35 一条の光

 だが残念ながら、エーリカをなだめに行ったツェツィーリエとレーネは、二人だけで戻ってきた。


「エーリカも、先生のことを嫌うつもりはないし……むしろ、少しでも疑ってしまったことを後悔しているようでした」

「でも、今はちょっと先生とは顔を合わせられないって言ってました。ちょうどアルノルト先生が通りがかったから、エーリカさんはしばらく医務室で休むことになってます」

「……分かりました。ありがとうございます、ヴィンデルバンドさん、トンベックさん」


 女子二人の報告に続いてディアナは、普段の席とは違いエルヴィンとリュディガーの間に埋まるように座っているルッツを見やった。


「ライトマイヤー君。……私が先ほど話したのが全てですが……」

「……わ、分かっています。僕、混乱して、息が苦しくなってしまったけれど……先生はそんな冷酷な人じゃないって、分かってます」


 ルッツの顔色はまだそれほどよくないが、特別ということでレーネから菓子を分けてもらったりツェツィーリエが持ってきていた温かい紅茶を飲んだりして、かなり落ち着いたようだ。


「僕、一つ不安なことがあるとどんどん悪い方向に物事を考えてしまって……すみません。でも、エルヴィンにもたしなめられました。結局のところは、僕たちが全員合格すればいいだけの話だって」

「それはまあ……そうですけれど」

「怖がりな僕のことを馬鹿にせずに、僕が授業を受けられるように工夫をしてくれたのは先生です。……もし本当に先生が僕を切り捨てる気なら、もっと早くに見切りを付けたはずです」


 ルッツはそう言うと、エルヴィンとリュディガーの肩を借りて立ち上がり、頭を下げた。


「……取り乱してごめんなさい、先生。僕……進級試験、頑張ります」

「ライトマイヤー君……」

「誰がどうして噂を流したのかは分からないんですけど……でも、こんなのに踊らされるわけにはいきません。僕、頑張ります。頑張るから……最後まで、僕たちのことを、見ていてください」


 震えながらも真っ直ぐこちらを見つめるルッツの眼差しを受け、ディアナはしっかりと頷いてみせたのだった。









 今日の補講はまともに行えなかったので、ディアナは早めに皆を解散させてゆっくり体と心を休めるよう言った。


 職員室に行く前に医務室に立ち寄ったのだが、やはりエーリカは顔を見せてくれなかった。

 だが応対してくれたフェルディナントは、「だいぶ顔色はよくなったから、もうすぐ部屋に帰すつもり」と言った。


「それにしても……あの噂が流されたのは、まずいね」


 医務室の前でフェルディナントが言ったので、ディアナは頷いた。


「……噂を知っているのは教員だけなので、やはりアルノルト先生が以前おっしゃった、補講クラス撤廃を阻止したがる人が流したのでしょうか……」

「僕はそう思っている。……今回は君たちの信頼関係で乗り越えられたけれど、下手すれば全てがバラバラになっているところだった」


 ――学級崩壊。

 その言葉が頭をよぎり、ディアナはぞっとした。


 六人のリーダーであるリュディガーがディアナに敵意をぶつけてきた時点で、下手すれば補講クラスは崩壊していた。

 エルヴィンがフォローしてくれなかったりディアナが答えをはぐらかしたりしていれば……きっとリュディガーは、ディアナを見限っただろう。


「先生はこれから、校長のところに行くんだろう?」

「……ええ、事情説明を」

「そうか。……僕も一緒に行きたいけれど、ブラウアーさんを一人にするわけにはいかないから……ごめんね」

「いえ、滅相もありません」


 むしろ、クラスのことに巻き込んでしまって申し訳ないくらいだ。


 そうしてディアナはフェルディナントにエーリカのことを頼み、断頭台に上がるような気持ちで単身校長室に行ったのだが――


(……意外。もっとひどく言われると思っていたわ)


 校長との面会を終えて部屋を出たディアナは、長い息を吐き出した。

 校長室にいる間はどこかにふよふよと浮かんでいた魂が今、ようやく自分の体の中に戻ってきた気分だ。


 校長もだいたいのことは聞いていたようで入室時から険しい顔をしていたが、どちらかというと「なぜあの条件がばらされたんだ」という点でお怒りだった。


(確かに、生徒の進級人数を教員の採用判断の材料にするというのは、管理職としてはあまり知られたくないことよね……)


