赤い夕陽は目に染み、赤いきつねは心に染みる

鈴木りん

赤い夕陽は目に染み、赤いきつねは心に染みる

 あれほど目に眩しかった桜も散り、浮かれ気味だった街は落ち着きを取り戻した。

 ひとり暮らしを始めて一週間の僕は、部屋にひとり。

 浮ついた気持ちはまだふわふわとしたままで、ここでの『日常』が板についたとはとても思えない。


 とはいうものの、やっぱりひとり暮らしは自由でいい。

 それは、この部屋に引っ越してきた直後から実感できたことだった。第一志望の公立大学に何とか合格できた僕は、風光明媚な田舎町にある実家からいくつもの大学がある都会へと脱出に成功した、という訳である。

裕司ゆうじ、宿題は終わったの?』

『裕司、いつまで寝てるの!』

『裕司――朝ごはんはちゃんと食べなさい!!』

 こんな感じで、生まれてからの十八年間、毎日ずっと聞かされてきた母さんの小言から解放されたのだ。

 そう思うだけで、随分と気持ちが軽くなる。


 けれど――。

 母さんには感謝はしている。当然だ。

 僕が物心ついたときには、もう父さんは家にいなかった。若くして発症した、とある難病で亡くなってしまったからだ。シングルマザーとなった母さんは、まさに身を粉にして働き、僕を育ててくれた。そんな母さんを悪く言ったら、それこそバチがあたるだろう。

 でも――。

 勉強しなさいとガミガミ言われることもなく、昼までぐだぐだ寝ていても怒られず、珈琲一杯で適当に済ませる朝食に文句を言われることもない、平穏な日々。

 ああ、なんて素敵な『お節介』なしの生活なのだろう。

 自由、万歳! No more osekkai!


 そんなことを考えつつ部屋の片づけをしていると、肌にひんやりとしたものを感じた。部屋に埃がたつのが嫌で、窓を開けて作業をしていたのだ。

 もう、片付けも最終段階。

 ほぼ荷物の片付いた部屋をぐるりと眺め、その整然とした様子に惚れ惚れとした気持ちになった僕は、夕方の冷たい外気が無防備に入り込んでくる窓を閉めるため、アパートの窓際へと移動した。


「うわあ……意外と綺麗じゃん、都会の夕陽って」


 窓を閉めるつもりが、そこから見渡せる夕陽の景色に見入ってしまう。

 都会の街並みをモノトーンに染める夕陽は、思ったより澄んでいて、肌に柔らかかった。赤い光線は瞳の奥にまで達し、僕の視界を茜色に染め尽くした。

 思えば、ここに引っ越して来てから一週間、夕陽など眺める余裕などなかった。けれど今は、アパートの二階窓から眺める夕陽が目に染みている。

 僕の心に、少しは余裕ができたという証拠なのだろう。


 と、不意に雷のように低いトーンの音が、ごろごろと鳴った。

 空は晴れているのに変だな――と思ったが、それが実は自分のおなかから発せられた音だったことにすぐに気づく。そういえば、部屋の片づけに夢中になっていたせいで昼から何も食べていない。きっと僕のおなかが、そんな状態に耐えきれなくなったのだ。


 音がご近所にまで聞こえてしまったのではないかと冷や冷やしながら窓を閉め、新品の料理器具の並ぶキッチンへと向かう。

 昼間に比べると、だいぶ暗くなったキッチン。

 紐を引っ張ると点灯するちっちゃな蛍光灯の上にある戸棚に手を伸ばし、僕はその中をごそごそと探った。


 ――ない。


 愕然とした。

 なぜって、いつもなら戸棚にあるはずの『赤いきつね』がそこにはなかったからだ。

 だが、その疑問は数秒後に解決する。


 ――そりゃそうだろ、ここは実家じゃないし。


 いつもなら――いや実家なら、学校から腹を空かせて帰って来る僕のために、母さんはいつも『赤いきつね』をキッチンの戸棚に用意してくれてた。けれど今は、それがどこにも見当たらない。

