第四回 幻想の掌
読書人好みのマニアックな品揃えが嬉しい平凡社ライブラリー。その一冊に先頃、とある奇書が加わった。ハラルト・シュテュンプケ『鼻行類』だ。原著は一九六一年にドイツで出版され、日本語訳としては思索社版、博品社版に続いて三版目となる。
本書は、一九四一年に南洋ハイアイアイ群島で発見された新種の哺乳類についての、生物学的エッセイである。その生物群は一様に鼻が発達していたことから「鼻行類」と名付けられた。綿密な観察記録と生態画や筋肉組織図を通じて、学術書らしい執拗さで著者は鼻行類を描き出す。川に鼻の粘液を垂らして狩猟するハナススリハナアルキ、バッタの脚のような跳躍力の鼻を持つトビハナアルキ、鋭い歯と毒尾で獲物を補食するオニハナアルキ、長いしっぽを茎のように直立させ鼻を開いて花に擬態するフシギハナモドキ。これらの奇妙な生物群はその後、洋上核実験により地球上から消滅した。
この失われた鼻行類は、いうまでもなく、幻獣である。「本書中の登場人物や団体は架空のものです」などという不作法な表記がまかり通る現代日本の一般メディアとは異なり、本書中には(あとがきや解説も含めて)一言もこれが架空のものだとは明示されていない。荒俣宏も『怪物の友』(集英社文庫)の中で鼻行類を紹介する際、現実の生物であるかのような書き方をしている。想像上の生物に対してひたすら綿密な生物学的叙述を与えた『鼻行類』は、パタバイオロジー(生物学のパロディ)の傑作として世界中の生物学者や好事家に迎えられたらしい。
訳者の一人である日高敏隆は、コンラート・ローレンツやリチャード・ドーキンス、デズモンド・モリスなど錚々たる顔ぶれの翻訳も手がけた、日本有数の動物行動学者だ。彼は愛弟子である竹内久美子との対談録『もっとウソを!』(文藝春秋)の中で、次のように述べている。
■引用ここから--------
……科学とは主観を客観に仕立て上げる手続きであってね。主観から出発して、実験をしたりデータを取ったりして、理論を組み立ててみんなを説得してしまう。そのとき他の人がそれ以外の理論を反論として提出できなければ、その時点においては一番正しいということになるわけだ。(中略)そうだよ、完璧なウソならいいんだ。
(七十五~六頁)
■引用ここまで--------
「科学とは客観的事実を証明する手法である」という一般の思いこみをひっくり返すやんちゃな魅力の台詞だが、その背後には人間の認識の基本的な事柄についての見識が潜んでいる。人は主観の中に閉じ込められている。しかしその事に絶望するのでも開き直るのでもなく、一歩一歩、客観という名の「共通する主観」へ手探りしてゆくことが大切なのだ。鼻行類という奇妙な生物のウソは、まさに学問の(揶揄ではなく)パロディとして、学問を勇気づけるような力に満ちている。
*
鼻行類は著者自身が意識して構築した「ウソ」であったけれど、奇態な生物の存在が信じられ報告された(または報告者の意図から独立して広く流通した)事例も多い。
『山海経』(平凡社ライブラリー)は古代中国の地誌だが、そこに現れる生物の大半は想像上の生物である。かつては東洋文庫くらいでしか一般には読むことのできなかった本書を、ライブラリーが創刊まもない時期に編入する辺り、平凡社の面目躍如といえる。在野の博物学者・荒俣宏も人間の想像力についていくつもの著作をものしているが、最近の注目は文庫セミオリジナルの『アラマタ図像館』シリーズ(小学館月刊総合文庫)だろう。その第一巻のテーマはずばり怪物。鼻行類や山海経はもとより、古今東西の様々な奇想生物を集録している。中でも興味を魅かれるのは、レチフ・ド・ラ・ブルトンヌ『南半球の発見』だ。人工の翼を手にした主人公が人跡未踏の南半球を経巡るこの冒険譚には、犬人間、豚人間、牛人間、羊人間、蛙人間、ビーバー人間など、「何も考えてないんじゃないか」とすら思ってしまうような笑える疑似人間が登場する。ガリバー旅行記のような一種のユートピア探しのようで、創土社の邦訳は絶版らしいが是非とも入手したいものだ。
本邦において想像上の生物といえば妖怪だろう。明治期に日本を訪れたギリシア系アイルランド人ラフカディオ・ハーンは、狢やろくろ首、雪女など、当時民衆文化として息づいていた様々な怪談・説話を採取し再話した。彼は幼少期より複雑な家庭環境に育ち、思春期に不幸な事故で左目を失明してからは身体的劣等感にも苛まれて、ひりひりするような感受性をもって世界を見つめた文学者であった。現代でも出版セールスとは違う次元での人気作家であり、邦訳テキストはいくつもの版が存在するが、最も入手しやすいものとして『怪談・奇談』を始めとする講談社学術文庫版小泉八雲名作選集を推薦したい。