 校長はワンマンで横暴な日和見男で、自分の利益になることには敏感でかつ、自分の不利益になるような状況をひどく嫌う――というのは職員室でも話題になっている。


 校長はディアナに、これ以上噂が広まるのは阻止すること、そしてもし他の生徒などに尋ねられた場合は「副校長に聞いてください」と言うことを指示した。

 副校長はとても嫌そうな顔をしていたが、ディアナが頭を下げると「こういうのが管理職の仕事ですからね」と言ってくれた。


(噂を流したのは、校長ではない。それじゃあ……誰?)


 まさか、エルヴィンではないだろう。

 こんな噂を流しても、進級する気になっている彼からすると利点はない。そもそも彼は面倒事が嫌いらしいので、クラスの和を乱すようなネタをぶち込むとは思えない。


(それじゃあ一体……)


「……失礼、イステル先生」


 考え事をしながら歩いていたら、複数の教師に呼び止められた。皆、普段から補講クラスの生徒たちの授業も担当してくれている教師たちだ。


「先ほど先生は、校長室で話をされたようだが」

「はい。……私の正式採用についての噂が流れていることについて、報告を」

「そのようだな、ご苦労だった」


 魔法応用の教師が言い、基礎教養で歴史を教えている高齢の教師が視線を横にずらした。


「今医務室で、エーリカ・ブラウアーが休んでいるということだったな」

「はい。……その、今は私とは顔を合わせない方がよいので」

「ああ、そうだろう」

「だがそれでは、今後の指導に影響が生じるだろう」


 魔法理論の教師も頷き、「そういえば」と自分が抱えていた本の表紙を軽く叩いた。


「エーリカ・ブラウアーは座学において少々点数が不安定だな」

「うむ、歴史も苦手だと言っていた」

「算術も苦手だそうだな」


 口々に教師たちが言うのを、ディアナは黙って聞いていた。だが、そろそろ胃のあたりがキリキリと痛くなってくる。

 ただでさえ現在はメンタルがやられているのに、同僚たちに囲まれながら生徒の成績について語られるというこの状況は、精神衛生上よくない。


「だが現在、エーリカ・ブラウアーはイステル先生と個人授業を行えそうにない」

「ということは、イステル先生以外の教師が面倒を見るべきだろう」

「……おお、そういえば私は明日の放課後、時間が空いているのだった」

「そうそう、私も訓練場が空いているので、魔法応用学に不安のある生徒対象に補習をしようかと思っていたのだった」

「確か明後日は、特別な予定もない。五人……いや、六人の生徒くらいなら、算術を教えられなくもないな……」


 ディアナは、目を瞬かせて教師たちの話を聞いていた。

 彼らは「そういえば」と言いながら、自分の予定の空いている時間を告げている。


(これって……まさか、でも……)


「……あ、あの。実は、私も魔法実技以外は専門ではないので、教えにくいところもあり……」

「当たり前だろう。講師になって半年足らずの若造が全ての科目を教えられるはずもない」

「こういうときには、その道の熟練に頼るのが得策だと思うが?」

「ああ、そういえば女性教師陣も、お茶を飲みながら生徒の自習監督をしたりするとのことですな」

「女子生徒なら、近くに女性教員がいれば安心だろう。さて、声を掛けるべきか否か……」


 どうしたものか、やれやれ、と言わんばかりの態度だが――もう、彼らの言動を疑う余地もない。


 ディアナは胸の奥から湧いてくる感情を抑え込み、勢いよく頭を下げた。


「……先生方! どうか、お時間のあるときで構いませんので……補講クラスの子たちの指導を、お願いできませんか……!」

「おう、やっと言えたな、イステル先生」

「……まあ我々も、校長におもねてこれまで見て見ぬふりをしていたのだから、偉そうなことは言えない。……すまなかったな」

「先生はずっと、補講クラスの生徒のために働きづめだろう。……たまには俺たちを頼ってくれよ」

「これまでは、君一人に重荷を負わせてしまった。……これから、可能な限り協力させてくれ」

「はいっ! ありがとうございます……!」


 教師たちに明るく言われ、ディアナはぐいっと目元をグローブで拭って頷いたのだった。

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