17

 しかし、なぜ、とジゼルが闇に問いかける。

「なぜホミンをそんなに憎む。愛しい息子が愛した娘を」

「おぉ、ホミン、そんな名だった」

ジゼルの問いに答えながらも闇は渦を巻き、流れ込み、必死になってロファーを探している。

「憎いとも、憎いとも」

泣き声と怒号が鳴り響く。


「あの娘のために我が息子は自ら命を絶った。それを恨まずにいられるものか」

 轟々と部屋中の空気が揺れる。憎い憎いと繰り返す。ガタガタとベッドが揺れ始め、そこから今度は若い男の声がする。


「僕がいればホミンは次へ進めない。母さん、お許しください」

 闇が激しくのた打ち回る。

「あぁ、せめて。最後にもう一度だけ。あの琥珀色の瞳で僕を見詰めて欲しかった」

ベッドがクルクルと回転を始め、闇と同化していく。


 欲しい、欲しい、琥珀色の瞳・・・いまの際の息子の願い、この母が叶えずに誰が叶えると言うのだ。


 欲しい、欲しい、琥珀の瞳。憎い、欲しい、憎い、欲しい。悲嘆と憎悪、恨みに憎しみ、闇は更にどんよりと、ジゼルにも纏わりついてくる。


「たとえ琥珀色の瞳を手に入れようと、あなたの息子は帰ってこない。そして喜ばない」

ぴたりと闇が止まり、音がやんだ。が、次の瞬間!


 ぐるぐると部屋が回るのを感じ、思わずロファーがよろける。

「まやかしだ、目を閉じろ!」

ジゼルが叫ぶ。


 そこだ、そこにいた! 歓喜の声を上げ、闇がロファーに突進する。

「許さぬ!」

ロファーと闇の間にジゼルが躍り出て、右腕を目の高さに翳し、闇を食い止める。闇とジゼルの腕はぶつかり、バリバリと音を立てて光の粉を散らした。力づくでエイッとジゼルが腕を払い、闇を向こうへ飛ばすと、少しばかり闇は後退し、わずかに失速する。


 その闇にジゼルはてのひらをすかさずかざした。


《神秘王ジゼェーラの名において命じる。思い出よ、過去を甦らせよ》


ジゼルの瞳が赤い光を放った。


 すると闇は部屋の中を行ったり来たりし始めた。中心部が僅かに明るくなり、そこに部屋の内装と女性の姿が現れる。闇と同じように女性は行ったり来たりしている。


 その女性に話しかける声がする。

「母さん、ホミンが幸せになることが僕の幸せなんだよ。だからもう、ここに来るなと僕が言ったんだ」

女性は耳を両手で塞ぐ。その女性にジゼルが静かに近づいて、耳を塞いだ手に触れた。


 そして闇が場面を包み込み、またも中心部に光が差して女性と部屋の内装が現れる。今度はベッドサイドで涙ぐむ女性がいる。

「苦しいよ、母さん。この苦しみはいつまで続く? 母さん、助けて」

ここでもジゼルが女性に近づき、その手に隠したナイフを、そっと取り上げた。


 次に現れたのは窓辺に立つ女性だった。窓から誰かの葬式を見降ろしている。振り返りベッドの中に横たわる誰かの顔を撫でようと手を伸ばす。その手にジゼルはスイートピーの花を持たせた。


 クルクル闇は回転し始め、ガタガタと部屋を揺らす。ジゼルがカーテンを開き、窓を開け放した。


 パーーっと光が部屋に差し込み、闇を外へと追い立てる。迷うことなく闇は窓へ向かい、そして屋敷の敷地の中の墓地へと吸い込まれていく。


 終わった、とロファーは思った。体から力が抜けて、その場に座り込む。


 ジゼルは明るい部屋の中に置かれたベッドを見ていた。瞳は深い緑色に戻っている。傍らにこの屋敷の女主人が呆然と立っていて、やはりベッドを見ている。微笑んでいる・・・


 ジゼルが術を解いたのだろう。部屋のドアが開き、廊下からわらわらと、この屋敷の住人たちが入ってくる。


 メイドの一人が女性に駆け寄り、奥様、と呼びかける。呼びかけられた女性はニッコリ笑んだままベッドを見続けるだけだ。その視線を追ったメイドが「ヒッ」と悲鳴を上げた。


 屋敷のあるじが妻に寄り添い、メイドに目配せをする。メイドは青白い顔のまま、それでも主に女主人を任せて下がった。


 使用人たちにも知らせなかった。知らせることなどできなかった・・・屋敷の主が淡々と語る。


 妻は、足しげく通っていたホミンが急に姿を見せなくなったのは、ホミンが病の息子を捨てたからだ、とホミンを恨んだ。そうではないと息子がホミンを庇う言葉も、息子がホミンを思う故と一層息子を哀れと思い、ホミンへの恨みを募らせるだけだったのだ。


 二人の手紙のやり取りも、妻にとっては息子の体力を奪うものでしかなく、いくら私が、息子の生きる励みになっているのだから、と言っても聞く耳を持たない。かと言って手紙のやり取りの邪魔をして、息子に嫌われるのも嫌だったようだ。


