第2話 鎌倉と室町の失敗を踏まえた徳川

 では、ヒストリー・ミステリー第2話を公開しましょう。タイトルは……

『鎌倉と室町の失敗を踏まえた徳川』

 これに決めた!


 * * * 


 では、鎌倉と室町が、どんな『失敗』をやらかしたのか。

 それに関しては、前回の「足利尊氏と『小さな政府』」を参照してください。

 それらを踏まえた徳川が、何をしたのか、振り返って見ましょう。


 * * * 


 まず、『直接雇用契約』だけ、『間接雇用契約』だけ、いずれも失敗した。

 そこで、徳川がやった事は、『いいとこ取り』である。

 まず、『直接雇用契約』は、『旗本』、『間接雇用契約』は、『大名』である。

 『旗本』は、『領地』を持たないが、徳川の直轄領から得た米を報酬として授与する。

 ちなみに、『旗本』には、幕府から『仕事』を貰って、禄を食む。

 代表例としては、『南町奉行』や『北町奉行』や『勘定奉行』などが、挙げられる。

 『勘定奉行』と言われると、ピンと来ない方もおられよう。

 要するに、幕府内部の『総務経理』を担当する者達だ。

 どこぞのアプリケーションも、『そう言う意味』で、名付けたのだろう。

 一方、『大名』は、『領地』を持つ。これを、『藩』と呼ぶ。

 で、『大名』は、『領地』の『年貢米』に応じて、『家来』……『藩士』を召し抱える。

 そう、『大名』が、治める『領地』を『藩』と呼ぶので、『家来』は、『藩士』とも呼ぶ。

 無論、『藩士』達には、『大名』から仕事と『禄』……『年貢米』が与えられる。

 当然、『大名』は、『藩士』全員を養う『義務』を追う事は、変わらない。


 統治機構の基本は、これだけだ。

 勿論、鎌倉と室町の失敗を踏まえた徳川は、こう考えた。

「1国1大名は、いかん。もっと、領地を狭くしよう。」

 が、関ヶ原で徳川に敵対した者達から『領地』を奪い、従った者達に大盤振る舞いした。

 これは、全て家康が、取り仕切った。

 その後、幕府は各地の大名に、難癖をつけては、領地を没収する事に腐心していった。

 有名な例を挙げる前に、コラムを参照して欲しい。

 知っている方は、飛ばして読んでも問題無い。


 * * * 


 コラム1『改易』とは。

 幕府が、安堵した領地を『全部没収』することだ。

 そうなった場合、失業する事になろう。

 或いは、『大名』自身に、もっと重い罰を課すかもしれない。


 * * * 


 コラム2『減封』とは。

 幕府が、安堵した領地を『一部没収』することだ。


 * * * 


 コラム3『加増』とは。

 幕府が、『大名』の領地を、『増やす』事だ。


 * * * 


 『改易』の代表例と言えば、『忠臣蔵』で、有名な『あの』浅野内匠頭(浅野長矩)だ。

 彼は、江戸城内で、吉良上野介に脇差で斬りかかり、取り押さえられた。

 結果、切腹の上、浅野家は、『改易』と城明け渡しを命じられた。

 ちなみに、『藩士』は、全員職を失い、浪人となった。

 詳しくは、『忠臣蔵』を見るとよいだろう。


 『減封』の代表例と言えば、有名な『あの』上杉謙信の子孫だ。

 関ケ原の後、米沢藩主に治まった上杉家は、3代目藩主上杉綱勝に後継ぎが出来なかった。

 そこで、養子を得る為の許可を、幕府に願い出た。

 が、幕府は、養子を得る許可を出す代わりに、『誰』を養子にするのか、指定した。

 更に、領地を半分没収……『減封』したのだった。

 ちなみに、その時の養子が、有名な『あの』吉良上野介(吉良義央)の息子だ。

 養子に入ってからは、名を上杉綱憲(うえすぎ・つなのり)と改めた。

 尚、上杉綱憲だが、『忠臣蔵』での出番は、あったり、なかたりする。

 恐らく、尺の都合だろう。


 と、まあ、こんな具合に幕府は、大名の領地をこれでもか! とばかりに削っていった。


 * * * 


 で、ここからは、室町最大の『やらかし』とも言える『応仁の乱』の対策だ。

 思えば、あの『大乱』から幕府の求心力が、『ガクン』と下がったのは、間違いない。

 3代将軍義満が最盛期で、それ以降下がりっぱなしで、6代将軍足利義教暗殺。

 そして、8代将軍足利義政の時に、『応仁の乱』勃発。これは、酷かった。

 この10年に及ぶ戦の後、『下克上』等が横行し、戦国乱世に突入した。

 そこで、同じ轍を踏まぬ様、徳川が打った手は、2つある。


 そもそも、『応仁の乱』の『根本原因』とは、何か。


 教科書でも知られている事だが、これは将軍の『後継者争い』だ。

 子細に語ると、尺が足りないので、割愛するが、同様の『後継者争い』は、山ほどあった。


 それが、ある者は、山名宗全(やまな・そうぜん)を頼る。

 また、ある者は、細川勝元(ほそかわ・かつもと)を頼る。

 結果として、膨れ上がった軍勢は、国を2分する争いへと、成長した。


 では、何故この様な、『後継者争い』が、山ほどあったのだろう。


 答えは、簡単だ。妻が、『1人』しかいなかったのだから。

 将軍だって、そうだった。

 勿論、こっそり『愛人』を作るくらいしたかもしれない。

 が、愛人宅を度々訪れる『将軍』など、世間体が悪いだろう。

 庶民は、そう言う『ゴシップ』が、大好きだしな。

 有名人の不倫記事で、飯を食う雑誌が、後を絶たない事がその証拠だ。


 賢明なる読者諸君なら、もうお気づきであろう。


 徳川の打った手。その1は、『ハーレム』……いわゆる『大奥』だ。

 ちなみに、大名も同じ物を持っていた。こちらは『奥』と名付け、そう呼んでいた。

 『奥さん』の語源になった言葉とも言えよう。

 とは言え、室町末期からこの手の習慣はあった。

 徳川が、やったのは、『明文化』し、武家諸法度に『記載』した事だ。


 で、徳川の打った手。その2は、『親戚』に多くの領地を与え、別格扱いした事だ。

 いわゆる、『御三家ごさんけ』だ。ちなみに、以下の通りに差配した。

 尾張徳川家の初代藩主は、徳川家康の九男。

 紀州徳川家の初代藩主は、徳川家康の十男。

 水戸徳川家の初代藩主は、徳川家康の十一男。

 勿論、『万が一』、本家……江戸で、後継ぎが誕生しなかった時、養子を出させる為だ。

 ちなみに、『御三卿ごさんきょう』も、同じ役割を担う目的で、分離させた大名だ。

 以下の3つがあった。

 田安徳川家(田安家)の初代は、徳川宗武(第8代将軍徳川吉宗の次男)

 一橋徳川家(一橋家)の初代は、徳川宗尹(第8代将軍徳川吉宗の四男)

 清水徳川家(清水家)の初代は、徳川重好(第9代将軍徳川家重の次男)


 こう言った手を打つ事で、徳川は、267年の栄華を享受した訳だ。

 日本の中世は、徳川が完成させた。そう言われる所以でもある。

 しかし、それこそが、日本を近代化させるのに『邪魔』とされたのは『皮肉』と言えよう。

 では、今日はこの辺で、締めくくろう。


<終わり>

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