第3話 鎌倉幕府を後100年延命させる方法(その1)

 では、ヒストリー・ミステリー第3話を公開しましょう。タイトルは……

『鎌倉幕府を後100年延命させる方法』

 これに決めた!


 * * * 


 そもそも、鎌倉は、どれだけの期間継続したのか。

 開始に、諸説ある事は、承知している。

 が、本書では、源頼朝に征夷大将軍の宣下がなされたその日とする。

 即ち、建久3年(1192年)7月12日、これを以て『開始』とする。

 そして、終わりは、新田義貞による攻撃に幕府軍敗北。

 当時の執権が、自害した日とする。

 即ち、正慶2年(1333年)5月22日である。

 たぁーーーーったの141年だ。これを後、100年延命させる、

 それが、今回の眼目だ。

 が、その前に重要な情報……鎌倉が何故滅びたのか、そこから語らねばなるまい。


 * * * 


 よく言われる事柄で、教科書にも書いてあるのは、『元寇』だろう。

 中国大陸に爆誕した大帝国『元』による日本来襲。

 詳細に語ると尺が足りないので、各愛するが、様々な要因で撃退した。

 で、幕府と御家人の関係は、『御恩と奉公』と言う『雇用契約』だった。

 これは、幕府から土地(とそこで生産される米への徴税権)を貰う代わりに、幕府の命令に従う。ざっくり言えばこんな所だ。

 で、幕府から

「戦をするから、兵を出せ。」

 そう命じられ、参戦する事もある。

 そこでの働き次第で、『恩賞』(更なる土地I)を貰える。

 が、『元寇』では、『恩賞』が、無かった。

 これは、打ち負かした敵の土地を奪えなかった為だ。

 何故だ。

「坊やだからさ。」

 「敵の土地は、海の向こうにある。取れるはずも無い。」は、「坊やだからさ。」と聞こえた様な気がしたが、きっと気のせいだろう。

 某少佐とも無関係に相違ない。

 結果として、参戦した御家人達は、『戦費負担』だけで、『収入は増えなかった』。

 こうして、困窮する御家人達の心は、幕府から離れて行った。


 * * * 


 ここまでは、『常識』、『授業の範囲内』に過ぎない。

 これは、『事実』ではある。

 が、『現実』ではない。

 ましてや、『真実』とも『乖離』している。

 では、続けて説明しよう。


 * * * 


 まず、鎌倉幕府が、滅亡した理由は、大きなもので、4つある。

 その内1つを語っただけで、全てを語った気になっている。それが、現状だ。

 では、それら4つを、順を追って語って行くとしよう。


 * * * 


 では、1つ。それは、『たわけ者』!

 これは『愚者』とか、『ウマシカ』と言った意味の言葉だ。死語だがな。

 先程も語ったが、御家人とは、征夷大将軍……頼朝公から土地を貰った武士達だ。

 で、御家人が死んだ場合、その土地は、子に継がせる事が可能だ。

 現代式に言えば、『遺産』と言うところだ。勿論、子々孫々まで、引き継いでよい。

 だから、一族は食うに困らない。ありがとう、征夷大将軍……頼朝公。

 で、ここからが問題だ。

 兄弟がいたらどうする。

 この場合、兄弟は、関係無く等分した。

 つまり、初代は、征夷大将軍……頼朝公から『100』の土地を貰った(本領安堵)。

 そこで、初代の死後、2人の兄弟に、それぞれ『50』ずつ『継承』された。

 その2人の子供……孫だな。2人いたら、『25』ずつとなる。

 今度は、ひ孫だ。また 2人ずついるから、1人の取り分は、『12.5』だ。

 その次は、『6.25』……その次は、『3.125』……。

 賢明なる読者諸君なら、もうお気づきであろう。

 御家人達が、あっという間に、困窮していっている事実に。

 一度、こうなってしまうと、再び統廃合するなど無理だ。

 では、考えて欲しい。

「君(の祖先)が、将軍様から貰った(本領安堵)土地を差し出せ。」

 そう言われて納得できるか。

 『統合する側』は、よい。が、『廃止される側』は、どうなる。

 賢明なる読者諸君なら、もうお気づきであろう。

 『たわけ者』とは、『田分け者』と書くのだと言う事を。


 * * * 

 

 では、2つ。それは、『承久の乱』!