 妻はその全てを息子に捧げ、ひと時も息子の傍を離れず、今思えば、そんな自分を追い詰めるやり方はいけないと、私が止めるべきだった。


 しかし、私とて息子が可愛くないはずもなく、私なりに散々手を尽くしていたこともあり、妻の気持ちは痛いほど判る。気の済むようにさせるしかないと、諦めていた。いや、半ば見放していたのかもしれない、息子のことも、妻のことも。人生にはどうにもならないこともあるのだと、そう自分に言訳して真っ直ぐに妻と向き合うことを避けたのだと思う。


 息子の十八の誕生日のことだ、心境的に祝うどころでないとしても、その日は特別な日、私も朝には息子の部屋を訪ね、祝いの言葉を息子に贈った。


 やせ衰えた息子の、生きた姿を私が見たのはそれが最後だ。

「ありがとう、父さん」

弱々しいその声が、私が聞く息子の最後の声となった。そしてその時の妻はいつになく穏やかな顔をして、息子に微笑み、そして私にさえ微笑んだ。


 息子の誕生日だからだと、一旦はその笑みを受け止め部屋を退出したものの、胸騒ぎを感じた私は、それから時を置かず、再度この部屋に足を踏みいれた。


 すでに息子の心臓は、妻が刺したナイフで傷つき、動くことを放棄していた。驚き、嘆く私の目の前で、妻は、そのナイフで咽喉をつき、自らの命を絶とうとした。


 咄嗟に止める以外に私にできることがあっただろうか? しかし結果として、息子殺しの罪を背負って生きていくことを私は妻に強いてしまった。


 息子の遺体は使用人たちにも知られないよう、真夜中にひっそりと私が埋葬した。遺体に取りすがる妻を宥めるため、私はそのベッドに人形を代わりに置いた。


 クッションに毛糸の髪を付け、毛布を丸めた胴体を付けただけの、人形と呼んでいいのかさえ疑わしい人形を、まさかそれで妻が納得するなどと思っていなかったのに、それから妻は甲斐甲斐しく世話を続けている。


 私は屋敷の者にこの部屋への立ち入りを禁じた。食事は私が運び、妻がこの部屋を出ることもなく・・・妻は。


 妻はあの時、己の息子を手に掛けたあの時、すでに壊れていたのだろう。


 そして不思議なことに、その、クッションに毛糸の髪を付け、毛布を丸めた胴体を付けただけの人形が、いつの間にかちゃんとした人の形と変化していき、ついには息子そっくりの人形に変わった。


 何か悪いものに憑りつかれたのだと、私は思った。あぁ、どうしてこんなことになったのだ? 恐ろしさに私はどうすることもできなかった ――


 屋敷の主の告白に、まだベッドの有様を見ていない使用人が覗きこみ、あるものは小さな悲鳴を上げ、あるものは口元を抑えた。


 しばらく黙っていたジゼルだが、やがて静かにこう言った。

「そこに横たわるのは、毛糸の髪を生やしたただのクッションだ」

そんなはずは、と主が覗きこむ。そして自分を取り巻く使用人たちを見渡した。使用人たちは、その通りだと、ジゼルの言葉を後押しした。


「ただ・・・丸めた毛布の胸元に当たるあたりに一本のナイフが刺さっている」

 たぶん息子の命を奪ったナイフだろう。


「息子の血を吸ったナイフが主よ、あなたを幻惑したのだよ。そのナイフには、あなたの息子の魂の一部とでもいうべき無念がこびり付いている」


ポンと主の肩を叩き、ジゼルは言った。

「息子の墓に埋葬してやるといい」


 更にジゼルは続けた。

「そしてあなたの妻は息子を殺めてなどいない。あなたの息子は自ら死を選んだ。病の苦しみから逃れるために」

くっ・・・咽喉を押しつぶすような泣き声が主の咽喉から漏れる。使用人たちの嗚咽がそれに混じった。

「あなたが見たのは息子の胸から引き抜いたナイフで後を追おうとしたところだ」


 それで、だ、とジゼルが続ける。

「あなたの妻だが・・・」

息子を思う強い気持ちがどうにも不思議な力を呼び起こしてしまったようだ。あるいは生まれつき、魔導術に通じる力があったのかもしれない。それが息子の死で爆発し、暴走したのだろう。


「息子の最後の願いを叶えたい思いと、ホミンを憎むことでようやく保っていた平常心、その二つのぶつかり合う思いが、とうとうあなたの妻の心を飛び出してしまった。ホミンが息子を見舞いに来たのが引き金となったのかもしれない」


 飛び出した心は街を彷徨い、息子に捧げるべく琥珀色の瞳を探し求めた。

「あなたの妻が一連の殺人の犯人だと、お判りいただけるか?」


使用人たちの嗚咽が号泣に変わり、ジゼルの耳に届く。彼らには見えているのだ、ベッドの上の有様が。


 屋敷の主には、愛息によく似た人形が横たわるだけのベッドに見えているが、実はそこには、毛糸の髪のクッションの頭と、丸めた毛布の胴体、そこに突き刺さるナイフ、そしてナイフを取り巻き、クッションを見上げるように置かれた六個の眼球がある。


