第5話 遥かな影-5

    * * *


 来たくはなかったが、来てしまった駅前に立ちながら時間を気にしていた。もう一時だ。このまま元木が来なければいいのに、と思いながら、早く時間が過ぎてしまうことを祈った。元木が来ないうちに時間が過ぎれば、帰ってしまっても許される。それならば約束を破ったことにはならない。

 いっその事、仮病を使おうかとも思った。しかし、それは元木には通用しないと思った。あの冷たい目に見つめられると、きっと嘘なんて簡単に見破られると思った。本当に病気になってもダメだと思った。仮病だと思われる。それも恐ろしかった。

 ―――何て人に貸しを作ったんだろう。

 時間は流れない。

 駅の時計は一時をようやく過ぎた。まだ帰ることはできない。もし、元木の時計が遅れていたら、あたしが約束を破ったことになる。とにかく、今日は会っておかなければならない。それから、何とか逃げる方法を考えよう。

 と、肩を叩かれた。

「よう」

元木は冷やかな笑みを浮かべながら、美加の後ろに立っていた。

「悪ィ、ちっと遅れちまったな」

「…んん、あたしも…さっき来たとこだから」

「そっか。じゃあ、行こうか」

「え?どこへ?」

「なに、すぐそこさ」

 元木はさっさと歩きだした。新興住宅地を抜けて田圃の横を抜ける。少し離れた所には、八幡さんの鎮守の森が見える。美加はドキドキしながら、何とか逃げ出す算段を考え出そうとした。しかし、元木は何も言わなかった。何か言ってくれなければ、何もできないじゃない、と思いながら、ただ、ついて行った。

「ね、どこ行くの」

何とか元木に話させようと思って、話し掛けてみた。何か言わさなければ、隙を見つけることもできない。しかし元木は、

「あぁ、もう、すぐそこさ」

とだけ答えた。

 そんなやりとりを何回か繰り返しているうちに元木は立ち止まった。少し距離をおいてついて歩いていた美加は、ゆっくりと近づいた。

「着いたぜ」

振り返って美加を冷たく見ながら元木は言った。

「ここ?」

美加の前に小さな建物が立っていた。少し古ぼけたそれは、寮のように見えた。美加は少し見回して看板を見つけた。

『ひばりが丘保育院』

 ―――保育院?

「あんた、オルガンくらい弾けるか?」

「え。あ、あ、うん…」

「ちょうど、いいや。頼むぜ」

 元木が入って行くと、それを見つけた子供たちが嬌声を上げながら迎えた。

「お兄ちゃん、お帰り」

「今日のお姉ちゃんは、あの人?」

「ね、ね、お兄ちゃんの、彼女?」

ソプラノの声が飛び交う中で元木はニヤニヤ笑いながら、答えた。

「ほらほら、おとなしくしないと、お姉ちゃんが挨拶できないじゃないか。はい、みんなお行儀良くして」

その言葉と同時に子供たちは一斉に挨拶をした。

「お姉ちゃん、いらっしゃい」

ぺこりと頭を下げる仕草につられて、美加も頭を下げて挨拶をした。

「こ…こんにちは」

「じゃあ、こっち来いよ」

元木は美加を招いた。美加は慌ててついて行った。子供たちもたかるように美加の後ろをついて来た。美加は戸惑いながら、元木の耳元で言った。

「こんなこと、聞いてないわよ」

「まぁ、いいじゃないか。今日一日だけ、ちょっと、お遊戯の手伝いしてくれたら、それでいいんだ」

「でも…」

「頼んだぞ」

そう言いながら元木は広間の扉を開いた。そこには、古ぼけたオルガンが置いてあり、床には積み木や玩具が散乱していた。

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