ハーンが愛し彼の日本観に決定的影響を与えた島根県松江市。現代日本における妖怪学の第一人者・水木しげるは、ハーン離松の三十年後に、松江から二十キロ程離れた鳥取県境港市に生を受けた。彼の幼少期については『のんのんばあとオレ』(ちくま文庫)に詳しいが、NHKでドラマ化されたのでそちらを見た人も多いだろう。彼の妖怪像は例えば『図説日本妖怪大全』(講談社+α文庫)などにまとめられている。近作『木槌の誘い』(小学館ビッグゴールドコミックス)は、第一巻の八割くらいまで、江戸時代後期の国学者・平田篤胤が実話として記録した妖怪譚「稲生物怪録」の世界を描いている。この物語は当時の民衆に広く読まれたようで、明治~大正期に活躍した近代児童文学の祖・巌谷小波も『平太郎化物日記』(大和書房巌谷小波お伽噺文庫)に翻案しており、私はそれを小学生の頃に夢中になって読んでいた。しかし、『木槌の誘い』は単なる稲生物怪録の翻案に終わらない。物語冒頭から作中に幾度も顔を出し解説者役を果たしていた作者・水木しげるが、第一巻終盤辺りから荒俣宏と共に作品の主人公格となってしまい、時空を飛び越えたはちゃめちゃな活躍をするのだ。タイトルから考えてこの構成は行き当たりばったりの思いつきではなく当初からの策略であったのだろう。老大家、今なお衰えず。
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先に名前の出た平田篤胤は、本居宣長の弟子である。ただし、生前のそれではない。宣長の死後、彼の著作に心酔した篤胤は、宣長から弟子入りを許される夢を見て、宣長門下を公言した。
夢は現実ではない。しかし、夢は人の心の深い所から浮かび上がり、そしてまた心に何らかの響きを与える。現実か否かとは別の問題として、夢は人に確かな情緒的経験をもたらすのだ。だからこそ古来夢占いは個人と社会の行く末を見定める重要な技法と見なされたのだし、現代でもなお夢に関心を持つ人は多い。「空を飛ぶ夢は欲求不満だ」という類の、飲み屋で女の子を口説くくらいしか役に立たないエセ夢分析も横行しているが、そうした受容のされ方もまたひとつの文化だといえる。
夢を巡る古今東西の思索やイメージを概観するなら、例えばデイビッド・フォンタナ『夢の世界』(河出書房新社)がいい。夢解釈の歴史とフロイト、ユングらの夢理論を押さえた上で、様々なテーマとシンボルの諸相を分類して提示している。豊富なカラー図版も豊かなイメージに満ちたもので、軽い知的興奮を与えてくれる入門書だ。
鎌倉時代の僧侶・明恵は、十九歳の頃から夢の記録を綴った。その記録は「夢記」として自筆文書が今に伝わり、『明恵上人集』(岩波文庫)を通じて読むことができる。夢に特有の不条理な出来事に混じって、きらびやかな仏の姿や糞、ムカデなど、分裂病質ともいえるイメージが散見される。明恵がゴッホのように自分の耳を切り落としたことを考えると、どこか脆く危ういものを抱えていたのかも知れないと思える。しかしそうした視点自体が、現代を生きる私たちの文化的フィルターを通したものであることを忘れてはならない。少なくとも明恵の時代において、彼の体験は宗教的なものとして彼自身にも彼の周囲の人々にも捉えられ、明恵は高位の学僧としての生をまっとうした。河合隼雄『明恵 夢を生きる』(講談社+α文庫)は、ユング派分析心理学の立場から「夢記」を読み解いた秀作である。
第二次大戦前後に行われたキルトン・スチュワートによる人類学的フィールドワークは、セノイ族の夢見技法の紹介としてまとめられ、カウンター・カルチャー世代に大きな影響を与えたらしい。マレーシア奥地に住むこの民族は夢を非常に重要視し、日常的に夢解釈を行うことで精神の安定が図られ、数百年もの間戦争や凶悪犯罪が起きなかったという。ところが実は、スチュワートによるこの報告が事実を大幅に誇張したものであった事が、他の人類学者の調査から明らかになった。ウィリアム・ドムホフ『夢の秘法 セノイの夢理論とユートピア』(岩波書店)は、スチュワートという奇人の報告が社会の反響に呼応するかのように変容し、六十年代アメリカの民衆が求めるイメージに合致してゆく様を描いた好著である。