34 疑惑と混乱②

 ディアナの返事にリュディガーはさっと気色ばんだが、彼はちらっとエルヴィンの方を見ると少しだけ殺気を収めて、癖のある髪をがしがしと掻きむしった。


「……じゃあ、おまえは落ちこぼれを見捨てるつもりなのか? 自分の昇格のためなら、進級が難しい生徒は放置するのか?」

「しません! 私は……校長からそのような条件を提示されたのは事実ですが、六人全員の進級を願っています!」


 どういう形で噂が広まったのかは分からないが、ディアナはエーリカやルッツを見捨てるつもりは一切ない。今日だって、暗記が苦手なエーリカでも頑張れそうな教材をかき集めてきたのだ。


「私は、あなたたち全員に望むような未来を掴んでほしい。できなかったところが一つでも多く、できるようになってもらいたい。みんなで進級して……みんなで卒業してほしい……!」

「……。……でも、もしオレたちの中で少々不合格者が出ても、先生にとって不都合にはならないんだろう?」

「なります。……私は一生自分の不出来を恨み、後悔し続けます」


 六人全員進級なんで無理だと、思っていた。

 だが、ここまでくると自分の正式採用とかクビとかなんて二の次だった。


 新人教師のディアナについてきてくれる、六人の教え子たち。

 その全員を、二年生に送り出したい。


 リュディガーはなおもきつい眼差しを浮かべていたが、つとそれをエルヴィンに向けた。


「……おまえが急に授業を受けるようになったのも先生に近づくようになったのも、あの噂を聞いたからなのか」

「……まあ、そんなところだ」


 実際にエルヴィンがやる気を出したきっかけは「六人全員進級で補講クラスについて再考」の方だろうが、彼はゆっくりと頷いた。


「俺は最初、先生を突っぱねた。六人中三人以上の理論なら、俺を最初から計算から外した方が効率がいいだろう、って言った。……でも、先生は諦めなかった」

「……」

「だから俺は、俺の生き方を考え直すことにした。校長との約束が先生にとっても重荷になっているのも分かったから、手伝おうという気になった」

「……」


 エルヴィンの言葉に、リュディガーは頬を打たれたような顔になった。

 いつも皆のリーダーとして毅然と余裕たっぷりに振る舞っていた彼が、幼い子どものようにあどけない表情になっている。


「重荷……。……そう、だよな。先生、おまえはこっちが心配になるくらい真っ直ぐだから……そんな条件を出されたら、重荷にしかならないよな」

「ベイル君……」

「……エルヴィン、おまえ、ルッツの様子を見てくれねぇか」

「……やだね。今のあんたと先生を二人きりにしたら、先生が泣くかもしれないだろ」

「泣かせねぇよ。……いいからとっとと中に入れ」


 リュディガーに言われるが、エルヴィンはなおも迷っているようだ。だがディアナがそっと背中を押すと、渋々ながら教室に入っていった。


 廊下には、ディアナとリュディガーだけが残される。

 彼の眼差しは、まだきつい。


(……怒られても、仕方ないわよね)


 そう思いぐっと唇を噛みしめるが、やがて彼の唇から吐き出されたのは罵声ではなくて、疲れたようなため息だった。


「……はぁ。本当におまえ、弱っちいよな」

「……すみません、弱くて……」

「謝れって言ってんじゃねぇよ。……オレこそ、悪かった」

「ベイル君……?」

「分かってたよ。おまえがどれほどオレたちのことを気に懸けているかなんて」


 ここ数ヶ月の間に伸びてきた前髪を引っ張りながら、リュディガーは言う。


「もしそんな条件を出されていたとしても、おまえがオレたちに向ける眼差しは偽りじゃないはずだって、分かっていた。でも……泣くエーリカやルッツを見ていたら、我慢できなかった。おまえが悪いわけじゃないのに……すまない」

「……いいえ、謝らないでください。誰よりも仲間想いなあなたが怒るのは、当然のことですから」


 リュディガーは、優しい。

 その優しさが……時に彼自身を苦しめてしまうくらい。


「むしろ、あなたがこうして私を責めなければ、他の皆が余計に心を苦しめるだけだったでしょう。あなたが皆の困惑や疑問を背負って、私にぶつけてくれた。それで……よかったと思います」

「先生……」

「皆にも、きちんと話をします。……それに、校長にも」

「やめとけよ。元々生徒には明かさないことになっていた話だろう」

「でも、何らかの理由であなたたちに噂として届いてしまい、それを私が認めたというのは事実です」


 ……強気に言うが、本当は体の芯まで震えていた。


 怖くて、不安で、逃げ出したいくらい。


 だがディアナがここで逃げれば、全ての皺が生徒たちに寄せられる。

 それは……もっと嫌だった。


 リュディガーは難しい顔で黙っていたが、やがて「……分かった」と頷いた。


「おまえがそう言うのなら、そうしてくれればいい」

「……はい」

「……ったく。時と場合が違えばオレがおまえと一緒に校長室に行くし、怖いのならいくらでも抱きしめてやるんだけどな……」

「それは大丈夫です」


 校長に報告せねばならない案件を増やすのだけは、御免被りたい。


 だが今のやり取りでリュディガーは普段の調子を取り戻したらしく、ふっと笑った。


「……よし。んじゃあそろそろ皆を集めようぜ。エーリカも、だいぶ落ち着いたんじゃないか」

「……そうですね」


 そうだといい、と心から思った。

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