第35話 一夜明けて
あれから一睡もできなかった。
時間が経って意識がクリアになっていくにつれて、実は全部夢なんじゃないかって思ってしまうぐらいに、脳の中が混濁としている。
あるいは、現実を受け入れたくないという僕の潜在意識がそうさせているのかもしれない。
遥陽との唇を合わせるだけの軽いキスとは違う、吸いつくような激しい感触が今も尚残っている事が、全てを物語っているのか。
――あそこにいたのは、間違いなく美帆だった。
遥陽がこっそり侵入して……とかだったら、まだ笑って流せる話なんだけど、そんな都合のいい現実逃避をしたところで無駄だよね。
美帆が何であんなことをしたのかは分からない。酔っ払って――はさすがにないか。そもそも未成年で飲まないし。
もしくは寝ぼけてて、僕を誰かと間違えた……?
その線が一番高くて、妥当な気がする。彼氏と間違えて……とか。
けどそのどれもが間違いで、僕を僕と認識してでの行動だったとするならば、どんな顔をして美帆と顔を合わせればいいんだろう。
「何が何だかさっぱりだ……」
重たい身体を起こしてベッドから降りる。こんな状況でもお腹は減って喉が渇くし、トイレにも行きたくなる。
軽く顔を洗ってリビングに入ると、すでに美帆は起きていた。
「――おはよう兄さん」
「お、おはよう美帆」
僕を一瞥した美帆はいつも通り挨拶をすると、すぐに食パンにマーガリンを塗り始めた。
…………?
何も変わったところは見当たらない。普段の美帆だ。もしかして昨夜のあれは本当に僕の……。
「兄さんそんなところで何突っ立ってるの? ご飯食べないの?」
「あっ、いや……食べるよ」
僕は急いで自分の分の食パンをトースターにセットして、できあがるのを待つ。その間横目で美帆の様子を窺うも、特に普段と変わりない。いつも通り静かにテレビを見ながら黙々と食べている。
……益々自分の記憶に自信がなくなってきた。
昨日遥陽と何度もしたことで、変な妄想が夢と混じってしまったのか……? さすがにそんなことは――
「――兄さん、もう焼けてるけど」
「へっ? ……あっ、ありがと」
いつの間にかに食べ終わっていた美帆が、お皿を持って僕の肩を軽くつついた。美帆はそそくさと食洗機に食器を入れると、僕は入れ替わる形でテーブルにつく。
この機を逃したら、もしかすると美帆と二人で話す機会は、またとれなくなるかもしれない。
でも呼び止めて何を言えば……。朝食を終えたら、美帆はもうリビングに用はなくなる。
とにかく何でもいいから話を――
「美帆……あのさ」
「ん?」
「昨日……雨強かったけど、風邪とかひいてない?」
「友達の家にずっといたから大丈夫だよ」
「そ、そうなんだ……」
「兄さん、遥陽さんとのことで美帆に遠慮する必要はないからね。また言ってくれればちゃんと空気は読むし」
「いや、そういう意味では……」
「その分美帆も美帆で好きにやらせてもらうから」
「えっ……?」
「じゃあ」
――バタン。
リビングから出ていった美帆。結局僕は言いたいこと――というか、訊きたかったことを訊けずに会話は終了してしまった。
美帆はわざと、何もなかった風に装っている? だとすればとんでもない精神の持ち主だ……。
僕なんか、ろくに目を見ることさえできなかったのに。動揺しているのが美帆にバレバレだ。
「美帆のことが分からない……」
ただ一言だけでいいのに。その言葉が喉の奥で突っかかり、全く出てこようとしなかった。
そうすることで僕たちの何かが壊れ、もう二度と修復できないんじゃないかって、心のどこかで恐れていたのだろうか。
「どうして美帆は、僕にキスをしたの……?」
***
冷水を両手に集め、頬を叩くようにして顔を洗う。たとえ夏場であっても冷たいのは嫌いで、いつもはお湯でしているのだが、今日はそうでもないとやってられない。
