仮面女とじこちゅー女

キノハタ

自分が大事な、そんな人

 とある昼過ぎのこと、ふと私は散歩に出かけたくなった。


 息苦しい部屋から抜け出して、陰鬱な心から抜け出してどこか遠くへ。


 そうすれば、今のこの胸の奥の痛みがどこかに行くような気がしたから。


 何かに急かされるみたいに、コートだけを羽織って部屋着のまま外に出る。


 習慣で、部屋の鍵と使い捨てのマスクをひっつかんで、ドアを開けた。


 古い金属製のドアがどことなく、耳障りな音を立てて開いていく。そしてドアが開くと同時に私の足を襲った寒気に、思わずうっと呻きがもれた。


 顔をしかめて、使い捨てマスクの包みを破って、口元に結びつける。プラスチックの包みはコートのポケットに入れて、気持ちがたじろぐのを感じながらそのままアパートのドアを開けた。


 その日は、酷く、寒い日だった。


 空は朝からずっと暗くて、陽の光の一つだって差していない。


 そのうええらく風が吹くから、コートの内側の部屋着が風を通して酷く肌寒い。顔だけはマスクで寒さから守られているけれど、私はどうにもこのマスクというものが嫌いだった。世間の都合上、もう二年以上つけているはずだけど、未だに吐き気が詰まるような不快感が消えてくれない。


 息苦しい、ということが、私はどうしようもないくらい苦手だったみたいだ。


 そんな感じでドアを開けて十秒ほどで、外に出たことを後悔した。でも、もう遅い。今更部屋に戻る気にもなれない。


 戻りたくもないのに、先に進みたくもない。


 ただ、立ち止まっているわけにもいかないから、妥協案で先に進む。足を動かしていれば、少しは寒さもマシだろうと。


 寒空の中、私はふらふらと独り、歩き出した。


 どことなく、もやもやとした満たされないものを感じながら。


 宛てもないままに、休日の街へと向かっていく。


 そして、そびえたつアパートの谷を抜けながら、ぼんやりと胃が滲むような痛みを感じていた。


 普段、誰かの前に立つときに顔に貼り付けている笑顔は、今はどこにもない。


 何かを睨むように目を細めながら、何かを恨むように歯を食いしばりながら。


 私は独り歩いてた。




 独りで歩いて居たかった。




 居たかったんだけど。


 家から大分はなれたコンビニでそいつと出会ってしまった時、私は思わず顔を歪めた。


 胃の痛みが酷くなって、胸の奥までムカムカとしだしてくる。


 そのまま踵を返して店を出ようかとも思ったが、運の悪いことに向こうもこっちに気付いたみたいだった。


 「あれ朝倉さんじゃん、家、こっちだっけ?」


 「あ、奇遇ですね。八木さん。いえ、散歩でたまたまこっちに寄っただけですよ」


 内心をひた隠しにしたまま、笑顔を頬に貼り付けて私がそう返すと、件の奴、八木は楽しげに私に手を振った。


 「そうなんだあ、私はこっちに住んでるからさ。今、子どもは旦那に預けてるんだよねー。大人女子の独り時間、みたいな? たまにはこういう時間も必要だよねー」


 「あー、子育てしてると大変ですよね。独り時間なんて、全くなさそう。で、何してらしたんですか?」


 胃の煮えくり返りを抑えながら、口を動かす。ただそれだけに、全神経を集中する。


 「色々と迷った末にさ、コンビニコーヒー買って公園で独りでお茶しばこうかなって。近くにいい自然公園あるからさあ」


 「そうなんですか、素敵ですね。どこらへんの公園までいくんですか?」


 「こっから、10分くらいかなー。ちょっと歩くけどね、よかったら来る?」


 誰が行くかよ、畜生。


 「あはは、どうしましょうかねー」


 少し濁して、それから用事を思い出したふりして、さっさと逃げよう。


 「あ、


 …………。


 「いえ、そんなことないですよー。あ、この後、用事があるので、30分くらいならご一緒できます。でも、折角のおひとり時間なのにいいんですか?」


 「あ、そう? 悪いね、そっちも気晴らししてたっぽいのに。本当に嫌だったら言ってね? 私こんなんだからさー、もうちょっと遠慮しろってよく旦那にも怒られちゃう。……じゃ、お言葉に甘えて一緒にごーごー! 独り時間って言ってもいざ独りになると寂しくなっちゃってさー」


 「…………」


 ああ、ああ、ああ。ほんと。


 「お礼に何か奢ってあげよう。


 笑顔の裏で、奥歯を割れそうなほど噛みしめた。


 そうやって、無駄に私という人間に興味を抱こうとするんじゃないよ。


 どうせ、あんたはーーー。



 ※



 八木は、職場で四つ上の先輩だ。


 既婚者で四歳の子どもがいる。明るくて活発、外向的でエネルギーに満ち溢れ、人好きする性格だ。


 隙があれば、子どもと旦那ののろけ話。ただ仕事はよくできるから、周りもそれをやんわりと受け入れている。子どもが保育園に入ったのを契機に、私の職場に入職してきて、あっという間に会社になじんでいった。そんな人。


