第39話 二学期

***



今日から二学期が始まる。



今年の夏休みは僕史上、一、二を争うレベルで激動な日々を過ごした。たった一ヶ月。されど一ヶ月。夏休みが始まる当初に、今の僕がどうなっているか教えても絶対に信じないだろう。



中学の時は部活と受験勉強で、あっという間に感じていた夏休み。今年は中身の薄い夏を送るものだと思っていたのが、これ以上にないぐらい具材を盛り込んだひと夏に仕上がってしまった。



「――おはよう凛くん!」



「おはよう遥陽」



マンションのエントランスから出ると、遥陽が大きく手を振りながら駆け寄ってきた。



「やっぱり制服だと暑いね……」



「僕も玄関の扉を開けた瞬間に、汗が吹き出てしまったよ」



僕と遥陽はお互いに自分の格好を見下ろして溜め息をつく。



夏休みが終わったからと言っても、夏そのものが終わったわけではない。今も尚、連日の真夏日が続き、今朝見た天気予報では最低気温が二十度のことだった。



僕たちの通う高校は、男女ともにカッターシャツに紺色のブレザーというシンプルなものになっている。それに加え、季節等に合わせてセーターを着るのだけれど、今日みたいな日はカッター一枚でも汗が止まらない。



「明日で八月も終わりだし、九月になったら少しは涼しくなるといいね」



「でも寒くなったりしたら、この暑さが恋しくなったりするんだろうね」



「凛くんは寒がりでいつも凍えてるもんね」



僕は駐輪場から自転車を引っ張り出し、遥陽とともにサドルにまたがった。



漕いでいるうちは風を感じて、多少の心地良さを味わうことができるんだけど、信号とかで一度止まったりしてしまうとその時点で終了。



学校に到着するころには、人間ゆでダコが完成している。特に僕は人より汗かきだから、校内にシャワー室でも作ってくれと切に願っている。



「なんだかんだ、凜くんと一緒に登校するのは初めてだよね」



遥陽から一緒に学校に行こうって誘われたのは、昨日の夜だった。実のところは僕もちょっと意識していたのだけれど、遥陽は部活の朝練とかあるのかなって考えたら、自分から言い出せずにいた。



そういうのを自分から言える人だったら、今まで苦労してこなかったんだろうけど……。でも遥陽はこれまでとは違って、ちゃんと付き合っているんだから僕が遠慮する必要はないのかな……。



家から学校までの道のりは、国道の脇を通ったりするため近くで車が秒単位で行き交っている。



だから、横に並んで走るといったことはできない。よく漫画やアニメとかで見かけるような、河川敷をダラダラと通る青春ぽいことはできない。



というか、周りの音が大きすぎて至近距離でも声量を上げないと、互いの声が聞こえないぐらいなんだ。



前を遥陽に進んでもらい、僕はその後をついていく。昔は大勢の友達と自転車に乗って、色々なとこに行ったものだけど、僕は決まって一番後ろにいた。



前を走っていると、たとえ後ろが知り合いであろうとなかろうと、気になって集中できないのだ。それどころか、真後ろにピタっとくっかれてるだけでストレスになる。



これまでの登下校でも何回か経験があり、知らない人が後ろに来ると、僕はわざとスピードを落としたりする。でもなぜか後ろの人も同じように減速してイライラしたことは数え切れない。



