第15話 誘惑とぬいぐるみ


「達海さん……いや、あの…… 」



香水を振りかけているのか、達海さんの大人の甘い香りが僕の鼻腔を刺激する。



小悪魔的な艶やかな瞳で僕を誘おうとし、身体もほぼ密着している状態。達海さんの行動の意図が僕には読めない。



「先輩……どうっスか? 誰にも言わなければバレないっスよ?」



カラオケという誰の介入も許さない密室空間。加えて可愛い女の子に押し倒される寸前まで迫られる。



僕の理性は、徐々に達海さんの中に溶け込まれていきそうになっていた。



「いや……でも…………」



水晶のように透き通った達海さんの眼には、今の僕がどういう風に映っているのか。真っ直ぐに視線を送ってくる達海さんとは反対に、僕の瞳は揺らいでいるに違いない。



ほんの少しだけ抵抗を止めるだけで、僕は達海さんに全てを委ねることができる――







………………



…………



……



――――はる、――



――いやダメだ……!



「達海さん……! やっぱりそういうのは……!」



「わっ、ちよっとせんぱ――」



僕は両手の指先に力を込めると、何とか達海さんの肩を掴んで僕の身体から引き剥がした。



やや乱暴な形になってしまった。達海さんはお尻をついたまま後方へ倒れそうになる。



「あっ、ごめん達海さん――」



「……酷いっスよ先輩……。断るにしてもそんな強引にしなくても」



体勢を崩したのがソファの上だけで済んだことが功を奏した。僕も達海さんも怪我をすることなく、元の位置に戻ることができた。



「達海さん……僕なんかのためにそんなに身体を張ってくれるのはありがたいけど、こういうのはやめた方がいいと思うよ……」




「…………っ」




達海さんがどこまで本気で言っていたのか、僕には分からない。もしかしたら受け入れた途端に、『なにマジになっちゃってるんスか?』とか言って、この先ネタ扱いされていたかもしれない。



そうだとしても、僕は達海さんのおふざけも、善意の行為も受け入れていいはずがないんだ。



「……確かにふざけすぎたかもしれないッスね……すみません先輩……」



さっきまでの大人の態度とは一変して、シュンとしたか細い声音で達海さんが頭を下げた。別にそこまで謝らなくても……。



「ぜ、全然大丈夫だから……! そもそも達海さんみたいな魅力的な子が、僕なんか相手に本気になるなんて思ってないし! ちょっとからかってみただけだよね!」



「そっ、そうなんっスよ! だって先輩女の子の耐性ないでしょ! だからあたしが慣れさせてあげようって思っただけっス! ちょっといい流れと雰囲気だったっスから、ついあたしもその気になっちゃって……!」