 それだけであれば、別に他愛のないそんな人。


 どこにでもいる、明るい人。



 「朝倉さんって、



 そんな一言を昨日の飲み会で言うまでは。


 


 ※




 「朝倉さんって、なにかと隠したがりでしょー? そういうの見ると、私、ムキになっちゃっていっぱい観察しちゃうんだー」


 クソが。


 「あ、それでね。この前、朝倉さんのいいとこ見つけたよー? 遠山さんがミスしてた書類、こっそり直してたでしょ。あと部署の忘年会でも、食事の片づけみんなが見てない間に済ませちゃってたりねー。こっそり優しいよねー?」


 クソが。


 「あと、目の前のことに夢中になると、ちょっと周りが見えなくなるよね、スイッチのオンオフが激しいって言うか。そういう時、邪魔されたらちょっとイラッてしちゃうでしょ。そういうのちゃんと感じちゃうんだー。私、感受性が強いからさー」


 ああ、もう。


 「あ、ごめんね、ぺらぺらと。もしかして、怒った?」


 「ーーーいいえ。でもすごい観察力ですね。なんだか、ちょっと恥ずかしいです」


 ああ、ほんと、死ねばいいのに。



 


 ※





 人の営みの中で生きていくうえで、秘密があるのなんて自然なこと。


 誰だって、言えないこと、伝えられないことを抱えながら、やり過ごしながら、生きている。


 それは誰だって、同じこと。小さな子どもも、自信満々な仕事人も、人生経験豊富な老人さえ、誰だって。そうやって想いを秘めて生きている。


 そんなのはきっと、当たり前のこと。それが人が生きていくうえで見出した術なのだから。


 外向けの皮を丁寧にかぶっている限り、その中身については触れていけない。その心の底は見せなくてもいい。それが社会の暗黙の掟。


 私のような醜い愚か者も、丁寧に人のためにしている限り、支障なく生きていける。


 だから、私はいつもよく笑って、楽しげに仕事をして、よく人を助けて過ごしてる。


 社会という歯車を回すうえで、大事なのはその外見、被る皮。


 たとえ、人間のふりをしたロボットが、仕事をしていたとしても。ちゃんと仕事がなされているのなら誰にだって文句はないはずだ。


 その中身が何者か、気づきさえしなければ、誰にだって文句はないはずだ。


 だから、私は、私の心をひた隠しにしていたんだ。決して誰にも気づかれないように。


 本当は人の心などないのだと、バレないように。



 そうして生きてきていた、のだというのに。


 この女はその境界を易々と踏み越えてくる。



 「朝倉さん、内向的だよね。あ、悪い意味じゃなくてね、自分の『中』の感覚にすっごい敏感な人でしょ?」


 ええ、お察しの通りですよ。


 公園のベンチに座って、手にカフェオレを握りしめながら、八木の私の観察結果を聞いていた。


 15分程、とめどなく。そこまで言われる頃には、私の心はすっかり冷え切っていた。身体の方も随分と冷たいはずなのに、なんでか手足の先よりも、胸の奥の方を冷たい感覚が執拗に犯してくる。




