星降りの地(2)

 晃人あきひとが都電を乗り継いで戻った屋敷ねぐらは西洋風の屋敷であり、周囲を追う壁にはツタが絡みつき欧羅巴ヨーロッパの古城を思わせる風情がある。ただ、門扉の脇には古城にはない文明の利器たる呼び鈴が付いており、これがなくば屋敷に入るのは難儀しただろう。


 呼び鈴を押すと電子モニターの向こうで女中のタキが応対して自動ロックを解除してくれたが、スピーカーから聞こえる背後が何やらやかましいことに気付く。


「タキさん、何の騒ぎです?」

「晃人さまのお仕事の件でご当主様が荒れておいでなのでしょう」


 すまし顔でタキがそう告げるとその背後から師の声が響いた。


「晃人が戻ったか? わしの部屋に寄れと伝えよ!」


 その声が、いつものような落ち着きのある声ではなく明らかにお怒りの様子に晃人は僅かに首を竦めた。

 そう言う訳ですのでと告げるタキの言葉と共に電子制御された門扉が鉄の軋みをあげながら開く。


「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ、か」


 伊太利イタリアの詩人の描いた地獄旅行記の一節を口にしながら晃人は師であり屋敷の主でもある洲灯すとうの部屋へと向かった。


 幼き頃より慣れ親しんだ廊下や壁も実はアンティークなどと呼ばれる風情漂うものであったと知ったのは留学してからだったが、その落ち着いた色彩と古めかしい雰囲気が晃人には安らぎを与えてくれた。


 それは今も変わらないが、洲灯がどうもお怒りらしいと言う事実が僅かに胃の腑辺りを圧迫する。それでも晃人には逃げると言う選択肢はなかった。師に呼ばれている以上はお伺いするより他にない。


「失礼します」

「うむ」


 扉を叩き声を掛けると応えが返る。年若き娘の声ながらそこには蓄積された時の重みとでも呼ぶべき威厳が備わっている。


 失礼の無いようにゆっくりと扉を開けると、そこには晃人よりも頭一つ背の低い銀色の髪に褐色の肌を持つ女性が腕を組み仁王立ちで立っていた。黒を基調としたフリルの多いワンピースにヘッドドレスまで身に着けた姿はどう見ても皇国人には見えないが、晃人はそこに美を見出す。


 彼女こそが洲灯、この屋敷の主であり晃人の剣術の師であり生活全般を支えてくれていた恩人である。


「まずは一日無事によう戻った。おかえり、じゃ」

「はい、師匠。晃人、戻りましてございます」


 晃人が頭を下げると、師はじろりと翡翠の如き双眸を向けて。


「儂が何を怒っているか分かるか?」

「生憎と、私にはさっぱりでして。先日の休暇中にゲームをし過ぎた件ではございませんよね?」

「違う、それならちょっとした小言で済む。――時に姫奈ひめなの仕事を請け負うそうじゃな?」


 奇妙な沈黙の後にそう問いかける師の声は妙な優しさにも似た響きがあった。それで晃人にも原因が分かった。


「大佐が断る訳にもいかぬと申されまして」

「軍部も財界の意向は無碍に出来んか。――よりにもよって姫奈とはっ! 大切ないとし子をNTRされる心地じゃ!」

「え、NTR?」


 晃人とて男である、趣味ではない物のその手の言葉の意味くらいはしている。だが、まさか師の口からそんな下世話な言葉が出てくるとは思いもしなかった。さらに問題なのは、師が何をそれ程怒っているのかまるで分らないと言う事だ。


 ゆえに晃人は仕方なく恐る恐る問いかける。


「姫奈の依頼を受けることが問題だったでしょうか?」

「かつて奴らから話が来たことがあったが断った事がある。まさか、性懲りもなくまた、しかも軍部に働きかけるとは見下げ果てた奴らよっ!」

「星降りの地とはそれほどの?」

「――ん? 星降りの地? ……えっと、まさかあの地の調査を命じられただけか?」


 師は意表を突かれたのか一瞬だけ押し黙り、それから伺うように晃人を見る。晃人がはいと頷きを返すと、師は視線を彷徨わせてから、よろよろと自身の机に向かっていく。そして、天板の上にがっくりと手を置いた。そのまま顔を伏せて何事かを呟いていたが、不意に晃人へと顔を向けて。


「わ、儂の早合点であった。勘違いで怒り散らかして済まなかった」


 そう詫びた。晃人は安堵しつつも、気にしていませんと伝えると、師は表情と声音を改める。


「修練場に行くぞ。腕が錆びついていないか見てやろう」


 そう告げたのだ。それの意味する所は明白である。星降りの地は明らかな魔所なのであろう。多分、照れ隠しではないと思うのだが……。


「よろしくお願いします」


 晃人は素直に従う。彼にとって師と過ごす時間はかけがえのない時間であるからだ。

 師を思い浮かべ覚える思いが晃人の胸の中に湧き立つと不意に。


「ソレダ」


 と言う何者かの意識が脳裏によぎる。

 途端に晃人の追憶は終わりを迎え、遠くに山々が連なっているのが見える侘しい荒野へと意識は戻ってきた。

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