18

 家に帰るとジゼルはぐったりし、母親の愛情などと言う慣れないものにどっぷり浸かったせいか、どうもいつもと疲れ方が違う、と冗談とも本気とも取れない愚痴をこぼした。

「いつもなら指先から冷え始め、それが全身に広がっていくのに、今日はなんだか腹の底が冷えているように感じる」


 温かいものを食べて腹から暖めるといいんじゃないか? 夕飯は何にする? と気遣うロファーに

「何もいらない、ミルクティーだけ淹れて」

と言い、ジゼルに食欲がないなんて、と本気でロファーが心配する。


 そのくせ闇に包まれた体を清めなければいけないから、ロファー、一緒にバスに入って私の体を洗って、などというものだから、甘えるんじゃない、とロファーを呆れさせた。


 それでも、バスを終えて部屋着に替えて部屋に戻ったジゼルが、この薬を腕に、と剣で傷つけた自分の腕を差し出せば、ロファーは脱脂綿に薬をしみこませ、文句を言わず傷口に塗ってやる。


 そこにはごく浅い傷だが、てのひら程度の長さの傷が残っていた。ロファーを守る結界を作るため、ジゼルが血を差し出すためにつけた傷だ。


「痛むか?」

 薬を塗りながらロファーが問う。

「いや、見てごらん。傷が消えていく」

ジゼルが言う通り、塗られた端から傷口は色を失っていく。


「これで良かったんだよね」

ジゼルが呟く。

「これで良かったんだよ」

とロファーも呟く。


 あなたも穢れを落としておいた方がいいとジゼルに言われたロファーは、バスに浸かりながら母親が幸せそうに眺めていた巻紙に描かれた絵を思い出していた。


 きっと昨日、ホミンの薬を作ると寝室を出たとき、仕上げなくてはと言った絵だろう。金髪に青い瞳の花婿と、明るい栗色の髪に琥珀色の瞳の花嫁が幸せそうな笑顔を見せ、それをスイートピーが取り囲んでいる。


 あの母親が心から望み、見たいと願っていた風景をジゼルは描いたのだ。それはあの母の恨みを沈め、人形への執着を解いたのだ、とロファーは思った。


 バスを終えると、あなたは空腹だろうから、遠慮せず何か食べるといい。ジゼルにそう言われたが、ロファーとて、そう食欲があるはずもなかった。パンにハチミツを付け、それをミルクティーで流し込む、夕飯はそれで終わった。


 寝室の暖炉に火をおこし、冷えに備えると、もうロファーにやるべきことがない。聞きたいこと、やりたいことは山ほどあるが、疲れ切ったジゼルにそれを持ちだすのは明日でいい。


 暖炉の前で、ロファーにもたれかかってジゼルが言う。

「ねぇ、ロファー。今夜は居てくれる?」

「もちろん。いつかのようにおまえが氷みたいに冷えたとき、俺がいないと困るだろう」


「明日は・・・自分の家に帰ってしまう?」

僅かに沈黙した後、ロファーが答えた。

「あぁ、帰る。やらなくてはいけないことがあるからね」


 だけど、時間を見つけて会いに来る。毎日とは言えないけれど、必ずジゼルに会いに来る。それに、あまりに長い時間、おまえに会えなければ、きっと仕事もはかどらない。


「仕事が進められないなんて、情けないロファー」

ジゼルが笑う。

「だけど私も同じ。なんで誰かを好きになると、その人のことばかり考えるようになるんだろうね」

「さあなぁ、それが恋っていうものなんじゃないのかな」


そしてロファーは

「ホミンは強いね」

と言った。

「うん、強い」

ジゼルも同調する。


「初恋の人を失っても、自分の幸せが周囲の幸せを運ぶと悟り、先へと人生を発進させた」

「俺にはそんなことできそうもない。おまえがいなくなれば生きていけない」


「馬鹿なロファー。そんな時が来ても、人は生きていくものだよ」

ジゼルがロファーを見上げる。

「だけど、ロファーがいなければ私は死んで・・・」

最後まで言わせる積もりのないロファーがジゼルの唇を塞ぐ。が・・・


次の瞬間、

「なんだ、おまえ?」

ロファーは反射的に唇を離し、半ば叫び声を上げた。

「口の中が氷みたいじゃないか!」

ジゼルをよく見ようとロファーが体勢を変えると、凭れていたジゼルが支えを失ってくずおれる。


慌ててロファーが支えると

「ちゃんと生きていくんだよ」

とジゼルが微笑む。

「こんな時に冗談いうな!」


 どうやら自力では座ってもいられないジゼルを慌ててベッドにロファーは運ぶが、そうしているうちにジゼルの体がどんどん冷えていくのが判る。こんな冷え方は初めてだった。


 いつも寒い寒いとジゼルは自分でベッドに入り、温めてと言ってくる。今日のジゼルは一度も寒いとは言っていない。腹の底から冷えてくる、と言ったきりだ。


「どうなってる? どうすればいい?」

狼狽えるロファーの耳に、

「ごめんね、とうとうダメみたい。きっと脳みそまで凍ってしまう」

か弱いジゼルの声が聞こえる。


 脳みそが凍ったらどうなるんだ? ロファーの問いに、答える力も失ったジゼルの返事はない。


 落ち着け、落ち着け、と自分を励ましながら、『私が冷えたなら何しろ温めろ』以前ジゼルが言っていたことを思い出し、暖炉に薪を足し、クローゼットからありったけのケットを出してジゼルに掛ける。