はははっ~と歯を見せて笑いながら、頭をかく達海さん。やっぱりそうだったんだ。いくら陽キャでもさすがにやりすぎだとは思うけど……。



……僕がかなり揺らいでしまったことは絶対に言わないでおこう。








――達海さんに見つめられて僕の中の何かが決壊する寸前、その瞳がなぜか別の何かに重なって見えたのだった。



それはつい先日、僕の部屋の一員となったあの人工的な真っ黒な目と同じだった。



そのことを意識した瞬間、僕の脳と目が認知したのは達海さんの整った顔立ちではなく、あの何を考えているのか分からない無表情なクマのぬいぐるみだった。




今度はそのぬいぐるみが、遥陽の顔に変化した。



いつものポニーテールを揺らしてはにかむ遥陽ではなく、少し不安が入り交じった面持ちで僕に対して想いを告白した、あの淡い表情の遥陽。



その瞬間、僕はとんでとないことをやろうとしていたことに気づいた。



遥陽の優しさに甘え、遥陽の覚悟と気持ちを踏みにじって弄ぼうとしていたことに。



まさかあのぬいぐるみに、こんな形で助けられることになろうとは露ほどにも思っていなかった。












「……達海さん、早いけど出よっか」



多分まだ入店してから三十分ほどしか経っていない。けど元々歌ってはしゃぐために来たわけではないし、かといってこれからマイクを手に持つ空気でもなかった。



達海さんには申し訳ないという思いが強かった。達海さんから突っ込んできたとはいえ、そもそもは僕個人の問題なんだこれは。



やっぱり僕がウジウジしていたことが原因で、結果的に達海さんにあんなことをさせることになったのかもしれない。




「……そうっスね。先輩先に出てもらっていいッスよ。あたしはもう一杯何か飲んでから出るっスから」



「えっ、じゃあ僕がなにか……」



「大丈夫っス。先輩は妹さんが待ってるんで先に帰ってください」



達海さんは何とかして笑顔を取り繕っている――僕にはそういう風に感じ取れたけど、それがただ疲れているからなのかどうかまでは、判断はできなかった。



財布を取りだした僕が立ち上がって言いあぐねていると、達海さんは僕の背中を押して、『じゃあまたバイトでっスね!』と半ば無理やり退室させられてしまった。



その時に一応千円札を達海さんの手に握らせておいたけど、もしあのあと気が変わって何時間も滞在していたのなら、また次会った時追加で払おう。



いくら達海さんからすれば冗談半分とはいえ、僕が少し強めに拒絶したのはちょっとまずかったのかな……。



今度またシフトがかぶった時はいつもの達海さんに戻っていてくれればいいな――



そんなことを考えつつ、僕は自転車をこいでマンションを目指した。









***



「ただいまー」



玄関の扉を開けて中を確認したけど、まだ父さんと母さんの靴はなかった。



「……兄さん? 思ってたより早かったね。カラオケに言ってたんだよね?」



美帆に連絡をしてから一時間弱。不思議がるのも無理はない。けどありのままを言うわけにもいかないし、何とか上手い具合に誤魔化せないだろうか……。



「ま、まあ……喉の調子がちょっと……ゴホゴホッ」



「えっ、風邪? 大丈夫なの兄さん? 薬あったかな……」



「あっ……美帆――」



僕がわざとらしく喉を抑えていたのを美帆が過剰に反応してしまった。わざわざ玄関まで出迎えてくれていた美帆はすぐに踵を返し、リビングに置いてある薬箱を漁りに行った。



「そんな薬なんて飲むほどじゃないから大丈夫だって」



だって喉なんて痛くないし……。もうちょっとマシな嘘をつけばよかった。相手に急用ができたとか。



「でも風邪は喉からって言うし。今は大丈夫でも明日になったら熱が出てるかもしれないよ。はいこれ、ちゃんと飲んでね」



と言って、美帆は風邪薬の錠剤を僕に手渡してくる。



「お水も用意しないとね。えーっと兄さんのコップは……」



薬箱を台所の奥にしまった美帆は、律儀にも食洗機から僕のコップを取り出して水を注いでくれた。



どうしようこれ。こういう市販の薬って体調がどうもないときでも飲んで大丈夫なものなの……?



「はい兄さん、これお水」



けどここまでお世話をされて、実は風邪なんて嘘ですよー、なんて言ったら多分一生口をきいてくれなさそうな気がする。



僕はロボットのようなぎこちない動作で、美帆からコップを受け取り――







「――兄さん……なんか変な匂いがする。何で兄さんからこんな女物の香水の香りが漂ってるの」



僕がコップを持ったはずなのに、美帆はなかなか手を離してくれなかった。



「……美帆?」



コッブの中の水の表面が凍りついているように見えるんだけど、さすがに気のせいだよね。



「……兄さん、もしかして一緒にカラオケに行ってたバイトの後輩って女の子なの?」



……これは、どう答えるのが正解なんだ?

正直に言うか、言わないか。



美帆の声に微量の怒気が含まれているのは、何か美帆の癇に障るようなことがあったからなんだ。少なくとも病人(仮)に向ける目ではない。



誰か体温計を……。多分今美帆の体温を測ったら十五度ぐらいになってるかも。



「いや……男、だけど。なんかあそこのカラオケ廊下とか匂いキツくて……そのせいで服に染み付いちゃったのかな」



……また嘘を重ねてしまった。もう後に引けないぞ僕。かと言って達海さんとのことを美帆に説明するには、遥陽とのことも話す必要が出てくる。



遥陽からは、美帆にはまだ言わないでおいてとお願いされているから、僕の失態で困らせるようなことをしたくはない。



「…………ふーん、そっか。なんかその匂い美帆嫌いだから、早く脱いでね。洗濯するし」



「わ……分かったよ」



何とか乗り切れた。まだ美帆が何か言っていたような気がしたけど、僕は耳を閉じてコップと薬を持ち、逃げるように自室へ滑り込んだ。



やれやれ……今日もハードで刺激的な一日だった。



部屋の電気をつけた僕は、とりあえず勉強机の上に薬を置き、水だけを飲み干した。こっちの錠剤は後でこっそり元に戻しておこう。



「……やっぱりこいつはいつも同じ顔をしているな」




遥陽がゲットしたのだから、そのまま持って帰りなよと言った僕だったけど、遥陽からは僕が答えを出すまでは預かっていてほしいって言われた。




何でかは不明だったけど、僕としても断る理由はないし結局これは僕が持って帰ることになった。




机の脇で短足を広げて座るクマのぬいぐるみは、僕に対して何かを言いたそうにこちらを見上げていた。







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