2章 -αlice in I-
5.カミを使いしモノ
「起きるメア。ナデカ」
顔を叩かれて、わたしは目を開ける。
フニフニと叩く柔らかな肉球からは痛みはなく、ひたすら繰り返される行動は微笑ましいものだった。
やっているのはいちご色の猫のぬいぐるみ。
見た目通りに重さはなく、行動も相まって安らぎすら覚え始める。
「ぼおっとしてると、また悪夢に襲われメアよ」
「……そうだね。うん、ありがとう。メア」
わたしの声を聞いて、メアはふわふわと浮いて体から退いてくれる。
起き上がると、そこは一面の灰色の地面に積み上げられた、白い山。
地面は気持ち悪いほどに灰色一色で、積み上げられている白いものは、よく見ると表面に何やら黒いものが走っている。
地面は覚えのある感触で、たぶん学校とかにあったような気がする。
「また妙な夢に来たメアね」
「これ何だろう。……紙? うわ、文字がいっぱい書いてある」
立ち上がると、白い山はそれほど高いものではなかった。
精々わたしの身長の二、三倍くらいだ。
積み上げられているのは、どれも学校とかで見るプリントぐらいの紙ばかり。
基本的には日本語で書かれているものの、英語や数字を多く含まれているものや、知らない文字が書かれている場合もあった。
しかし、日本語で書かれているものしか分からないが、どれも文として成り立たないものばかりだった。
「これ、テスト思い出すから嫌だなー」
「勉強嫌いには確かに悪夢メアね」
悪夢。
その言葉を聞いて、だんだんと前回の記憶がはっきりとしてくる。
「あれ?」
手に持っていた紙に書かれていた文字が、いつの間にか変わっている。
お菓子の好きな、彼の名前だ。
「基本は
「オススメのクッキー、美味しかったよ。彼の言っていた女の人。十年も彼を待ってたみたい」
「十年。そうメアか。入れ替わった奴とはどうなったメア?」
「すぐ違う人って分かったみたい。それからは見てないって」
わたしが会ったのは、その人の娘さん。
本人は出掛けていたので、知っていることだけ教えて貰った。
「あとね。乗っ取られそうになった男の子のお母さんにも会ったよ。体調が回復しはじめて、お祝いの品を予約しに来てた」
「それはまた、すごい偶然メアね」
「なんか、夢の中のわたしを何となくだけど覚えてたみたいで、前より前向きになったんだって」
「それは良かったメア」
……あれ?
何でわたし、夢の世界の出来事があやふやだったんだろう。
現実では夢のことを何となく覚えていて、夢に来たら今度は現実にあったことが、他人事みたいに感じる。
「ねぇ、メア。悪夢のこと、この世界のこと。もっと詳しく教えて」
「もちろんメア。悪夢を探しながら話そうメア」
「うん。お願い」
彼の話は、一旦これでお仕舞い。
話せば話すほど沈んだ気持ちになるので、前を見ることにする。
歩いても広がるのは灰色の大地に、紙の山ばかり。
前回とは違いひどく退屈だ。
「とは言ったものの。何から言えばいいメアか」
「んー。悪夢の名前って無いの? 夢の方の悪夢と間違えやすいんだけど」
「あるメアよ」
先に行くメアが、くるりと回る。
周りの山から数枚こちらに飛んできて、白紙の状態から次々と文字が書かれていく。
「悪夢を初めとして、ドリームマン。夢の住人。ドッペルゲンガー、夢魔。ダブルや複体なんて呼び方もあるメア」
全てわたしには聞きなれない名称ばかり。
メアが喋ったもの以外にも書かれており、あまりの多さに笑う事しかできなかった。
「このドリームマンって言うのは? 別に男の人だけじゃないよね、悪夢って」
「沼男のもじりメア。雷に打たれた人間とまったく同じものが、近くの沼に落ちた別の雷で発生。その人と入れ替わる思考実験メア。メアは、ドリームマンかドッペルゲンガーが良いと思うメア」
「よく分からないけど、長いからドッペルでいいかな」
生き生きと沼男の話をし始めたメアを止めて、わたしなりの悪夢の呼び方を決める。
この辺りで止めないと、長々と話をしそうだ。
何とも言えない表情になったメアには申し訳ないけど、覚えやすさが大切だ。
あと少し早口だったのが、ちょっと怖かった。
「そうメアか。残念メア」
「あとはー、オネロス。だっけ? 悪夢を倒す人のことで良いのかな」
「正確にはメアたち、ポベトルから力を借りてる人のことメア。ポベトルは悪夢の一種っていうのは、覚えているメア?」
首をかしげて記憶を掘り起こす。
