16

 忍び寄るように闇がジゼルを包み込む。それを気にすることもなくジゼルは部屋の中へと歩を進める。闇はロファーをも包み込もうとしているようだったが、なぜか周りを取り囲むだけで、ロファーに触れることはなかった。


 部屋の中は中央に大きなベッドが置かれ、その前に立ち塞がるように誰かが立っている。深い闇に包まれて姿が見えない。この家の息子だとロファーは思った。病に伏しているのではなかったのか?


 ジゼルを取り巻く闇は、どうやらそこから溢れ出ているようだ。深い闇に対峙してジゼルが止まった。

「息子を愛しているのなら、開放してやれ。とうに黄泉の国に赴いていなければならない魂だ」

ジゼルが言った。


 えっ? とロファーはジゼルを見た。息子が犯人ではないのか? ロファーはホミンの話を思い返す。元をただせばわたくしの婚約者はあのかたでした・・・


 あのかたのお父様とわたくしの父は旧知の仲で、よくお互いの屋敷を行き来していたものです。


 お屋敷に伺った時、わたくしの遊び相手はいつもあのかたでした。大人たちはカードやチェスに興じ、幼いわたくしを顧みることはなかったのです。それを楽しみに来ているのですから無理もないことでした。


 広いお庭でお花を眺めたり、虫取りをしたり、イチゴやラズベリーを籠に摘んでは二人で食べ、時にはこっそり木に登り、二人そろって叱られたり ―― あのかたの存在がわたくしの、あの屋敷での滞在を華やかなものにしてくれました。


 たった数か月、あのかたが先に生まれただけなのに、大好きなお兄様、わたくしはあのかたをそうお呼びしておりました。可愛いホミン、あのかたはわたくしをそう呼んでくださいました。


 そして時は過ぎ、わたくしたちは恋というものを知りました。それは例えようもなく幸福で、甘美で、満ち足りた時間、人生の喜びをわたくしたちは知ったのです。


 二人の父も、母も、そんなわたくしたちを祝福し、わたくしの十八の誕生日には結婚する約束が交わされました。


 けれど、幸福というものは長く続くものではないようです。約束が交わされて間もなく、あのかたは病に倒れてしまいました。十六の時でした。


 持てる限りの伝手を頼り、八方手を尽くして、あの方の病を治そうとお父様は懸命になられましたが、どのようなお薬も、どれほど高名な魔導士様もあの方を癒すことはありませんでした。


 できることならば、あのかたの代わりにわたくしが命を落としてもいい、と毎日のように泣くわたくしに、父は諦めなさいと、言うばかり。


 わたくしとて、叶わぬことと知っていても、諦めるなんてできないと、そう思っておりました。諦めは人生を裏切ることだと信じていたのです。


 でき得る限りのことをあのかたにして差し上げたいと足しげくお屋敷に通いました。ところがある日、もうここに来てはいけない、とあのかたが言ったのです。


 このままではホミン、おまえまで病気になってしまうよ。これからは手紙を書くから、必ず元気になると約束するから、そう仰ったのです。


 確かにその頃、痩せ細ってきたわたくしを、両親やメイドたちが心配し始めておりました。


 必ず手紙をくださいね、泣くわたくしにあのかたは、これを私と思いなさい、とペンダントをくださいました。私に代わってホミンを守るよう祈りを捧げたペンダントだよ、と。


 約束通り、あのかたは手紙を下さり、わたくしもあのかたに手紙を送りました。


 その手紙はいつも楽しいことばかり、今日は窓からスズメが覗きこんでいたよ、何か話しかけられたようだけど、なんて言っていたのだろうね。


 庭ではスイートピーが花を咲かせたようだ、かすかに甘い香りが漂ってくる・・・


 あのかたの病が治ったのでは、と思うほど明るいものだったのです。会いたい思いを手紙につづるわたくしに、それはまだかな、とそこだけは悲しいお返事でした。


 それなのに、わたくしの十八の誕生日が近づいたころ、ぷつりと手紙が届かなくなりました。


 なぜ手紙をくれないの? 時には縋り、時には怒りをぶつけ、わたくしは何度も手紙をお送りしたのですが、あの方がお返事を下さることは二度とはありませんでした。


 それどころか

「もう手紙をよこすのは遠慮してほしい。息子のことは忘れてしまうのがあなたのためだ」

と、あのかたのお父様から告げられたのです。


 あのかたの病がいよいよ重くなったのだと、わたくしは察しました。何の言葉もないまま、わたくしたちの婚約は事実上破棄されたのです。


 それから二年が過ぎたころ、街長様のご子息とのお話しが持ちあがりました。二十になろうかという娘に舞い込んだ良縁に両親は大喜びでした。


 あのかたを思いきれず渋るわたくしに、幸せになって欲しいのだよ、と両親は泣きながら説くのです。私たちが他界したらお前は一人になってしまう、と。


 幸せとは何でしょうか。あのかたとの思い出は今でもわたくしの胸に鮮やかに刻まれ、幸せを感じさせて止まないものです。


 ですが、わたくしは両親を安心させるため、街長様のご子息ライデン様との結婚を承諾いたしました。


 わたくしがいつまでもあのかたを思い続けることがあのかたの負担になると、わたくしが幸せになることであのかたが安心すると、両親の姿を見て思い至ったこともあります。


 わたくしは、わたくしを愛してくれる全ての人のために幸せを築かなければならないとやっと気が付いたのです。


 そのような考えで結婚を承諾することをわたくしはライデン様にお伝えしました。そして結婚前に一度きり、あのかたの見舞いに行くことを許して欲しいと、ライデン様に願いました。