 そうだ、物置にストーブもあったはず、大急ぎで物置に行き、ストーブに手を伸ばす。すると、ジゼルが呪文を唱えているときに話しかけると頬に感じる衝撃を感じた。妖精が、だめだと言っている?


 妖精に逆らうわけにはいかないと、ストーブを諦めて寝室に戻り、ジゼルの様子を窺うと、真っ青な顔で静かに瞼を閉じている。微かに胸元が上下しているところを見ると、呼吸は止まっていないのだろう。


 ジゼルを温めるのに使えるものが他には思い浮かばない。最後に自分がジゼルの隣に潜り込み、体温で温め始めるだけだ。ロファーはベッドに潜り込み、冷たいジゼルの体を抱いた。


 氷のように冷たいのに、ジゼルの体は柔らかい。その、柔らかく冷たい体を抱いていれば、自分のほうが凍死しそうだ。


 それでもかまわない、とロファーは思った。初めて自分の体温でジゼルを温めた時、命を吸い取られているんじゃないか、と感じた恐怖など思い出しもしなかった。


ジゼル、ジゼル、ジゼル・・・


 強い思いは勝手に飛び込んでくるとおまえは言った。ならば俺の思いを受け止めろ。死ぬな、ジゼル、俺の傍を離れるな。


 ジゼルの冷たさで自分の体も冷えていくのも構わず、ロファーはジゼルを抱き続け、時折口づけし、頬に涙を流した。涙はゆっくりと氷付きキラキラと輝く結晶へと変わる。そして・・・必死なロファーもやがて疲れ果て、いつの間にか眠ったようだ。


 どれほどの時が流れただろう。窓から朝陽が差し込み、部屋を明るく照らし始める。とうに暖炉の薪は燃え尽き、外から聞こえる鳥たちのさえずりが部屋の静けさをいやしている。


 ベッドの上のケットの山がうごめいた。陽の光を受けた虹色のきらめきがそうさせるのか、山は一枚ずつ引っ張られ、ずるずるとベッドの脇へと落ちていく。


 最後の一枚は四隅が順に引かれ、やっと頭が見えた二人をきれいに包み込んだ・・・まだ二人は動き出さない。


 朝方には部屋の奥に差し込んでいた陽が、窓際のベッドを照らすころ、ジゼルが静かに目を開けた。そして目の前のロファーをぼんやりと見詰め、また目を閉じる。まだ、身動き取れるほど回復していないのだろう。虹色の光が慌ただしくジゼルの周りで煌めいている。ロファーはまだ目を覚まさない。