「兄さん……」
タオルで拭き取り鏡に映った美帆の顔は、起きたばかりであることを差し引いても酷いものだった。
昨夜日課となりつつあった、兄である凜玖へのキスで、美帆は死に等しい感覚を味わった。
いつかバレる。そんなことは分かりきっていた。けど一度体験したそれは麻薬のように――当然だがやったことないから分からないけど、美帆の理性を奪い取ってた。
罪悪感を感じ、何度も踏み留まろうと葛藤したのは最初の一回目だけだった。
それがどれだけ悪い事だと理解していても、二回目以降は極端に抵抗感が薄くなっていたのだ。
――そして、慣れというものは非常に恐ろしいことだということを思い知る。
同じ動作を繰り返す工場のロボットのように、夜中に凜玖の部屋に忍び込むのが、美帆の中では当たり前になりかけていた矢先の出来事であった。
ベクトルが全く異なるが、この慣れは部活によく似ていた。中学のときはバスケット、高校ではテニス。最初は練習を覚えて身体に慣れさせるのに精一杯だったのに、気がつけばそれが自分の一部になっている。
部活の練習に限れば意味のない練習ととられてもおかしくは無い、考えるのではなく、脳が勝手に身体に指示を出して動かしているような感覚。
ボーッとしているわけではないのだけれど、頭の中が空っぽの状態。
美帆はそれプラス、頭の中にただ一つの欲望だけが渦巻いていただけである。一度解き放たれてしまえば、蓋をするのは不可能に近い。
凜玖が目を覚ましたのは偶然ではなく必然。いつかやってくるその日が、たまたま昨日なだけだった。そう考えれば、仕方ないと納得できる。
「あの様子だとやっぱり兄さんも覚えているよね」
瞼をピクピクさせながら、目を開けた凜玖はかなり寝ぼけている様子だった。だがそこで、美帆の方が動揺して声を漏らす失態をおかしてしまった。
それがなければ、もしかしたら――それはさすがにないか。
案の定先ほどの凜玖は、ずっと美帆の方をチラチラと見やりながら、落ち着きがなさそうにそわそわしていた。そういうところもちょっと可愛いなって思ってしまったのだが。
何年も内に秘め続けている兄への想い。これまでずっと隠し通しきたのだから、ポーカーフェイスで平静を装うぐらいは、文字通り美帆にとっては朝飯前だ。
きっと凜玖も混乱しているに違いない。彼のことだからきっと今頃、自身の記憶と格闘していることだろう。
「……でもこうなった以上、もうこっそりするのもできない。兄さんと遥陽さんがイチャイチャしているのを美帆は横で指をくわえて見ているだけ……」
美帆はそっと唇に指を這わした。ここで口をゆすいでしまえば、完全に兄との繋がりが絶たれてしまう気がした。
「嫌だ」
そんなことは絶対に受け入れたくない。歯を磨いたからなんだ。うがいをしたからなんだ。
もう一度――何度だって上書きすればいい。自分だけでなく凜玖だって同じだ。
遥陽と何をしようと、その上から何もかも塗りつぶす。遥陽が凜玖にやったのと同じことをして、白なら黒に、黒なら白に染め上げる。長浜美帆という存在を凜玖に刻みつけるのだ。
遥陽のことは慕っている。これは嘘偽りではなく、本当にそう思っているし、それは今でも変わらない。
――凜玖を自分のものにするためなら、他人を蹴落としてでものし上がるその執念は、美帆に尊敬の念を抱かせるほどに。
「兄さん……もし遥陽さんからの猛烈なアタックと同情心で付き合ったのなら――」
美帆は昨日、小学校からの友人と会って話していたことを思い返していた。
見た目はどこにでもいそうな今風のギャルなのに、美帆よりも数段上の進学校に通っているその子の名は、達海華奈と言う。
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