33 疑惑と混乱①

 二月も半ばを過ぎると、寒さもピークが終わる。

 それでもまだ防寒着を着なければ外を出歩くのがおっくうになる季節、ディアナは足取りも軽く補講クラスに向かっていた。


(いい教材をもらえた! これなら、エーリカさんも練習ができるはず!)


 フェルディナントが、過去に補講クラスを担任した教師が残していた資料を見つけてくれた。

 その年は一年補講クラス生徒五人のうち、実家の都合でどうしても受験できなかった一人を除いた四人が進級できたという。


(エーリカさんは中世史の国王の名前が覚えられないって言っていたけれど……こんな素敵な語呂合わせがあるなんて!)


 いつもムスッとしている第五代ムスタファー王、のようなしょうもないダジャレではあるがこれが案外馬鹿にできない。

 エーリカは文字よりも絵や図式で覚える方が得意らしいので、ムスッとしたおじさんの顔さえ思い出せたら王の名前も覚えられるだろう。


 その他にも使えそうな教材をたくさんもらえてほくほくのディアナは、廊下の角を曲がり――補講クラスの教室の前に立つエルヴィンの姿を見つけた。


 まさか出迎えてくれたのだろうか、と思っていると彼はディアナを見て、つかつかと早足で寄ってきた。

 だが、その顔にはいつもの穏やかな表情は欠片も残っていなくて、ディアナの胸に嫌な予感が芽生える。


「先生、来たんですね」

「ええ、アルノルト先生との用事が終わったので。……あの、シュナイト君。何かあったのですか……?」


 もし教室内で喧嘩が発生したのならレーネあたりが呼びに来そうだし、別の問題ならリーダー格のリュディガーが来てくれそうなものなのだが。


 エルヴィンは、「荷物、持ちますよ」と不安でそわそわするディアナから荷物を受け取り、難しい眼差しをクラスのドアの方に向けた。


「……面倒なことが起きました」

「喧嘩……ではないのですか?」

「今回渦中にいるのは、あんたの方です」


 エルヴィンは言うと、「バレました」と低く言った。


「あんたが俺たちのうち三人以上を進級させたら、正式採用してもらえるって話。それを、あいつらが知ってるんです」










「……。……な、なん……で……?」


 エルヴィンが荷物を持ってくれて、助かった。

 さもないと、力の抜けた腕から石版やら資料やらが落ちてしまっていただろう。


 体中の血液が凍り、みぞおちのあたりに重くて冷たいものが生じたかのような感覚。

 かつて――前世で働いていた頃に保護者対応を誤ってしまったときも、同じような感覚になったことがある。


(なんで、バレて……!?)


 校長から出された条件については、絶対に生徒には言わないことになっていた。

 もちろん校長の会話を聞いてしまったエルヴィンは例外だし、彼も絶対に内緒にすると約束してくれているので疑うつもりもない。


 ショックと驚きで震えるディアナに、エルヴィンは辛そうな表情を向けた。


「……どういうルートでバレたのかは、分かりません。もちろん俺じゃないし、俺がさっき教室に来たときには既に、皆がその噂をしていたんです」

「……」

「待って。……あんたはまだ、行かない方がいい」


 エルヴィンの脇を通り抜けて教室に行こうとしたら、彼に止められた。


「エーリカが、すごくショックを受けているんです。それと、ルッツも。進級について悩んでいるのはあの二人で……先生の昇進のためなら自分たちは切り捨てられてもいいんだ、と思っているようで」

「そんなことない!」


 思わず声を上げていた。


 確かに、もしルッツとエーリカが進級試験で落ちたとしても、後の四人が合格すればディアナは正式採用してもらえる。

 六人全員ではないので補講クラスを撤廃することはできないが……言ってしまえば、「ディアナ個人」のためならそこまでする必要はないのだ。


 そして元々自分の成績に悩んでいたエーリカや、臆病ゆえ試験で全力が出せないかもしれないルッツなどは、マイナス方面に考えてしまう。


 ――いざとなればディアナは、自分たちを切り捨てるのだろう。

 もし切り捨ててもディアナにとって何の不利益もないのだから、と。


(違う――!)


「私、そんなこと思っていない! 私は、みんなを進級させたい……!」

「分かってます! でも今は……あっ」


 補講クラスのドアがバンッと開かれ、ふわふわの髪の少女が飛び出してきた。

 いつも穏やかな笑顔で皆を見守っていることの多いエーリカははっとした様子でディアナを見ると、真っ赤になった目元をこすった。


「ブラウアーさん……」

「先生……あたし、あたし……ごめんなさい……!」

「ま、待って!」


 きびすを返して駆け出してしまったが、すぐに教室からツェツィーリエが出てきた。

 彼女はディアナを見ると少し困った顔になったが、ついっと顎を横に向けた。


「エーリカはわたくしたちが追います。先生は、教室にいてくださいな!」

「……分かりました。すみません、ヴィンデルバンドさん!」


 ツェツィーリエに言うと、続いてレーネも出てきて二人でエーリカの後を追っていった。


(申し訳ないし悔しいけれど、今私がブラウアーさんを追っても彼女を傷つけるだけ……)


 苦い唾を呑み込んだところで、教室からリュディガーが出てきた。彼はディアナを見ると、いつも陽気に微笑むことの多い顔をゆがめた。


「……ルッツは、過呼吸になりかけている。今は教室の隅で一人で落ち着かせている」

「……ありがとうございます、ベイル君」

「……先生。あの噂……本当なのか?」


 リュディガーの声には、隠しきれない棘が含まれていた。

 クラスメート五人を率いる立場にある彼にとって、ディアナの採用の話は――聞き入れがたいものだっただろう。


 思わずリュディガーから逃げそうになってしまったが、ディアナの背中にとんっと別の人の胸が当たった。


「大丈夫です。……落ち着いて話しましょう、先生」

「シュナイト君……」

「その態度……まさかエルヴィンおまえ、知っていたのか!?」

「ああ、知っていた。……知ってしまっていた」


 ディアナの背中を支えるエルヴィンははっきりと言い、ディアナの隣に並んだ。


「昼寝をしていて偶然、校長と副校長の会話が聞こえてきたんだ。……先生、事情を」

「は、はい。……ベイル君。あの噂は……本当です」


 もうここまでになったら、生徒たちを騙すことはできない。

「そんなことはありません」と言っても……信じてもらえないどころか生徒たちとの関係を確実に砕いてしまうと、分かっていた。

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