 「それで、実は、あれでしょー。



 そうして、その言葉を聞いたとき。


 私はただ、自分の頬から笑顔がすっと剥がれ落ちる感覚を感じてた。






 ※



 私の興味は、主に私の、私自身の心に向いていました。


 私は、私の想いに、願いに、希望に、絶望に、悲嘆に、衝動に興味がありました。


 私の心より、大事な物なんて、この世のどこにもありません。


 私は誰より私が大事なのです。


 でも、そんなこと口にしてはいけません。


 だって、社会は他人のために。だって、仕事は誰かのために。


 それを当然として、それを暗黙として社会は成り立っているのでしょう。


 ただ、私は心の底から、そこに興味を抱くことは出来ないのです。


 自然と他人に優しくしていると人を見ると、なんだか胸が痛くなります。


 何気なくお互いに興味を持っている人たちを見ると、頭の奥が熱くなって恥ずかしくなってしまいます。


 私は、そんなに自然とできないのに。無理をしないと、できないのに。


 ごめんなさい。こんな私で、ごめんなさい。


 優しい行動をとっていれば、他人に優しくなれると聞きました。


 だから人に優しくしました。そうすれば優しい人間になれると、誰かを自然と助けられる人間になれると信じていました。


 だけど、いくら他人に優しくしても。行動ばかり優しくなるけれど、中身に変化はありません。


 私にとって私の心が一番、大事なことには何も変化がありませんでした。


 だって、私の心は、自分の感覚でいっぱいになると容易に他人を押し出します。


 周りのことなんて、簡単に見えなくなって、必死に自分のことばかり守ってしまうのです。


 辛ければ、それで手一杯。苦しければそれで手一杯。喜びも、怒りも、悲しみも。容易に私の心を埋め尽くしてしまいます。


 こんな自分は社会で生きていく資格がないのかもしれない。わがままで、自己中で、なんてみっともなくて耐え難い。


 こんな私じゃあ。


 そして、社会で生きていくうちに、私以外のわがままな人もたくさん見てきました。そういう人たちが、周りにどういわれるかもたくさん、たくさん見てきました。


 そうして、そういった人たちがついぞ孤独で、やがて誰かに見捨てられるのも、私はじっと見てきました。


 それは、それだけは嫌でした。


 自分にしか興味のない私だけれど、狂しいことに、誰かから好かれてはいたいのです。


 自分は他人に興味がないくせに、誰かから好きになっては欲しいのです。


 与える愛がないくせに、自分は愛が欲しいのです。


 渡す優しさもないくせに、自分は優しさが欲しいのです。


 酷く身勝手な話でしょう。私も、そう想います。


 だから、この想いは、こんな私は、じっと蓋をして塞いできたのです。


 知られるわけにはいかないから、見捨てられたらいやだから。


 何も知らぬ顔をして仕事して、何食わぬ姿で喋ります。


 皮をはぎ取れば、人に相応しくない機械のようなものですが、皮をまとっている間は誰にも迷惑などかけませんから。


 こんな私を解って欲しいとは思うけど、同時に解かられてたまるものかとも想います。


 解られてしまえば、私は嫌われてしまうから。


 だから、私は、人に自分のことなど知られたくはないのです。


 特に、容易く人と交わって、容易く誰かに興味を抱くとができるような輩には。


 私が羨むような輩には。


 解られてなんてたまるものですか。


 だって、そういう明るい人はだいたい決まって、自然と他人に好かれてしまうから。


 そう、そういう人は、大概、決まって。


 

 



 私を一番に愛してはくれないのですから。



 私を解ってくれるのは素敵だけれど、私の一番にはなってくれないのです。



 だから、そういう人は嫌いです。儚い夢を見せてくるから。



 もしかしたらこの人になら私の全てを明かしてもいいかもしれないと、そうして私を一番大事にしてくれるかもしれないと、そう期待してしまうから。



 勘違いして好きになってしまいそうだから。



 だから、こういう人は嫌いです。



 まったくもって、本当に。




 ※




 「ふー、おしゃべり出来て楽しかった。ありがとね? うーん、私、こういう分析楽しいから、ついしちゃうんだあ。あ、やば、そろそろ戻らないと、旦那と子どもが待ってる」


 「……そうですか」

 

 公園のベンチでぐーっと体を伸ばしながら、八木さんは楽しげに私に笑いかけてきた。この人が、会話の最中に言い当てたことは大概真実で、些細な癖や口にしていない感情すら意地悪なほどに的確に読んでくる。まだ、全てはバレてはいないけど、私の心の内が見透かされるのも時間の問題かもしれない。


 「ふー、喋った喋った。またなんかわかったら報告するねー。そろそろ時間でしょ?」


 「それはどうも、お手柔らかにお願いします」


 「あははー、手加減しないよー? 旦那もそうやって堕としたんだから」


 「あはは、なんですかー、それ。プロポーズ?」


 そんなやり取りをしながら、それとなく私はベンチから立ち上がる。


 気づけば、胸の中のもやもやは消えていて、不思議と落ち着いた気持ちだけが残っていた。


 さて、色々とバレてはしまったけど。


 こんな気持ち、あなたはきっと知る由もないのでしょう。


 まあ、仮に知ったところで、認めなんてあげるものですか。


 叶わない恋はしない主義なのですから。


 「朝倉さん、楽しかった?」


 あなたは、少し意地悪な顔をして、笑いながらそう私に尋ねてきた。


 だから、私も笑顔で返す。


 それから、心の底から言ってやる。



 「 



 少し呆けるあなたを眺めた後で、私は笑って言葉を付け足した。


 「ウソですよ」


 それから、軽く舌を出して、片目を下げて、笑いながらあなたを置いて歩き出した。


 ああ、まったく清々した。


 でも、本当のことを口にするのは少しばかり清々しい。


 そして、私は結局、私のことばかりを抱えたまま。


 あの人が好きかどうかなんて、まあ、言わぬ花という奴でしょう。


 一生言う気もないけれど。


 このまま独りで歩きだしたら、ちょっとは気分よく帰れるかな。






 なんて思っていたけれど。



 肩をぽんっと叩かれて、振り返るとあなたは酷く楽しげに笑ってた。今日一番の笑顔を私に向けて。


 「ね、今から飲みに行こ」


 「イヤです。ていうか家族が待ってるんでしょ?」


 「私、朝倉さんのこともーっと好きになっちゃった。本音の時、いい顔するじゃん! 旦那には今度埋め合わせするから大丈夫!!」


 「知りません! イーヤーでーす!!」


 「駅前のとこでいい? 私一杯、食べるから食べ放題美味しいとこがいいんだよねー」


 「人の話きけーっ!! このっ、じこちゅ女ーっ!!」


 嘘もほんとも、優しさも。夢も期待も、私の心も。


 曖昧なまま、私たちはそのまま歩き出した。


 少しだけ軽くなった胸を抱えて。


 寒空の公園の中を、女二人で。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

仮面女とじこちゅー女 キノハタ @kinohata

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説