第36話 美帆と華奈
***
学校に行くわけでもないのに、朝っぱらから雨の中を歩くのは骨が折れる。
義理の兄の凜玖は今日、彼女である遥陽を家に呼ぶと言っていた。そのため逃げるようにして外に出た美帆が向かった先は、長い付き合いがある友達の家だった。
元々会う約束はしていたから、突然押しかけてきたということではない。
「おはようっス、ひーちゃん」
「おはよう華奈ちゃん。こんなに朝早くからごめんね」
「全然気にしなくていいっスよ! ささ、上がって!」
「うん、お邪魔します」
玄関脇の傘立てに傘を差した美帆は、服に付いた水気を払い除けて中に入る。マンション住みの美帆からすれば、一軒家である達海家は何度来ても新鮮味が薄れない。
華奈の部屋は二階にある。家の中で階段を昇り降りするということが、美帆の普段の生活とは縁のない行動である。
「今日は誰もいないの?」
「親は二人とも仕事で、お兄ちゃんは受験勉強で学校に行ってるっス」
「そうなんだ……」
部屋の中は、なんというか本人の性格をそのまま再現したかのような煌びやかさを放っている。女性アイドルのポスターがいくつか壁に飾っていて、いろんな動物のぬいぐるみが至る所に鎮座していた。
そういえば、凜玖も最近ぬいぐるみを持って帰ってきていたことを美帆は思い出す。最近の高校生のトレンドなのだろうか。
「それにしても急にあたしに会いたいだなんて、ひーちゃんも寂しがり屋っスね~」
「会いたいんじゃなくて、直接話さないと埒が明かないって意味なんだけど」
「もう、そんな怖い顔はやめてっス。せっかくの美人が台無しっスよ」
美人と言われ一瞬頬が緩みかけたが、すぐに首を振って雑念を振り払う。
乗せられてはダメだ。華奈はすぐにかちらに都合のいいことを言って、自分のペースで話を進めようとする。いつもよくやる戦法だ。
それに客観的に見ても、美人で可愛いのは明らかに華奈だ――と美帆は思っていた。
今日は一切外に出る気はないのか、Tシャツに短パンといった非常にラフな格好をしていた。けどそれが逆に彼女の豊満な身体つきを強調していて、同性である美帆も思わず胸元や太腿の辺りに目がいってしまうほどに。
同い年で、しかも昔は一緒のはずだったのに一体どこで差がついたのか。自身の控えめな胸部に視線を落とした美帆は、一人小さな溜め息をつく。
「――それで、なんかいろいろ怒ってたけど今日はどうしたんっスか? コーラとカルピスどっちにするっス?」
「どうしたんっスかじゃないよ。コーラでお願い」
今日美帆が華奈の元を訪れたのは、新米カップルに気を使ったわけではない。というかむしろ、ずっと家にいて二人がいかがわしい事をしないか監視したかったぐらいだ。
ただそこは、奥手でシャイな凜玖を信じることにした。いくら誰もいないからと言っても、いきなり押し倒すようなことはしないだろう。
問題は遥陽の方から凜玖を襲うことだが、そちらの心配はあまりしていない。この間部活で、もうじき女の子特有のあれが来ると言っていたから、タイミング的にも自分から脱ぐようなことは恐らくない。
故に、今日二人の仲が物理的にゼロ距離に縮まるようなことはないのだ。まあ念のため、帰ったら部屋とベッド周りの匂いの確認ぐらいはしておくつもりだが。
「はいコーラどうぞっス。この前メッセージで怒ってたことっスよね?」
「ありがと、華奈ちゃんにはいろいろと訊きたいことがある」
美帆は手渡されたグラスのコーラを一気に半分ほど飲みほすと、折りたたみ式のミニテーブルの上に置いた。
「華奈ちゃん、美帆が好きな人とくっつけるように協力してくれるって言ったよね?」
「あー先輩っスね。あたしもあれは予想外だったんスよ。策士策に溺れるっていうか……」
華奈はバツが悪そうに、何もない天井を見上げた。美帆が凜玖に纒わり付く悪い虫を追い払うための協力をお願いしていたのは、華奈だった。
兄には嘘をついたことになるが、美帆は凜玖と華奈が同じレストランでバイトをしていることは前から知っていた。
間接的にとはいえ、凜玖が手を施した料理を食べられるのだ。行かない理由がないだろう。それにキッチンからだと客席の様子は見えないため、バレる可能性もかなり少ない。
何度か通っているうちに、たまたまホールスタッフとして華奈も働いていることを知ったのだ。
華奈とは、まだ美帆が凜玖と家族になる前からの友達で、高校に入ってバイトを始めたというのが聞いていたけど、まさかそんな偶然が起こりうるとは思ってもいなかった。
「それで、九条さんをあの人から遠ざけてくれたことには感謝しているよ。けどそれが何でこんなことになってるの?」
「んー……実はあたしもよくわかんないんスよね……」
「わかんない……?」
美帆の目から見ても、華奈はしらばっくれる演技をしているようには見えなかった。長年の付き合いからくる勘的な。本気で思い当たらないといった感じである。
「美帆たちの作戦は完璧だった。そうでしょ?」
「それは間違いないっス。例の九条さんには本命の人がいて、先輩は二番目。本命の人の気を引くため、さらには保険も兼ねて先輩と仲良くしていた。あたしが持ちうるツテと情報網を駆使して立てた作戦には穴がなく、ちゃんと成功した……はずなんスけど」
学外学内問わず多方面に顔が効く華奈のおかげで、凜玖が想いを寄せていた九条雛美は、凜玖以外にもよく二人で会っている男がいるという情報を手に入れていた。
