第5話 鯉屋の大旦那
それ以上鉢の中に踏み込むことはせず、二人は金魚屋に戻ろうと鉢を出た。
すると出たすぐのあたりでわあわあと騒ぎが起こっていた。とても服とは呼べない、布を体に巻き付けてるだけの女が地面にうずくまっていた。小さな子供を隠すように腹に抱え込んでいるけれど、それを一人の男が事もあろうに足蹴にしてがつがつと踏みつけていた。
周りもそれを見ているけれど、何故か誰も手を貸さずに遠巻きに見ているだけだった。
「おい!何して」
「累さん!駄目です!」
「は!?だってあの人!子供が」
「分かってます!でも駄目です!」
依都は累の腕にしがみ付いて思い切り腕を引っ張って後ろに下がらせた。
累は誰も手を貸さない事に異常さを感じたけれど、それ以上に依都が子供を見捨てろと言う事の方に驚いた。依都は金魚屋の従業員だけでなく突如現れた累の面倒も見てくれていて、およそ誰かを見捨てるなんて考えられなかったからだ。
それでも依都は険しい顔をして頭を低くして、と累を引っ張ってしゃがみ込んだ。
「何でだよ!」
「声を出さないで下さい。あそこにいらっしゃる方が見えないんですか」
「あそこ?ってあの白い羽織の?」
「色なんてどうでもいいですよ。あの柄!あれが見えないんですか!」
言われて子供を抱えた女を見下す男をちらりと見ると、それは艶やかな黒地に金で鯉の鱗が描かれていた。
鯉。それはこの世界で頂点に立つ店の名だ。
「あの方は鯉屋の大旦那様。魂の輪廻を管理する方です!」
「大旦那?何だよそれ。偉いのはあの女じゃないのか?」
「女?お嬢さんの事ですか?違います。この世界を統べるのは大旦那様です」
「じゃあこいつが……」
結を連れ去った張本人か、と累は心の中で吐き捨てた。
しかし大旦那というにはえらく若い。
累よりは幾分か年上に見えるけれど、まだ三十歳にはなっていないだろう。象牙色の髪は街や鉢の人とは違い絹の様に美しく、陶器の様に透き通った肌も艶やかだ。すらりと細く美しい指先をしていておよそ力仕事などした事は無いだろう。
恐ろしいのはにこにこと柔らかな微笑みを浮かべているところだ。人が暴力を振るわれる様を見て涼やかな顔をするなんて気が知れない。
こんな事する奴の所に結がいるのかと思ったら堪えきれず、依都の腕を振りほどいて観衆の前に躍り出て女の傍に膝を付いた。女は転がった拍子に服が破れたのだろうか、ろくに上半身を隠す事すらできていなかった。
「大丈夫か?」
「あの、こ、こどもが……」
「分かってる。これ被って」
「は、はい」
肌が露わになってとても直視する事はできないし、ましてや触れる事などできるわけもない。累は羽織を脱いで着るように促したけれど、大旦那の傍にいた部下らしき男が飛び出て女の頭を鷲掴みにした。
男は悲鳴を上げた女の頭を両手で締め付けて、まるで人形の首を捥いでやると言わんばかりに振り回した。大旦那は一体何が面白いのか、あはは、と笑い出した。
さすがに観衆もうわあと叫び声をあげたけれど、大旦那がぎろりと睨むだけで誰も助けずささっと鉢に走り戻って行ってしまう。しかも人がはけたことで依都がぽつんと取り残されてしまった。これでは依都が標的になるかもしれないと思い、慌てた累は男に体当たりをした。同時に女も子供を抱いたまま転げ落ち、累はすかさず耳打ちをする。
「あの赤い着物の子供、あいつを連れて鉢に戻ってくれ」
「で、でもあなたは」
「いいから」
累は戸惑う女をその場から逃がすと大旦那がそれを追おうとするのが見えた。させるか、と累はなんと大旦那の腕を強く引いて地べたに転がし、仕返しとばかりに顔面を鷲掴んだ。
「大旦那様!!」
「こいつ大旦那様に触れたぞ!!」
周囲の慌てぶりにしてやったりと笑みを浮かべたけれど、大旦那は指の隙間からぎょろりと目玉だけを累に向けた。イエローダイヤモンドのような瞳から放たれる鋭い光は累の瞳に突き刺さり、たらりと冷や汗が流れた。
けれど怯える暇など与えてくれず、大旦那は自らの顔を覆う累の手のひらに噛みついた。ブチッという恐ろしい音がして、累の手のひらからだらだらと血が流れ始める。思わず叫んで膝から崩れ落ちると、今度は累の方が転がされて顔面を掴まれてしまった。身長は累とさして変わらないけれど、手のひらは大きくすっぽりと覆われるほどだった。
「貴様。誰に何をしたか分かっているのか」
「生憎俺はこの世界の人間じゃないんでアンタの価値なんて知らねえよ」
「何?」
さすがに肉を噛み千切って人の肉を口に入れる度胸は無く、累はその手を振り払うにとどまった。
大旦那はじいっと累を見て目を細めると、おや、と目を丸くさせた。
「これはこれは。跡取り殿の片割れじゃないか。これは失礼したね」
「どういうつもりだよアンタ」
「何がだい?」
「何じゃねえ!力の無い人を追いやって踏みにじって!どういうつもりだ!」
「人?ああ、金魚の糞の事かい?あれは人じゃないよ」
「てめえ!!!」
あまりの言い様に累はついにキレた。
大旦那に食って掛かり殴り飛ばそうとしたけれど、その時ふいに柔らかな女の声がした。
「累様、お止め下さい。大旦那も」
そこにいたのは紫の着物に身を包んだ薄墨色の髪の女がいた。それは累と結をこちらに読んだ女だった。
「お前!結をどうしたんだよ!返せっ!今すぐ返せ!!」
「結様が目を覚まされたのでお迎えに参りました。どうぞ鯉屋にお越し下さい」
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