「私の妻が・・・」

 主はジゼルの瞳を見つめ、妻を見る。妻は微笑んでいる、ベッドに向かって。

「私の妻がそんな大罪を犯した?」

崩れ落ちる主にジゼルは続けた。

「あなたの妻は、ただ、瞳のみを欲していた。それが可哀想な街人の眼球のみを持ち去ることになった」


 あなたの妻が欲しいのはホミンの瞳であり、犠牲者たちはあなたの妻にとって皆、憎いホミンだった。だから容赦なく命を奪った。


 あなたの妻の意識は闇となり、空間を彷徨い、包み込んだ相手の何にでも影響できた。


 カレネのエプロンを持ち去ったのもあなたの妻だ。自分のエプロンと錯覚したのだろう。母親のイメージが強い。


 そしてミーナの籠は破壊したかもしれない。あなたの息子とホミンが幼いころ、籠に摘んだイチゴを二人仲よく食べていたことを思い出したのだと思う。


 それで、屋敷の主よ、あなたは自分の妻をどうしたい?

「街人たちは今回の事件の犯人を認定しないことには落ち着いて生活できないだろう」

屋敷の主がガタガタと震え出す。


「それでは、妻は・・・絞首刑にでも?」

それをあなたが望むなら。ジゼルの言葉に、大きく何度も首を振る。


「魔導士様、どうして私が自分の妻の死を望むでしょう?」

「見ての通り、もう、どこまで判っているか知れぬ妻だぞ」


「それでも!」

 主は涙で訴える。

「苦楽を共にし、息子を育て見守ってきたのに、最後に手を差し出せなかったこの私が、ここでまた妻を見捨てたら、妻が哀れ過ぎます」

「ではこの後も命ある限り添い遂げたいと言うのだな」

そう言いながらジゼルは懐から一片の巻紙を取り出した。


「ならばあなたの妻にこの絵を見せなさい。そうすればベッドの上にある物への執着があなたの妻から消えるはずだ」

主は恐る恐るジゼルから受け取ると、己が妻に歩み寄り、巻紙を開いて手渡した。


「おぉおぉ・・・」

 妻の口から嗚咽が漏れる。絵を抱き締めて泣いているのだ。それを見たジゼルが、パンと指を鳴らすとベッドの上にはナイフだけが残っていた。


「主よ、この屋敷の中に口の軽い者はいるか?」

 ジゼルが主に問う。滅相もない、皆忠義者ばかりです。


 主の答えに、そうか、と言うと、ジゼルはゆっくり値踏みするように使用人の間を歩き、一人ひとりの肩に触れていく。一通り肩に触れるとジゼルが言った。

「ではこうしよう。息子の病を治したいばかりに、母親は魔物に捕らえられてしまった、と。その魔物が今回の犯人だが、それはこの私が追い払った。だから再び誰かが襲われる心配はないが、魔物を追い出した衝撃で母親の気が触れてしまうこととなった」

その母親をちらりとジゼルが見る。与えた巻紙を幸せそうに眺めている。


「だから、もう、母親のことは隠すことなく街人に知らせ、街人たちの援助を受けるがいい。ただし、息子の死は向こう一年隠し通し、そののち葬儀を執り行え。ナイフは直ぐに埋葬せよ」

この条件が飲めるなら命ばかりは助けよう。


 私に否があろうはずもございません。主はひれ伏すような勢いでジゼルに頭を下げた。

「魔導士様のご恩情、決して忘れることはありません。未来永劫何なりとお申し付けください」


 流石のジゼルもその言葉には驚いて

「いや、それには及ばぬ」

と本音を漏らしたようだ。


 このやり取りの時、ロファーの立ち位置からは母親がうっとり眺める巻紙に書かれたものが見えていた。ついそれに気を取られてしまったロファーが、ジゼルに呼ばれたことに気が付かず、ジゼルは誰にも見えない足払いをロファーに掛けて、二、三歩歩かせた。


「ロファー、預けたペンダントを」

 ジゼルが差し出す手に、ホミンのペンダントを首から外してロファーが乗せた。

それをジゼルは主に渡す。

「これもあのナイフと一緒に埋葬するといい」

あなたの息子がホミンを守るために祈りを込めたものだ。


「私のロファーをホミンと思い守ってくれた。あなたの息子の祈りは成就した」


 では、これでおいとましよう、部屋から出ようとするジゼルを主が引き止める。


「いかほどお支払いしたらよいものか」

振り返ってジゼルは答えた。


「報酬などいらぬ。ただ、思いがあるならば、近々ホミンが結婚する。祝いと、庭に咲くスイートピーを花束にして、あなたの息子からだと言って届けてやって欲しい」


 行くぞ、ロファー、そう言ってドアを出ていく。廊下に出る瞬間、

《刷新せよ》

と瞳が赤く光ったのをロファーは見逃さなかった。



 これでジゼルが肩を触れた人々の記憶が書き替えられるのだろう、どう書き換えたかは後で聞こう、とロファーは思った。

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