6.天紙と撫子
抱き抱えたメアが、赤と桃色の光を放ち始める。
その姿は粒子に変わり、わたしの体を包み込む。
「変身!」
つぼみとなった粒子は、わたしのかけ声と共に開花した。
前回と同じく薄桃色の衣装を身に纏ったわたしは、紙のドッペルに向かって足に力を入れる。
足場にヒビが入る。
握りしめた拳に、赤と桃色の花びらが集まっていく。
光となったわたしは、イイダと呼ばれた彼を通り過ぎて、紙のドッペルに一撃を加えた。
形がよく分からなかったので、とりあえず体積が大きかった部分を殴り付ける。
輝く桃色の光。
光が撃ち込まれた表面から、文字が世界に噴き出す。
血を思わせるそれは不気味だったが、イイダさんを離さないから、見た目より効いていないみたい。
落ち着いて距離を取り、イイダさんの様子を見る。
細長い紙の中で、もがいているのが見えた。
『見た目通り、厄介そうな相手メアね』
『
喜びを表す文字が至る所から出現する。
興味があるのは、彼の体だけ。
それ以外はどうでもいい。
わたし程度の力では、相手をする価値もないと。
その意図もあるのか、わたしの周りにはやたらと
『邪魔をするのなら仕方がない。排除させて貰うよ』
「うん、邪魔をするから。はい、どうぞ!」
わたしは両腕を広げて、受け入れる体勢になる。
それを見た全員が、一斉に口を結んだ。
痛いほどの沈黙。
漂っていた文字すら、欠片も見当たらなくなっていた。
イイダさんも
『ナデカ。もしかしてメア』
「もちろん。一回殴ったから、一回わたしを攻撃して」
さらに続く沈黙。
紙のドッペルも理解が及んでいないのか、伸ばそうとしていた紙の集合体を持て余している。
変なことは言ったつもりはない。
これは、わたしが誓ったことなのだから。
「あの子、バカなのか?」
『これは素晴らしい! 名乗る名を忘れてしまったこの私に、どうか貴女のお名前を教えていただきたい、Mrs.』
「
『残念です、Mrs.ヤエザキ。私はもう自分の名を忘れてしまった。この掛け合いにて、名乗れない。故に好きにお呼びください。貴女の馬鹿馬鹿しさへの敬意です』
「じゃあ――」
息が止まる。
考えようとした途端に、顔へ大量の紙が押し寄せてきた。
凝縮された紙の表面は異常に固く、痛みよりは体を弾いた速度に驚かされた。
瞬く間に進路上の紙の山に叩き込まれ、紙の洪水に飲み込まれる。
全身に付きまとう紙の重さは想像以上に重く、高速で流れる紙の側面に、身体中が切られていく。
苦しい。
息ができない、身体中が痛い。
『ナデカ。パンタスで対抗するメア!』
メアの叫びが
飛んでいく紙の足場を、無理矢理にでも力を込めて踏みしめる。
紙の暴力から、紙のドッペルがどれだけわたしを拒絶しているのかが分かる。
痛いでしょう、苦しいでしょう。
それなら早く何処かへ去ってしまえと。
「テンシさんで、良いですか?」
維持を張って前を向く。
途端にわたしを襲っていた紙たちは、次々と
紙吹雪から、花吹雪へ。
『紙の使い手、それでテンシと。成る程。面白いですね、Mrs.ヤエザキ』
別にそういう意図があった訳じゃないけど、納得しているのなら構わない。
イイダさんの様子は、少し落ち着いてきているようだ。
彼を気にしながら相手をするには、無理のある相手だ。
まず正面というものが無い。
スライム染みているテンシさんは、下手な攻撃は全て受け流すことができるだろう。
『どうするメア、ナデカ。あのイイダとか言う奴、メアはあまり助けたくないメア。ここは一度逃げに徹して、機会を伺うのが良いと思うメア』
「ごめんね、メア。イイダさんは助けるよ。あと、逃げるなんてとんでもない」
一歩を踏み出す。
一歩二歩と歩みを進めて、走り出す。
両腕を大きく振り、今の気持ちを右拳に集める。
テンシさんは文字を増やして、紙の体積を膨れ上がらせる。
