は水、いやお湯の中だ。温泉にいるようで気持ちが良い。

 一体何故こんな事になっているのか分からず、ええと、と鈍い頭をフル回転させた。


 「……結!」

 「わああ!駄目っ!今水槽から出たら魂が出て行っちゃいますよ!」


 結がいない、と水槽から上がろうとした累を依都が覆いかぶさるようにして押し戻した。


 「このお湯は金魚(たましい)を眠らせるんです。ここなら魂が勝手に出て行く事は無いからしばらく大人しくして下さい」

 「結は!?さっきまで結と一緒にいたんだ!」

 「いませんよ。累さんが倒れてからもう六日です」

 「は!?六日!?」

 「魂の回復には時間がかかるって言ったじゃないですか。ほら!お湯から出ないで下さい!」


 依都は木製の桶でお湯を掬って累の肩にかけた。

 魂云々の話はピンと来ていなかったけれど、累はこのお湯に触れていると内臓が落ち着く感じがした。依都は累の頭にもお湯をかけ、顔を拭こうとするとその手もお湯に押し戻す。

 累よりも依都の方がよっぽど辛そうな顔をしていて、それを見ると言う事を聞かずにはいられなかった。


 「……えっと、魂がなんだっけ」

 「鯉屋様は金魚(たましい)が回帰する場所です。あそこにいたら累さんの魂も引き剥がされて死者になっちゃうんですって」

 「は!?結は!?結はどうなんだ!」

 「結様は元々死者ですよ。肉体と魂が乖離してるから影響ないそうです」


 累は複雑な心境だった。

 結が死者だなんて思いたくないけれど、現世より元気に王子様のような扱いで悠々自適に暮らせるのなら決して悪い事ばかりではない。

 累にとって現世の生活を捨てるというのは「ああそうですか」と呑み込めるものではなかったけれど、死が目前に迫っていた結にとってはどのみち手放す物だった。まさしく第二の生を得たのだ。それを取り上げるなんて累にはできなかった。


 「結は……これからどうなるんだ……?」

 「お勉強らしいです。でも時間のある時はここに連れて来てくれるって紫音お嬢さんが言ってました」

 「そう、なのか?なんだ……そうか、そう……そうか……」

 「ですよ。だから今は休んでください」


 依都は布にお湯を吸わせると累の首や肩に巻き付けて、水槽から出ないで下さいね、と言って仕事に戻っていった。

 けれどまだ内臓が蠢いているような気持ち悪さが消えない。


 ――結はずっとこんなに苦しかったのか


 鯉屋で見た結の笑顔が頭から離れなかった。

 ふと顔を傾けると、結に取ってきた金魚もくったりと横になっていた。

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