うどんうんどう~晩秋の回想編~

べてぃ

第一話

 病院から帰宅した私は、午前中に受け取った段ボールを座敷に運んだ。長らく離れている子どもから差し入れが来たのなんか初めてだ。


「ああ父さん、受け取った? こっちからもあんまり連絡取ってないけど、ちゃんと食べてるかなって。父さんはあんまり好き嫌いないから、何送ったら良いか分からなくて、一通り入れてみた。無理なのがあったら後で言ってね、次から入れないから」


 ああ、分かった。ありがとう。そんな素っ気ない返事で、数年ぶりの電話を終えてしまった。晩秋の夕方のことで、我が家はとっくに山の影に入り、周囲よりも早く夜が迫っていた。電気の紐をカチリと引くと、座敷はクリーム色に照らされた。柔らかい光の中、私は段ボールの封を切った。


 電話の通り、確かに一通りの食品は入っていそうだった。一人暮らしの私にとって二、三週間分は優にありそうな分量で、上からでは全部は見えなかった。どれ、日持ちがするものから並べるか。そう決めると、中身を机に並べ始めた。


 と、二層目に取りかかった時、白い容器が二つ見えた。ものぐさな私の性格を知って、カップ麺も入れたのであろう。思案する子の顔を想像し頬が緩んだ私は、しかし、容器をひっくり返して戦慄した。

 それこそは、私が数十年来食べようとしなかった、赤いきつねと緑のたぬきであった…………


 気がつくと私は、震える手できつねのラベルを剥がしていた。暖房の効かない座敷では、寒さのためポットを押す腕にも力が入らない。肩で腕を押し、ようよう注ぎ終えると、私は半ば放心していた。赤いきつねは、そのフタから漏れ出る湯気によって私の眼鏡を曇らせ、私と、私がいる座敷との境界をあいまいなものにした。

──先輩もカップうどん食べるんですね。意外です──あの時、宮武みやたけ君はそう言ったのだったか。心の奥底にしまい続けた記憶が、数十年の時を経て急速に蘇りつつあった。



 大学三年のある日のことだった。山を切り開いたキャンパスは既に日が落ち、晩秋の寒さが身にしみる中、私はいつものようにうどん会の部室にいた。この部は、うどんという料理を愛し、楽しみ、慈しむ学生が集まるサークルだった。我々はうどんの素晴らしさと、それを市井しせいの人々にもっと理解してもらうための活動について、日夜語り合ったものだった。


 赤いきつねを食べていると、古びたドアノブが開き、いつものように後輩の宮武君が入ってきた。

「あれっ、赤いきつねですか。先輩もカップうどん食べるんですね」

「そんなにおかしいかな」

「いえ……ただ、すごく意外です」

 そうだろうなとは思った。納得した上で、私はこう返した。

「いや、君の言いたいことは分かるんだ。うどんにおけるコシの重要性を君たちに訴えかけてきた私が、カップうどんを食べているのが奇妙だってことはね。実際にカップうどんの食感は店で食べるそれとは大きく異なることだし、当然だ。だが私が真に重視しているのは、コシも含めて、作り手がそのうどんにどれだけの情熱を持ち、ポリシーを持っているかという点なんだ。コシは確かに最重要事項だが、それだけが条件ではないからね」

 ダシを飲み干してから、私は更に続けた。

「これを踏まえて、今私が食べていた赤いきつねを見てみよう。これの前身となった『カップきつねうどん』は非常に画期的な商品だったんだよ。実質的に日本で初めてのカップうどんだ。うどんは我が国を代表する麺でありながら、カップ入り即席タイプは当時世の中のどこにも存在していなかった。それを開発したことだけで既に、東洋水産のフロンティア精神が伺えるだろう」

「そんな歴史があったんですか。僕なんか何も知らずに食べてました」

「それぐらい、和風カップ麺が暮らしの中に溶けこんだってことだ。そのビッグバンを起こしたきっかけの一つが、これだよ。それと、ラインナップを見てもこの会社の情熱が伝わってくるぞ。地域に合わせた別々のダシを開発するなんて、元々水産物のスペシャリストだからこそできることだ」

「そう言われると、何だかすごそうなのが伝わってきました。僕も今夜食べようかな」

「ん、じゃああげるよ。残念ながら赤はないが、緑で良ければ」

 そう言って私は緑のたぬきを渡した。


「情熱を持ってひたむきに取り組むなんて、並大抵じゃできないことだ。私もそういう人間でありたいし、早くそうならなければな」

 フタを剥がしながら、宮武君がうなずいた。


 今にして思えば、この数分は私の大学生活の中で、特に幸福な一時だったかもしれない。


 しばらくの後、ある日を境に、私は部室へ行かなくなった。情熱を持ってひたむきに取り組んだばかりに……

 ある時、ネット上でうどんを貶める投稿がなされ、私が気づいた時には既にちょっとした話題になっていた。うどん会のメンバーを中心に緊急会合を開き、方針をまとめた後、私は投稿者に対し撤回を求める声明を発表した。だが我々の声は無視され、撤回の兆しは見られなかった。これに対し更なる行動がすぐに必要と考える私は、慎重な姿勢を崩さないメンバーたちに失望し、彼らを見限って会を離れてしまったのだ。新しいメンバーとともに次なる道を歩み出した私だったが、結局件の投稿者からはろくに相手をされず、完全な敗北を喫した。そして私は、うどん会で得た大切な友人たちをなくしてしまった……


 時が経つにつれ、これで良かったのかと疑問を感じることが多くなった。あの時はそれが正しいし取るべき行動と確信していたが、後から振り返ると、果たしてそうだろうかとも思うようになった。けれど如何様いかように振り返ったとて、過ぎ去ったことは曲げられない。せめて思い出さないようにして残りの人生を送るより他にないのだ。だからあれ以来私は彼らの誰一人とも会っていないし、あの日々を思い出させるうどんとも、真正面から向きあわなくなった。コシがどうのいったことは一度たりともなく、目立たない平凡な人間として、数十年を過ごしてきた。


 だが、封じ込めてきたその記憶は今日、フタが剥がされ、湯が注がれ、在りし日の輝きを放ち始めたのだ……



 ふと、時計を見た。おおよそ五分が経過していた。私はフタを開け、麺を箸で掴んだ。この感触、この味だ。あの日と何一つ変わらない……


 報告しなければ。宮武君に言っていないじゃないか。この数十年間、私は情熱なんか何もなく、ただただ生きただけの人生だったってことを。格好悪い人生だが、それでも良いんだ。とにかく伝えよう。彼が会ってくれるかは分からないけれど、探してみよう。生きている限り「これから」は変えられる可能性があるのだから。


 頼れそうな伝手つてを、私は考え始めた。

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