遥陽に最初にそのことを伝えたら、遥陽は全くそういうのは気にしないらしい。



僕だけなのかな……。相手にその気がなくても、追いかけられてるような気がして嫌なんだ。



遥陽は涼しげに、ポニーテールを揺らしながら進んでいる。額から首筋にかけて汗を滴らせる僕と違い、爽やかな漕ぎっぷりだった。



こうして一緒に登校してはいるものの、若干の寂しさは感じていた。



遥陽は時折、僕がちゃんとついてきているか振り返ったりはしてくれていたけど、約十五分、僕と遥陽はほぼ言葉を交わすことなく学校にたどり着いた。



多少遠回りになっても、もう少し静かなルートを探そうかな……。



僕がそんな風に、脳内で地図を広げていると――



「何だかただ普通に学校に来た感が否めないよね」



自転車に鍵をかけた遥陽が、不満そうに頬を膨らませながらタオルで汗を拭った。



「……そうだね。もっと近かったら歩いてでもこれるのに」



徒歩では片道でも最低一時間はかかる。さすがにそれは、僕も遥陽も却下するしかない。



「校内に入ったら会えないし、放課後は部活があって一緒に帰れないから、登校だけが凛くんと二人でいられる時間なのに」



「遥陽が終わるまで待っておこうか? バイトがない日だったら図書室とかで時間つぶせるし」



遥陽の言う通り、僕たちは同じ高校に通っているのに共有できる時間がかなり限られている。



まず文系である僕と、理系の遥陽はクラスが違う。選択授業もいくつかあるのだけれど、文系と理系が混ざることはほとんどない。



教室の場所自体僕が四階、遥陽が三階と異なっているんだ。小学校や中学校と違って、高校は同じ学年でも関わりがある人とそうでない人の差が非常に激しい。



入学してもうすぐ一年半、高校生活の折り返し地点になるが、僕自身、特に理系の人たちは未だに名前すら知らない人ばかりだ。



そういう意味では、僕と遥陽が三年生になっても同じクラスになることはない。どうして僕の親は僕を理系の頭に産んでくれなかったんだ。



……まあそんな言いがかりをつけたところで、現状がよくなることはないし。



「うーん、それだとちょっと凛くんに申し訳ないし…………あっそうだ!」



「どうしたの?」



「凛くんがうちのマネージャーになったらどうかな? そしたら部活中も一緒にいられるじゃん!」



名案だ! とばかりにポンと手を叩いた遥陽は、笑顔を浮かべて僕に擦り寄ってきた。



肩どうしが触れ合うか触れ合わないか。遥陽の白いカッターシャツからは、洗いたてのような柔軟剤の香りがする。



どうして同じ運動をしたはずなのに、こんないい匂いを保っていられるんだ――



ってそんなこと考えてる場合じゃない。



「さすがにそれは頼まれても嫌だよ。女子だけの部活にそんな不純な動機で入ったら、命がいくつあっても足りないよ」



僕が昔読んだテニスの漫画では、ラケットからビームや怪獣を出したり、ボールを相手に当てて吹き飛ばしたりしていた。



ここの部活の人たちがそれをできるかは分からないけど、それ抜きにしてもすぐに校内中にヤバいやつだという噂が回るのは明らかである。



「残念だなあ、私がちょちょいと根回ししたら入部できるのに。それに帰りは、いつも美帆ちゃんと帰ってたし……」



「あっ……そっか……」



「だからやっぱり凛くんは先に帰ってて。朝のこととかは、また次の休みの日に考えようよ!」



「うん、そうしよっか」



――そうこうしているうちに、僕たちは下駄箱で靴を履き替え校舎の中へと入った。



「……美帆ちゃん、今日は先に出てたの?」



「うん。僕が出る十分以上前には……」



「そう、なんだ……」



僕たちが到着した時点で、まだ始業まで十分ほど余裕があった。だから美帆はけっこう早い段階で着いていたことになる。



今までは僕より後に家を出て、ギリギリで滑り込んでいたのに、また余計なところで気を遣わせてしまった。



「じゃあ私はこっちだから」



「うん、また 」



三階に差し掛かったところで遥陽は進行方向を変更し、そのまま廊下側へと進んでいく。僕はあと一つ分上らなきゃいけない。



――美帆とはあれ以来、どう接したらいいのかわからずにいた。もう三日ほど経ったと思うのだけど、相変わらず美帆の僕に対する態度は今までと変わらない。



そんな事実は最初からなかった。全部が寝ぼけていた僕の勘違い。



時が経てば経つほど、あの唇の感触が実在しない幻であったのかと思ってしまうほどに。




そんなことを考えていると、自分の足取りが重くなっていることに気づいた。身体がこれ以上上がるのを拒否しているみたいだ。



それもそのはず。一年生である美帆は、一年校舎と言って一年生専用の校舎で授業を受ける。だからここでは鉢合わせる可能性はほぼない。



けど、僕のこの――二年五組にはもう一人、顔を合わせるのに気まずさを感じてしまう人がいた。



僕は後ろの扉から教室に入る。



奥の窓から二列目、後ろから三番目が僕の今の座席だ。



「――おはよう、長浜くん」



「……おはよう……九条さん」



そして――僕は窓際の席で本のページをめくっていた九条さんの隣の椅子を引いて、腰を下ろした。




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