第7話 [3.14(パイ)]

 ――翌日。

 今朝はやけに寒かったので、日の出前に起きてしまった。


「ん……う〜ん……」


 目をゴシゴシとこすりながらカーテンを開けて外を眺める。空は藍色で、地平線は朱色に変わっている。

 それともう一つ。


「あ……雪だ」


 空の藍と朱、そして大地は一面銀世界となっていた。俺の門出を祝っていると、いい風に解釈しておこう。


 布団(ダンボールと新聞紙)をまとめて部屋の片隅に寄せる。なけなしの金で買ったラジオの電源をつけて電波を合わせる。

 ラジオを聴きながら、俺はこの部屋で食べる最後の朝食を用意した。


『さァ〜! 続いては心地いい朝を迎えるための、モーニングソングです』


 ラジオから落ち着いた曲が流れてくる。

 ……こんなボロアパートの一室、さっさと出たいとか思ってたけど、いざこういう状況になったら地味に悲しい。

 少しでも愛着とか湧いてたんだなぁ。


 窓から差し込む暁の光を浴びながはそんなことを考えて、食パンの上にソースをかけた目玉焼きとベーコンを乗っけたものを口に放り込む。

 朝ごはんを食べ終えた後はネットで調べた問題集などを漁って勉強をして時間を潰した。


「ちょっと早いけど、もう行くか」


 時刻は7時半近く。あの最上階の部屋の鍵は昨日もらっていたので自由に出入りできる。

 こことも、いよいよお別れするか。


 上着を羽織り、荷物をまとめたリュックサックを背負う。最後に赤いマフラーを首にかけてドアノブに手をかけ、扉を開けた。

 外から冷気がどっと押し寄せてくる。鼻をツンと刺し、肺を凍らせるような勢いの寒さだ。


「…………」


 もうこの扉は開けることも、閉じることもないかもしれない。

 微塵だけあった愛着。

 俺は振り返り、誰かいるわけでもないのに部屋に向かって、白い息を吐きながらこう言った。


「――行ってきます」



###



「うぉー。やっぱ近くで見たらでかいなぁ」


 ゆっくりと白銀の世界を縫いながら歩いて数分、昨日下見にやってきた高級マンションの下へとたどり着いた。

 本当にここに暮らすことになったのか……俺。


 エレベーターに乗り、最上階の部屋まで向かう。部屋の前でポケットを漁り、ドアの鍵を開け、ズンズンとリビングまで向かって歩く。

 こんなにも早いんだし、誰もいないだろう。


 ……そう思った俺が浅かった。

 リビングの扉を開けるとそこには――下着をつけている最中の美紅がいた。


 刹那、俺の脳内は円周率で埋め尽くされた。そう〝πパイ〟だ。美紅は着痩せするタイプみたいだ……。見かけによらず巨大であったが、危ない部分は〝謎の光〟が隠していた。


「あ、……えっと……。いい3.14ですね(錯乱中)」

「な……な……! こんのへんたァァい!!!!」


 顔を真っ赤にし、近くにあった毛布で体を隠しながら俺に向かってものを投げつけてくる。


「申し訳ございませんでしたァァ!」


 慌てて部屋の外に出る。

 あの時マンションの下で放った言葉は伏線だったのか……ッ!


「――おい……!!」


 ドスの利いた声が俺に届く。声の主は俺の目の前におり、それは多々良百合さんであった。

 腕を組み、修羅悪鬼の形相をしながら俺を睨みつけていた。


「た、多々良さん……っ!」

「貴様……我がお嬢様と一緒に暮らすということも許されないというのに、あまつさえお嬢様の裸体をォォ! 私も見たかったのにィィ――ッ!!」

「どこに怒ってんですかあんた!」

「あなたは今再びッ! 私の心を『裏切った』ッ!!」


 や、やばい……ッ! 奴の攻撃が来る!

 引っ越して早々部屋を壊すなんて俺は嫌だぞ!!


「はいは〜い、百合ちゃん落ち着いてね〜」

「う、は、離せ!!」


 拳が飛んでくるが、それは俺の目前でピタッと止まる。理由は単純明快だった。


「小林さん!」

「やっほ〜蒼夜くん、おっひさー! 僕のことは九里先輩って呼んでねぇ」


 あのポンコツメイドこと、小林九里さんが多々良さんを制止させていたのだ。


「離せ、ウガァァァァ!!」

「ちょ、やめ、まじで僕の筋力貧弱だから抑えられないんだよ〜〜!」


 九里先輩の拘束を解き、再び俺に向かってくる。


「あんたたち……さっきからうるっさいのよ!!」

「いてっ!」

「あうっ!」

「ご褒美ですっ!」


 美紅からチョップを食らった。俺、九里先輩、多々良さんという順番でやられたが……やはり多々良さんはやべぇ奴だったようだ。

 美紅はいつも通りの服に着替えていた。


「とりあえずリビングに来て。お父様から色々言われてるから」

「あ、あのぉ……」

「何、蒼夜」


 うわぁ……。美紅、めちゃくちゃ怒ってるな。

 まあ俺が悪いから仕方ないけどさ……。


 俺たちは大人しく美紅の後を辿り、リビングに入った。

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