第3話 兄妹
夢……ではなさそうだ。
僕と美帆の互いの距離は、十五センチの定規が入るか入らなかいかぐらい。
僕は美穂の手をゆっくり払いながら起き上がり、その際に見つけたスマホで、今が夜の七時を回ったところだと把握した。
これは一体どういう状況なのだろう。確か僕が洗面所から出て部屋に戻るときは、美帆はリビングいたはずだ。廊下に出たときテレビの音が聞こえてきた記憶がある。
それから俺の意識はすぐに暗転したため、眠っていたのは恐らく一時間ちょっとぐらい。
何が何だか分からないけど、こんなところ親に見られたら大変だ。
部屋の明かりをつけると、それまで規則的な吐息を繰り返していた美帆がモゾモゾと動き出した。
「んっ……」
美帆は可愛らしい小さなあくびとともに、眩しそうに目をこすりながらキョロキョロと辺りを見渡していたが、やがてその目線の焦点が僕に定まり、目を細めた。
「あっ、おはよう兄さん」
「……いや、おはようじゃないんだけど……」
「そうだった、こんばんは? でいいのかな」
「いやいやそういう問題じゃなくて。ここ僕の部屋なんだけど、何で美帆が僕のベッドで寝てるのさ」
――途端、状況を理解したのか美帆の顔が紅潮していく。
だがすぐに、自分が普段家で着ているジャージ姿であることを確認すると、ホッと胸を撫で下ろしていた。
気にするのはそこか?
「これにはちょっと理由があって……」
「そりゃあ理由なしに潜られては困るからね……」
「……今日の兄さん、朝はすごいうきうきしていたのに、さっき見たら今にも飛び降りるんじゃないかってぐらい虚ろな表情を浮かべていたから……だから、早まらないように美帆がそばについていなきゃって思っていたらいつの間にか……」
「それで僕につられて寝てしまったのか。……僕そんなに酷い顔してた?」
確かに美帆の指摘通り、今日僕は人生の中でも五本の指に入るぐらいの絶望を味わった。
それが美帆が一目見て気づくぐらい、外面的にも表れていたということか。
「うん……こんな兄さん初めて見たよ。勝手に横で寝たのはちょっとやりすぎたかもしれないけど、でもそれぐらい本当に心配だったんだから」
うつむき加減で、胸の前で手を握る姿の美帆を見れば、さすがに僕も怒ったりはできない。
美帆はただ本当に僕のことが心配だったのだ。故に美帆の取った行動の原因は、僕にある。
「そうだね。美帆の言う通りちょっと……というか、かなりショックな出来事があったんだ。けどさすがに身を投げるほどではないよ。毎回そんなことしてたら、命がいくつあっても足りないし」
僕らが住んでいる部屋は六階だ。運が良くても悪くても、救急車に乗せられるのは避けられない。
僕は苦笑いを浮かべながら冗談交じりにそう言ったが、美帆にはあまり通じていないようだった。
「兄さん目が全く笑ってないよ。何があったの? 彼女に振られでもした? ……って兄さんみたいな女っ気なさそうな…………えっ、な、なにその反応!? まさか本当に――」
僕が一瞬ピクっとしたのを美帆は見逃さなかった。
地を這うよにして美帆がベッドから飛び降りる。獲物を見つけた肉食動物のような反応速度だ。
僕は思わず身構えながら、後ずさりする。
「み、美帆……近い近い顔が……」
部屋の入口付近にまで後退した僕だったが、美帆は逃がさないぞと言わんばかりに僕に接近し、端に追い込んだ。
身長は頭一つ分離れていているはずなのに、なぜか僕の方が見下ろされている気分だ。
「兄さん、美帆はちゃんと見てたよ。今美帆が彼女に振られ――って言ったとき、両目の瞼が不自然に上がって、肩に力が入ってたよ。さあ、ちゃんと説明してもらおうか」
ここまで来て誤魔化すのは無理があるか。
「説明……しないと駄目なのか?」
「だめ。兄さんは美帆を心配させたんだから、きっちりそれに対して説明する義務があるんです」
何で急に不機嫌になったのか分からないけど、美帆の言い分自体は正しく思えた。
「分かった、分かったからちょっとだけ離れて、ね?」
―― 何とか興奮した様子の美帆を落ち着かせ、二、三歩距離を取った僕は、今日一日の出来事を美帆に話した。
「――ということだから、そもそも九条さんは僕が勝手に想いを寄せていただけで、そして勝手に僕が失恋したんだ。告白もしてない、彼女とかそれ以前のものだよ」
「……そうだったんだね。ごめんね兄さん、なんか辛いことをまた思い出させてしまって」
「別に気にしてないよ。逆に誰かに話せて少しだけスッキリできたし。僕の方こそごめんね、こんなことで心配してもらって……」
「少しでも兄さんの気が晴れてくれてよかった。兄さんの魅力に気づけない人なんて、こっちからお断りだよ」
と、美帆はようやく納得してくれたのか、僕から離れ部屋を出ていこうとした。何やら最後の方にムスッとしていたが、兄妹ジョークとして受け流しておこう……。
そして扉の取っ手を握り、顔だけをこちらに向けて――
「――もし兄さんが彼女ほしいってなったら、美帆がいつでもなってあげるからね」
子悪魔的な笑みを浮かべた美帆に対して、僕はかぶりを振りながら答える。
「何を言ってるのさ、僕たち兄妹だよ」
僕を元気づけるにしても、もうちょっとマシな冗談を思いつかなかったのか。
やれやれ……。
僕は扉を開けて出ていく美帆の後ろ姿を見やりながら息を吐くと――美帆はふと立ち止まると今度は顔すらこちらに向けず、声だけを僕に届けた。
「――でも美帆たち血は繋がっていない義理の兄妹なんだから、何も問題はないよね」
……やれやれ。
あんまり笑えない冗談を言われると、反応に困るんだけどな……。
僕はドスんとベッドに腰を下ろすと、そのまま大の字になって仰向けに寝転がる。
男部屋には似つかわしくない、仄かな甘い香りが枕元から漂っていた。
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