たしか最初にあったときに、そんなことを言っていたような。
話し半分で完全に夢だと思っていたので、正直メアの感触以外いまいち覚えていない。
「そう言えばそんなこと言ってたね」
「そういう意味では、メアたちとアイツらを分けるのは、良いことメア」
「メアはメアで、他の人は他の人」
「それで納得しない人が――」
「――き、君。そいつはなんだ」
突然聞こえた怯え声。
声の主を探すと、いくつかの山で物陰になっているところに、中年の男性が物腰低く隠れていた。
少なくとも三十代以上の彼は、手入れの行き届いていないよれたスーツを着て、ネクタイも外れかけていた。
目に隈ができており、体調は良くなさそう。
「あの化け物の仲間か。いや、こんなところに女の子がいるのもおかしい。君もアイツの仲間だな」
「え、ええっと。たぶん化け物ってドッペルだよね。あの、わたし貴方と同じ人間です。この子は、えーと喋るぬいぐるみです!」
「その説明は無いメア」
「で、でも……」
落ち着いて話を聞いてくれる様子はない。
うまく言葉が見つからないわたしに、彼の目がキツくなっていく。
ドッペルに会って、その後にただの女の子と喋るぬいぐるみ。
疑いようもなく、怪しい。
わたしでも警戒すると思う。
「あ、あの。ここは夢の世界で、わたしは何て言うかそのー、貴方が出会った悪夢を退治? する人みたいなー」
「ナデカ。話はまとめてから言った方がいいメア」
仕方ないでしょう。
わたしだってビックリしてるんだもん。
ドッペルに会う心の準備はしていたけど、まさか人と会うとは思っていなかった。
「夢? ……ははっ、そうか夢か! そうだ、そうだよこれは夢だ。さっきのはちょっとした悪夢を見ただけで、ここからは歴とした夢なんだな」
彼は急に喜び始める。
高らかに声をあげ、ここは夢であると叫ぶ。
何が嬉しいのだろう。
まだ悪夢は追いかけてきているはず。
いや、前回を考えると既に追い付いていてもおかしくない。
空へ投げ出された彼の視線が、わたしへ向けられる。
どこを見ているのだろう。
ひどく気持ち悪くて、背筋に寒気が走る。
一歩足を引いたら、彼は一歩足を踏み出す。
恐怖から解放された喜びが、変な笑いへ変わっていく。
「夢にこんな可愛い子が出て、そういうことだよな。良いんだよな、夢だし。か弱い女の子だ。優しくしないとな」
言っていること、見ているもの。
一つ一つがわたしの分からないものになっていく。
ただ分かるのは、ドッペルから逃げてきた彼から、逃げなくてはならないということ。
そう思った瞬間、わたしは反対側へ走り出していた。
「おいおい、俺の夢なんだから逃げちゃ駄目だよ。ああそれともアレかな。そういうシチュかな? 仕方ないな」
『――そうそう、仕方ない。君の夢なんだから、ここから出ちゃ駄目だよ』
さっき抱いた嫌悪感と恐怖とは、まったく違う。
よく分からない怖さではなく、覚えのある怖さ。
空から聞こえてきた声は次第に近づき、走り出そうとしていた彼の後ろから聞こえてくる。
紙吹雪。
そして、大量の文字たち。
世界に存在するありとあらゆる文字が、紙を束ねて凝縮し、黒い塊になっていく。
文字という枠を伸ばすことにより、やっと形になるそれは、頭上に形成された文字の環っかで連想するものは一つだった。
カミによって形を失った、黒い天使。
「うわぁぁぁぁ!」
『さぁ、ここにサインを。Mr.イイダ』
腰を抜かし転んだ彼を、細く伸ばされた紙が捕まえる。
持ち上げられ、紙のドッペルへ向きを変えられた彼の目の前に、一枚の紙が現れる。
ここからではよく見えないけど、あれに頷いてはいけない気がする。
『契約だ。貴方は現実に疲れ果てている。私がそれに代わり、貴方は永遠の幸福を得られる。良い契約内容だと思わないか、Mr.イイダ』
彼の声は聞こえなくても、ドッペルの声がわたしのところまで聞こえてくる。
予感は的中。
たぶん、あの紙に名前を書いたり、少しでもあの言葉に同意でもしたら、たちまちドッペルと入れ替わる仕組みなのだろう。
「準備はいいかメア。ナデカ」
「うん、できてるよ」
ちょっと嘘をついた。
本当はあの人を助けなくても良いんじゃないかって、心の片隅で思ってしまった。
でも、悪夢を倒すって。
メアとの約束だから。
メアを抱き抱えて、わたしは紙のドッペルに向けて走り出す。
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