事の顛末がピルトダウン人事件のように学問の信頼を失墜させる要素を持つにも関わらず、ドムホフは決してスキャンダラスな書き方に陥ることなく、スチュワートの個人的資質とその論文の問題点について淡々と事実を指摘する。そしてむしろそれが魅力的であったという事を認めながら、近年の心理学・生理学的実証実験を踏まえて、夢について何を語れるのか、セノイの夢技法として紹介された理論の内容に見るべきものは残されていないのかを追っている。スチュワートによる原典「マラヤの夢理論」も本書中に収められているので、興味のある方は本書で事柄の全容を概観する事が可能だ。また中堅ルポライターとして近年とみに活躍の目立つ大泉実成は、数度マレーシアを訪れセノイ族の村に滞在した経験を『夢を操る マレー・セノイ族に会いに行く』(講談社文庫)にまとめた。彼はスチュワートに対する様々な否定的見解を踏まえた上で、それでもなおセノイのアニミズム的な文化の中に夢見の技法は息づいているのだと結論づけている。
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怪物の存在も夢の物語も、現代日本人の理性はそれを現実と取り違えることはない。しかし、「現実にありそうなこと」がまことしやかに語られる時、それが現実であるか否かを瞬時に見分けることはできない。それが「噂」の特質だ。物語自体がはらむ扇情性に人は心を揺り動かされ、現実と嘘との境目があやふやなまま、行動に駆り立てられる。
関東大震災の時に「朝鮮人が暴動を起こし井戸に毒を投げ込んだ」との噂から虐殺事件が起きた。物理学者にして随筆家の寺田寅彦は、理性があればその噂に現実味がない事はすぐ分かる筈だと書き留めたが、しかし、理性は感情に屈服する。昭和四十八年に起きた豊川信用金庫の取り付け騒ぎも、電車の中で高校生が交わした些細な会話が、口伝えに巡るうちに「銀行がつぶれるのではないか」という人々の不安をかき立てて起きたものだ。
松山巌『うわさの遠近法』(講談社学術文庫)は、近代日本の様々な出来事を取り上げながら、その時代の民衆の心的世界を克明に描き出した名著である。先の関東大震災をはじめ、兎投機や霊能実験ブーム、芸術家のイメージ、義経=ジンギスカン説など、溜息が出るほどに多様な事柄を取り上げながら、決して結論を急ぐことなく丁寧に言葉を紡いでいる。民衆が受け入れた様々な「うわさ」と、それによって起きた出来事を深く考察して、明治という時代の精神を読み解いてゆく様は、わくわくするほどの知的刺激に満ちている。
エドガール・モラン『オルレアンのうわさ』(みすず書房)は、一九六九年にフランスで起きた、ある噂を巡る騒動を取り上げている。「ユダヤ人の経営するブティックで、何人もの女性が行方不明になった。試着室で麻酔薬を注射され、売春婦として国外へ売り飛ばされたのだ」。実際には誰一人として行方不明となった事実はないのにも関わらず、この噂は強い感情をはらみながら急速に伝播して、警察など公権力は既にユダヤ人に買収されたとの妄想的陰謀論まで飛び出し、ユダヤ人たちと他の民衆との間に険悪と不信を生んだ。噂自体はまた急速に収まったけれど、不安や恐怖の感情は澱のように長く残った。試着室や注射などのエロティックなモチーフと、ユダヤ人に対するネガティブなイメージ。人々の心を激しくかき乱すひとつの「神話」がウイルスのように構築され伝染し解体する様は、現代日本でも同じことが容易に起きることを予想させる。本書のおよそ半分は、実際に調査に従事した社会学者たちの日誌が占めており、本書全体を小難しい論文ではなく臨場感ある事例報告として印象づけている。
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イマニュエル・カントは、人間は「物自体」を捉えることはできないといった。あたかも孫悟空が釈迦の掌から逃れることができなかったように、人間は自分の認識能力の構造を超え出ることができない。現実と呼ばれるものも、そして非現実的な空想の産物も、共にその構造の上に立ち現れる像である。
そうした認識論の問題を発達心理学の立場から考察しながら、空想が人間にもたらすものを解き明かそうとする試みが麻生武『ファンタジーと現実』(金子書房)である。乳幼児が言葉や身振りを獲得してゆく過程で、例えば無生物であるぬいぐるみを可愛がったり、消しゴムを自動車に見立てて遊んだりという類相の能力が発達する。麻生は豊富な事例を引用しながら丁寧にそうした能力の発達を追い、マスメディアを通じて湾岸戦争やオウム事件についてのイメージが乱暴に形成されていく状況にも目を配りながら、目の前にある現実とは異なる「ファンタジー」が家庭的・文化的・社会的環境の中で必然として培われるものであることを指摘する。著者はいう。