 とうとう陽が部屋の中に差し込まなくなったころ、目覚めたジゼルがロファーの髪を撫でながら、名を呼んだ。

「ロファー・・・」

その声が聞こえたからか、それとも自分に触れるものに気が付いたからか、ロファーが静かに目を開け、ジゼルを見て微笑んだ。

「ジゼル・・・俺たちは死んだのか?」

クスリとジゼルが笑った。

「では食事をしながら死んだかどうか検証しよう」


 腹ペコで死にそうだ。ジゼルがゆっくりと体を起こした。緩慢な動作から本調子ではないことが見て取れる。


 それはロファーとて同じだった。今度こそジゼルに生気を吸い取られたかと思うほど、疲れが体に残っている。体が重くて仕方ない。


 それでも無造作に積み重ねられたケットの山をそのままにしておけず、クローゼットに片付けてからロファーはキッチンに行った。


 ミルクを沸かしていたジゼルが言う。

「馬や鶏の世話は魔導術で終わらせた」

「いつもより遅いとジュリが怒らなかったかい?」

「ジュリ? 私に苦情を言える度胸があるとは思えないが? シンザンは怒っていたね」


 今朝は卵入りのオートミールにした。消化がいいし、作るのが簡単だ。そしてこんな時にもジゼルは、たっぷりのミルクティーだけは欠かさない。


 もう大丈夫なのか? ロファーが問えば

「本調子とはいかないけれど、どんどん回復しているよ」

妖精が気力を送ってくれている。


「あぁ、それでさっきからチラチラ虹色に光るのが見えるんだね」

ジゼルは少し首を傾げたが、すぐに気を取り直したようだ。

「それでロファーは? 体調が良いようには見えないけれど」

「うーーーん、恐ろしくだるい」

「私のせいだね。私がロファーを冷やしたからだ。もっと私は慎重に行動しなくてはいけなかった」


 流石にこたえているのだろう。珍しくジゼルが反省を見せる。そうだね、そうしてくれるとありがたい、ロファーとしては、そう答えるしかない。

「おまえを失うかもしれない恐怖を、二度と俺に味わわせないでおくれ」


 長老には報告しに行かないとな、とロファーが嘆く。明日にしたいところだが、それだけ街人が怯える時間が長くなる。


 犯人は魔物だった、そう報告すればいいのだろう、と確認するロファーにジゼルが言った。

「あの屋敷の者はそう信じている」

念のため記憶を書き換え、信じ込ませた。昨夜の出来事を口々にそう語るだろう。魔導士が魔物を追い出し、魔物はどこかへ消えた。


 息子の病を治したい一心の母親を非難するものはいないだろう。まして魔物のせいで正気を失い取り戻すことがない。同情を寄せるばかりだ。


「あと、判らないのは・・・」

 カレネの卵が一つだけ割れていたことと、行方不明になったミーナが殺害されたのが翌朝だったこと。


「カレネの卵が一つだけ割れていたのは、エプロンを瞬間移動させた時の勢いだろう」

「瞬間移動?」

「うん、出血なしに眼球が刳り貫かれたのも、その瞬間移動の力のせいだ。眼球のみを手元に移動させた」

あの母親の祖先には強い力を持った魔導士がいるのかもしれない。

「母親の力は闇で対象を包み込み、その時間を止めるというものだ」


 さらに闇の中のものを瞬間移動させる力もあった。命を奪ったのも同じ力だ。魂をどこかに瞬間移動させた。私は息子が埋葬されている墓地だと思っている。


「恋人を息子の許へと思ったんじゃないかな?」

 肉体から魂だけを瞬間移動させることができるとは・・・魔導術と言うのは恐ろしいものだな。ロファーが言えば

「どんな魔導士でもできると言うわけではない。むしろできる魔導士は少ない」

あの母親の息子を思う気持ちが、常軌を逸した力を発揮させたのだ。


 だからこそ、すべてを魔物の仕業とすれば、我々魔導士にとっても都合がいい。ただでさえ恐ろしいと思われているのだ、そんな力を持つ者がいるとなればさらに畏れられ、恐怖が暴走しかねない。

「魔導士狩りなんてことになったら困る」


 さて、ミーナの件だが・・・

「これは朝のうちだけしか行われない犯行、とも繋がる」

屋敷の主の話によれば、息子の誕生日の朝に、あの母親は微笑んでいた。その時、すでに息子を殺害する決心はついていたのだろう。


「息子は自殺ではないのか?」

問うロファーに

「あの母親が殺したのだよ」

と、事も無げにジゼルが言う。


「だが、あの屋敷の者たち、特に主にとっては、息子は自殺のほうが救いになる。母親に殺されたなど、息子が哀れすぎ、母親が哀れすぎる」

それにあの母親は結局罪の意識から逃れられず、息子は自殺したのだと思いこもうとしていた。


「息子を殺める決意をし、実際に殺めるまでの時間、母親の心は穏やかだったのではないだろうか」

 息子が生まれた喜び、初めて抱いた時の温かさ、自分に向ける無垢な信頼、そんな全てを次々と思い出し、心穏やかな中で母親は息子を手に掛けた。


 それは苦しみ以外の何物でもなかったはずなのに、とてつもなく穏やかで、その矛盾があの力を呼び覚ましたと考えている。

「だからその時間帯に力が増し、あの屋敷の外へとむけるほどになった」


 それでミーナが翌日まで生かされていた件だが、ミーナが籠を持っていたからだと思う。

「ミーナを闇で包み、その時間を止めた母親は最初に籠の存在に気が付いたのだろう」


思い出が籠を母親のもとに瞬間移動させ、幸せだったころを母親に思い出させた。そしてミーナ=ホミンの殺害を躊躇わせた。その躊躇いが、本来なら魂だけを移動させるものを体ごと移動させた。

「そして母親の力が弱まる時刻となり、ミーナは水車小屋の裏手で放置された」


 闇に包まれたミーナの時間は止まったまま、ミーナの意識も停止した。


 闇と一体化したミーナは誰にも見つけられなくなったが、翌日、母親は闇を外へとむけたとき、真っ先にミーナを見つけることになる。そして、当然のことながらその時、ミーナは籠を持っていない。


「それでミーナの目を取り、命を取った? 籠を持っていたことは忘れているのか?」

 ロファーの問いにジゼルは目を伏せた。

「思い出とは全て切れ切れに、心に次々と浮かんでくるものだよ」

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