 当然のことだ。

 ひとり暮らしの生活では、自分がそれを買わない限り、部屋にそれは存在しないのだから。


 赤いきつねを諦めた僕は、他に何かおなかを満たすものはないかと自分の部屋を物色した。けれど、何もない。

 今日は買い物もしていないし、ある訳がないのだ。

 外に出て買い物をする決意をした、僕。

 深い溜息とともに部屋着から外着へと着替えを始めた、そのときだった。玄関の呼び出しチャイムが鳴ったのだ。


「宅配便です」


 ドアを開ければ、そこには僕より少し上の年齢らしき配達員のお兄さんが立っていた。

 絶対に落とすまい、といった感じで大事そうに抱えていた段ボール箱を僕に手渡したお兄さんのその目は、なぜか本物の兄のような優しさで満ちている。


「そのお名前で間違いありませんね?」


 貼られていた宛名シールには、送り元として実家の住所と母さんの名前があった。配達員の目の優しさの原因は、きっとこれだったんだろう。

 新生活を始めた僕への、彼からのエールなのだ。


「あ、はい……間違いありません」


 それを聞いた配達員は、満足そうに頷くと帰っていった。

 なんだか恥ずかしい気持ちが沸き上がったけれど、とにかく母さんからの荷物を部屋に入れ、玄関の扉を閉める。

 改めて持ち上げてみると、それはなかなかの重さだった。


 ――なんだよ。もう子供じゃないし、ほっといてくれればいいのに。


 減らず口を心の中で叩いた僕だったが、早速、荷物を開けにかかる。

 荷物に入っていたのは地元の名物とかじゃなくて、この辺のスーパーでも買えるような普通の物ばかりだった。コメや味噌にお茶漬けの素、そして袋菓子まである。

 その中に――やはりあった。

 先ほど僕が、この部屋で不覚にも探し求めてしまった『赤いきつね』が3つも!


 ――母さんには、敵わないな。まるで魔法使いだ。


 早速、新品のヤカンでお湯を沸かしにかかる。

 しゅんしゅんと音が鳴るのと同時に赤いきつねの容器にお湯を注ぎ、待つこと五分。恋焦がれた待ち遠しい時間を乗り越え、「さあ食べよう」と蓋をはがした、そのときだった。

 段ボール箱の中に、一枚の紙っぺらが入っていることに僕は気付いた。


『裕司、元気にやってますか? 毎日私の帰りが遅く、いつも遅い晩御飯になってしまったこと、今でも申し訳なく思っています。でも、赤いきつねのお陰で、あなたがひもじい思いをしなくて済んだこと、それが私の救いでした。正直、赤いきつねには、どれだけ助けられたかわかりません……。

 あなたのことだし、そろそろ赤いきつねがなくて寂しい思いをしている頃じゃないのかなと思って、荷物を送ってみました。どうですか、当たってますか?

 とにかく、これからの一人暮らしは、色々と大変だと思います。でも、それはあなた自身が選んだ道です。どうか途中でくじけることなく、元気に頑張ってください』


 母さんからの手紙だった。

 でも今どき、手紙って……。しかも自筆の、だよ?

 携帯でメッセージでも寄こせば、話はすぐ済むだろうに……。ホント、回りくどいことをするものだ。


 目尻の辺りに何か熱いものを感じたとき、だしの香りが、僕の鼻の奥の方を心地よくくすぐった。

 いつもでも嗅いでいたい……そんな気もしたが麺が伸びてしまったら台無しだ。

 慌てて箸を取り、勢い良くかき混ぜる。

 それからすぐに左手で容器を持ちあげ、ずずずと派手に音をたてながら、まずは『つゆ』をすすった。

 僕の咽喉のどと心に染み渡る、懐かしくも有り難い、その風味。


 ――ああ、うまい。


 次は、そんなつゆをたっぷりと吸った『お揚げ』の番だ。

 僕によって箸で摘ままれたお揚げが、その体全体から豪快に湯気を放っている。ふうふうと息を吐きかけ、口に含む。すると、お揚げから染み出たエキスとつゆのだしが絡まった、何とも奥深い味が僕の口の中に広がった。


 ――こりゃあ、最高だ。


 最後は当然、トリを務めることとなった『麺』である。

 天女の羽衣の如く透き通っている麺を数本まとめて箸で摘まむと、それをいっぺんに口の中へと運ぶ。

 こんな感じ食べる麺のしこしこ感が、僕は大好きなのだ。

 つるつるとした感触を残し、それは僕の咽喉を通り越していった。


 ――むむう、たまらん!


 それからは、つゆとお揚げと麺を、かわりばんこ。

 やがて最後につゆを飲み干し、赤いきつねの容器が空になる。それに代わって、僕のお腹が満たされる。都会で初めて食べた赤いきつねは、そこで見た夕陽と同じように、透き通って温かく、おなかばかりではなく心も満たしてくれた。

 こんなにしみじみとした気持ちで赤いきつねを食べたのは、初めてだ。


 ――お節介も、たまにはいいもんだ。


 僕は、『荷物ありがとうございました。赤いきつね、おいしくいただきましたよ。夏休みには、きっと帰ります』という手紙をしたためながら、これまでずっと母さんに頼りっぱなしだった料理というものに、ちゃんと取り組んでみようと決心した。


 でも、もちろん――。

 赤いきつねを食卓メニューから外すつもりは、ないけれど。



  おわり

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