伸ばされた紙の先端には、大量の文字が敷き詰められた黒い球体。
紙を束ね、文字に満たされた鉄球。
文字通り、押し潰すつもりだ。
『まずいメア。避けるメア。ナデカ、早くメア』
「まずくない。避けない。行くよ、メア!」
『メアああああああああああ!』
泣き出すメアを余所に、わたしは鉄球めがけて大地を蹴る。
吸い込まれるように、振り下ろされる鉄球に向かい、光る拳を叩き込む。
視界に広がる桃色の光。
右手には確かな感触があり、さらに気合いを入れる。
「いっけえええええええええっ!」
振り抜いた拳の先から、桃色の光がレーザーとして空へ放たれる。
鉄球は黒のインクと、黒染みのできた薄汚れた紙となって、辺り一面に散らばる。
下を見ると、理解が追い付かずただ見ているしかないイイダさんと、感情の読めないテンシさんが降り注ぐ紙を眺めている。
テンシさんからの次の攻撃もなく、無事に着地できたわたしは、もう一度拳を握り直す。
花弁が集まりうっすらと光が灯された拳を、そっと開いてテンシさんに差し伸べる。
「テンシさん。わたしの
『Mrs.ヤエザキ。想像以上の馬鹿馬鹿しさですね。攻撃を避けず、正面から馬鹿正直に突っ込んでくるとは。……良いでしょう。貴女の
その答えにわたしはつい笑ってしまう。
右半身を引き、左半身を一歩前に出す。
格闘技とかよく分からないから、直感で構えをとる。
とにかく、右手を振りやすい姿勢にする。
『では……。さて、どちら様でしょうか』
テンシさんの体が動き出す。
それとは別に、疑問を投げ掛ける声がわたしにではなく、別の誰かに向けられる。
わたしでも、メアでも。
イイダさんでもない誰かが、この世界に来たのだろうか。
その答えは、すぐに現れた。
空とは言えない謎の天井にヒビが入る。
その奥からは灰色の雲空が顔を出す。
灰色の空からは二種類の物が、まかれた紙の間に落ちてくる。
『これはトランプに、チェスの駒メア』
「あれ、そういえば床も変わってきてる」
ゆったりと木の葉と同様に落ちてくるのは、現実でもよく見るトランプのカード。
そして勢いよく落ちてくる
足元も気が付けば灰色の無機質な地面が、赤と白の市松模様のタイルに変わってきている。
『こんばんは。悪い夢を見ているかい、紳士淑女の皆々様。今晩見るのはとってもとーっても、とてつもなく酷く呆れた夢。愉しそうだろう?』
頭にくる笑い声が世界に響き渡る。
ケタケタと笑い、何も想っていない悪夢の笑い声。
それとは別に、一人分の足音が聞こえてくる。
悪夢を食らう悪夢の中、確実に迫ってくる不気味な足音。
『見つけた見つけた見つけたよアリス。どうする、ねぇアレどうする。煮る焼く斬る潰す、それともああ! もっともっと愉しくイく?』
一点に集まり始めるトランプのカード。
よく見ると、中央には白の
トランプは駒を中心に
とても色鮮やかで、その色の多さに気味の悪さを感じると、今度は石油のようにどす黒く塗り潰される。
「ねぇ、メア。あれって……」
『たぶん、オネロスメア。でもあそこまでいくと――』
悪夢そのもの。
そう思ってしまった途端、側に落ちてきたチェスの駒に驚き、心臓の鼓動が早まる。
足が動かない。
喉が渇く。
握っていた拳も、今やスカートを握りしめている。
少しでも気を抜いたら、後ろを向いて逃げ出したくなる。
『これは
テンシさんも似たことを感じたのか、全身に文字を敷き詰めていく。
雰囲気からして、逃げようとしているのだろう。
だけど何も起こらない。
『やられましたね。用意周到なことです』
『お前が弱いだけ。それだけ。ねぇアリスー』
猫なで声で名前を呼ぶ声に、もう苛立つとかそういう感情は湧いてこなかった。
黒の
トランプたちは黒の蝶として辺りに羽ばたき、主人のための道を作っていく。
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