 時は、承久3年(1221年)後鳥羽上皇の院宣で始まった鎌倉攻略作戦だ。

 討伐対象は、当時執権だった北条義時だ。

 これは、鎌倉幕府3代将軍源実朝が、暗殺された後、執権たる北条が、政治を取り仕切る。

 この決定から端を発している。


「征夷大将軍が、いないのに、幕府だけ存続するなんて滑稽ぢゃ。」

「幕府は、滅びぬ。何度でも蘇るさ。」

「上皇! 滅びの呪いを!」

「『バルス』!」


 等と言うやり取りが、あったと言う『証拠エギデンス』は無い!

 あってたまるか。

 そもそも、後鳥羽上皇は、この戦いで敗北し、結果として北条の政権は、盤石化した。

 これ以上は、尺の都合で、割愛させて貰う。

 すると、上皇方に付いた御家人達を減封・改易して、幕府側に付いた御家人達に与えた。

 すると、頼朝公から頂いた土地は、弟が引き継ぎ、兄は新しい土地へと移る。

 そこは、殆どが西日本だった。更に、当時の日本は、京都を始めとした西側が栄えていた。

 関東・東北は、まだまだ田舎だった。

 すると、坂東武者質は、目にしてしまった。

 見た事も無い『娯楽』に、驚愕かつ、驚嘆かつ、驚天動地しただろう。

 そこには、『お金』を落とす所が、沢山あったのだ。

 坂東武者と言えば、聞こえこそいいが、只の田舎侍だ。

 つい、財布の紐を緩め、お金を使ってしまい、いつしか困窮していく事となった。


 * * * 


 では、3つ。それは、『元寇』!

 以下略。


 * * * 


 では、4つ。それは、『北条の人材劣化』!

 特に、早世する人材が多かった。それに殆どが短命政権だった。

 初代(78歳)、二代(62歳)、三代(60歳)は、別格に長生きだった。

 4代目は23歳、以降30代逝去が多数を占めた。

 どうやら、執権の『短命化』が、求心力の低下に繋がったと考えられる。

 ちなみに、執権の『最短在職期間』をご存じかな。

 尚、答えは。『Wikipedia』に書いてある。

 答えは、『1日』だ。

 これは、前日新田義貞との戦闘で、執権が討ち死にした為、急遽行われた。

 が、新田義貞の猛攻の前に、自害した。

 それ故の、『1日執権』だったのだ。

 更に、頼朝公への恩義や忠義を、北条氏へとすり替える事が、できたのは最初の内だけ。

 承久の乱を制した後、急に早世する執権が、続出した。

 これでは、改革など出来ない。

 ちなみに、有名な『徳政令』を発した『13代執権高塒』について少々語ろう。

 享年31歳。在職期間は、9年7か月(正和5年(1316年)7月10日~正中3年(1326年)2月13日)。

 9年7か月もかけて、かようにグダグダな政治をやっていた。

 これらを、総じて『人材劣化』と呼ぶ事とする。


 * * * 


 コラム1『徳政令』とは。 

 これは、困窮した御家人が、当時流行っていた『質屋』から『借金』していた。

 それも、『頼朝公から貰った土地』を『質草』にだ。

 結局、収入が増えない為、金を返す事、能わず。

 結果、『土地』は『質流れ』になった。

 そこで、幕府は命じた。

 その『借金』を『棒引き』にせよ。

 それが、『徳政令』だ。


 * * * 


 こうして、まとめると、御家人達の困窮理由は、自業自得が2つ。

 外的要因と、当時の執権時宗が、元に喧嘩を売った事である。

 更に、とどめで、幕府から『放置プレイ』された事だ。

 そろそろ尺もよい頃合なので、続きは次回にしよう。

 では、また……


<続く>

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