 それでホミンの気がすむのなら、とライデン様は優しい笑顔を見せてくださった。

是が非でもあなたと二人、幸せにならなくてはならないね、とライデン様は仰いました。


 その時、ライデン様との結婚は、わたくしを後悔させる事はないと思いました。わたくしの選択は間違っていないと強く思いました。


 あとはあのかたにお会いして、結婚が決まったと報告し、きっと幸せになるからと告げるだけでした。


 ところが、あのかたを訪ねてお屋敷に伺ってもお会いすることは叶いませんでした。お母様がお怒りになり、門の中にわたくしを待つ馬車がいるのに、帰れ、とわたくしを門の外に追いやりました。お前のせいで息子は病になったのだ、とわたくしを罵りました。


 慌てた従者がわたくしを庇い、お母様はお屋敷に戻られましたが、わたくしはお母様に何も言い返すことができず、ひょっとしたらそうなのかもしれないと、その日より、思い悩む日を過ごしております。


 はい? あのかたの瞳と髪の色? よく晴れた空のようなブルーの瞳に金色に輝く髪をしておられました ―― それがホミンから聞いた話だった。


 それでロファーは、てっきり『あのかた』つまりこの屋敷の、病に伏せる息子が犯人だと思った。


 愛するホミンがほかの男と結婚する、そんなことは許せない、と怒りが暴走し、今回の事件を引き起こした、とそう思ったのだ。


 自身と照らし合わせ、共感できる動機だった。下手をすれば自分もそうなってしまうかもしれない、そんな危うさを感じていた。


 それが今、ジゼルは「黄泉の国に赴いているはずの魂」と息子を指して言った。ならばあの暗闇に覆われているのは、母親で、ベッドに横たわるはずの、その息子はすでに死んでいるというのか。


 暗闇からうめき声がする。

「魔導士ごときに何が判る」

くぐもった声でそう言っているように聞こえる。

「子を亡くした母の、どこにもやり場のない、怒り、悲しみ、苦しみ、嘆き」

だんだん声が大きくなる。


「この世の全てを恨み、呪わずにいられるものか」


 ふむ・・・とジゼルが考え込む。

「私は子を産んだことがない。そして母に抱いてもらった事もない。あなたの気持ちが判らないのはそのせいかもしれない」

「我が子を抱かぬ母がどこにいる? 


死に別れ、生き別れならいざ知らず。胎内に宿る命が日に日に体を成していくを体感し、命を落とすやも知れぬ痛みに耐えて生み落とし、己が乳房から乳を与え、慈しみ育てた我が子がどれほど可愛いものか」


あぁ、それをなぜ、取り上げるのだ? いまや大音響となった声は部屋を轟かせ、壁という壁や天井から聞こえてくる。


「命あるもの、やがて死すは摂理なり」

 そんな中でもジゼルの声は、優しく語りかけているのにはっきりと聞こえる。

「諦めは恩恵だと知るがよい」

さらに闇は深くなり、ジゼルを包み、絡めとる勢いを見せる。


「なるほど、母とは暖かいものなのだな」

 その闇を全身で受け止めながら、静かにジゼルが呟く。


 部屋の中にはうめき声と罵声、泣き声に嗚咽が雑多に入り混じり、凄まじさが増してくる。思わずロファーは自分の耳を塞いだ。


「琥珀色の瞳!」

 深い闇に隠れた誰かから稲妻が迸る。

「あぁ、琥珀の瞳、恨めしい」

「ロファー、胸に下げたペンダントを表に出せ!」

ジゼルが叫ぶ。そしてロファーに駆け寄りながらローブの内から右手で剣を抜き、左手でロファーを取り巻く闇を払いのける。


 ジゼルの瞳が赤く燃え始め、闇はそれに怯えているようにも見える。わけもわからず言われたとおり、ペンダントを表に出すと、闇がびくりと動き、さぁーっと引いた。その隙をついてジゼルの左手が印を切る。


 赤い飛沫が舞い、さらに闇が遠ざかる。赤い飛沫はジゼルの血だ。取り出した剣で自らの左腕を切ったのだ。

「ジゼル!」

驚いてロファーがジゼルに近づこうとするのをジゼルが一喝する。

「動くな、馬鹿者!」


 琥珀色の瞳、琥珀色の瞳、うめき声を上げながら、闇がロファーの瞳を探す。

「今そこに見えたのに。憎い琥珀色の瞳。息子が愛した琥珀の瞳」

闇は彷徨っている。


「私の血で結界を張ったのだ。驚くことも心配する必要もない」

こんな傷、舐めておけば治る。


「それよりも動いて少しでも闇に触れれば、あなたの居所が知れてしまう。目を刳り貫かれたくないなら、動かず結界の中にいることだ」


 でも、と言い募りそうなロファーをジゼルが怒鳴りつける。

「プライドなんか糞くらえ!」

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