それは美帆や凜玖と同じ学校の生徒で、九条の所属する書道部の一つ上の先輩だった。それさえ分かれば、あとは難しくなかった。
この学校には、華奈の兄も通っている。そして極度のシスコンである華奈の兄は、大好きな妹のためなら何でもする。
「まさかあたしも、あんな偶然があるとは思わなかったっスよ。お兄ちゃんと九条さんの先輩が同じクラスだったなんて」
華奈の兄に頼んで、部活のとある後輩に好かれていることを伝えてもらう。
文化系の部活動は体育系と違い、三年の秋まで引退はしない。最後の作品披露が、二学期の文化祭に行われるからだ。
それでお互いに顔を合わせる機会もあるはずだから、理由なんてなんだっていい。とにかくどちらかの耳に伝われば、あとはどうとでもなる。
元々両片想いだった二人は、書道部の先輩の方が、九条が凜玖と二人でいるところを度々目撃していたため、諦めかけていたらしい。九条の気を引く作戦が裏目に出ていたのだ。
だけど華奈の兄によって勘違いが正され、二人はすぐに恋仲となる。そうなったことで、九条からすれば凜玖はもう用済みだ。
美帆としても、しばらく凜玖に変な虫がつくことはないと胸を撫で下ろしていたとこだった。
「美帆だってこんなに思い通りにいくとは思っていなかったよ。だから油断したってのもあるけど……」
「……あたしはあのあとお兄ちゃんと二人で、全く興味のない映画を観に行く羽目になったっスけど……」
「それはほら……前パフェ奢ったからチャラにしたじゃん」
何だかんだ文句を言いつつも、美帆のために動いてくれた華奈と、その兄には恩がある。
ここまでやってくれたのだから、あとは自分で頑張って凜玖に一人の女として意識してもらうよう努力しようと思っていたのだが――
「先輩デレデレだったスよ。九条さんだけ警戒すればいいって言ってたのはひーちゃんの方なのに、何でそんなぽっと出のモブに取られてるんスか」
「それがぽっと出のモブなんかじゃないんだよ……」
「えっ、そうなんスか?」
「遥陽さんは兄さんの幼なじみで、美帆が兄さんと出会う前から兄さんと仲がよかったんだよ……それに美帆の部活の先輩でもあるし……」
「それはまた厄介な………………って今ひーちゃんなんて?」
「あ」
華奈が違和感に気づいたのと、美帆が己の失言に口を塞いだのはほぼ同時だった。
「確かひーちゃんの今の名字って……」
華奈が美帆と一緒に過ごしていたのは、まだ美帆の親が再婚する前。携帯の登録も下の名前でしているから、新しい名字のことなんて完全に頭から抜け落ちていたのだ。
そして凜玖の方も、華奈自身は常に先輩呼びだけど、福村含む他のバイトの人達が彼のことを何と呼んでいたか――
「……華奈ちゃんの思っている通りだよ。長浜凜玖は――美帆の好きな人は義理の兄さんなんだ」
すぐに気づかれると思っていたのだけれど、以外と華奈は抜けていたようだった。だったらわざわざ自分から言う必要なんてなかった。
義理とはいえ、家族である兄妹に恋するなんて、どう思われるかわからないから。
「そうだったん……スね」
「やっぱり変だよねこんなの。本気で好きになるなんて、気持ち悪いよね」
「……いや、血は繋がっていないからそうなっても別に不思議ではないと思うっスけど……」
思った通り、華奈は返答に困っていた。何とか頭をフル回転し、慎重に言葉を選んでいるのがバレバレだ。
華奈自身がそのことに対してどういう倫理観を持っているのかは置いといて、目の前の友達のことを傷つけないようにしているのは、明らかだった。
――思えば、自分の想いを他人に知られたのは華奈が初めてだった。
それだけで、美帆は胸の奥のつっかえが楽になった気がして、それを否定されなかったことが美帆に大きな安心感を与えていた。
そして気がつけば、視界が滲んで身体が勝手に動いていた。
「華奈ちゃん――」
「えっ、ちょっ、どうしたんスか急に泣き出して――」
華奈は、突如両目に涙を浮かべながら胸に飛び込んできた美帆を支えきれず、そのまま背中から床に倒れ込む。
顔を埋めて嗚咽を漏らし続ける美帆の背中をそっとさすってやる。運よくクッションが置いてあったところに頭をついたおかげで、華奈自身に痛みはなかった。
華奈は腐っても進学校の成績上位者だ。頭の回転も柔らかさも、そこら辺の人より遥かに優れている。
――美帆が今まで一人で抱え込んでいた秘密、その辛さをすぐに理解することができた。
「そうっスよね、しんどかったスよね……」
「美帆は、ずっと……兄さんのこと、が、好きで……、でもぜっ……たいに、好きって言えなくて……」
「何も言わなくていいっスから。あとでちゃんと全部聞くっすから」
「うっ……、華奈、ちゃん……」
過呼吸になるんじゃないかって心配なぐらい、美帆はずっと背中をヒクヒクとさせていた。
美帆が落ち着きを取り戻すまで、華奈は美帆の頭と背中に手をやって優しく撫で続けた。
「大丈夫っスよ、あたしはひーちゃんの味方っスから、次はその幼なじみさんから先輩を奪い取ってやるっスよ」
実は華奈には、一つだけ引っかかることがあった。本来なら気に止めるような必要のないこと。
このことを伝えれば美帆はまた悲しむことになるかもしれないけど、今の幼なじみの話を聞いて何かが繋がった気がしていた。
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