■引用ここから--------
ファンタジーということばは、パラドキシカルなことばである。それが、ファンタジーであると明確に意識されているならば、もはやそれは"死んだファンタジー"であり、リアリティの皮膜を出入りするような”生きたファンタジー”ではない。完全に外部の視点に立てば、内部にあったファンタジーはすべて”死んだファンタジー”になる。逆に、完全に内部の視点に立てば、内部のファンタジーは単なるリアリティの一部になる。
(一三八頁)
■引用ここまで--------
例えば幼稚園児がサンタクロースの存在を信じる時、それは、周囲の大人たちとの間で暗黙に共有されるファンタジーなのだ。
梨木香歩『西の魔女が死んだ』(小学館)は、そうしたファンタジーが人に力を与える様を描く優れた児童文学だ。主人公まいは中学入学後まもなく、他の女の子たちの陰湿な仲間意識に疲れ、登校拒否を起こして田舎の祖母の元にあずけられた。学校でも家庭でも自分の居場所を見失ったまいを、祖母は肯定し勇気づけ、そしてある夜、自分たちの家系は魔女の力を受け継いでいるのだと告げる。それからまいの魔法修行が始まるのだが、その修行とは「まず、早寝早起き。食事をしっかりとり、よく運動し、規則正しい生活をする」こと。豊かな自然の中での一ヶ月余りのまいの生活は、しかし、心をくしゃくしゃにする悲しい出来事で終わりを迎える。それから二年。祖母の訃報に駆けつけるまいを迎えたものは……。タイトルなどから予想される超常的な設定や出来事は、実は何もない。物語はごく日常的な風景の中でごく日常的な人と人との触れ合いを描き続ける。魔女や魔法や不思議な出来事は、祖母の思い出話の中だけで語られ、それが本当にあったことなのかどうかは何も示されない。そんな「魔法の話」を通して語られているのは、喜びや哀しみや怒りや慈しみなどの、人が生きるという事の根本に関わる情緒的経験である。祖母はまいに魔法というファンタジーを与える事で、自分の心の中に起きている出来事を見つめる目を育ててゆくのだ。この紛れもない傑作を是非多くの人に読んでもらいたいと思う。
皆川博子『骨笛』(集英社文庫)は、八つの連作短編からなる幻想小説だ。月の光に透き通ってしまう骨の笛。尻尾を固くして合い鍵を造り勝手に人の家に入り込む鍵猫と、雨を降らせる孤独な沼猫。娘は夢で、母親は映画館で共有する、少年の横たわる地下室へ月の光の下降りてゆく幻影。様々な奇妙なモチーフは、単に美的なものとしてではなく、人の心の揺らぎを確かに誘うものとして物語に食い込んでいる。主人公の多くは少女、もしくは少女の思い出を持つ女性だ。彼女たちは人間関係に疲れ、心をどこか麻痺させるようにしながら生きている。様々な幻視は、鬱屈や憧れや、絶望と希望の果てに顕れる。「夢でうるおえばうるおうほど、昼の暴力に負けない力が増すことを、泉は知っているだろうか。いまは知らなくても、いずれは、知るよ。」作中、母親が娘を思ってのこの独白は、非現実を描く文学の価値を示唆している。
現実または空想から導き出される情緒的経験は、単に心の中への影響に留まらず、身体へも影響を与える。精神的ストレスが例えば胃潰瘍や脱毛症の原因となることは有名だし、がんの進行に心理的なものが影響することも知られている。神庭重信『こころと体の対話』(文春新書)は、精神免疫学の立場からこうした仕組みについて述べた好著だ。生物の身体はホメオスタシス(生体内恒常性)の原理に従って、内分泌腺などが一定の働きをして身体を同じ状況に保とうとする。しかし外界から強い刺激(ストレス)があった時、それに反応しようとして心拍数の増大や発汗などが起きる。通常、そのストレスの原因が取り除かれれば身体は再び元の状態に戻るのだが、常にストレスに晒されていると、ホメオスタシスに狂いが生じて様々な身体不調を招くことになる。阪神大震災でクローズアップされ、その後犯罪被害者に対するケアなど諸方面で関心を集めているPTSD(Post Traumatic Stress Disorder 心的外傷後ストレス障害)の問題も大きく関連しているだろう。
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あるモチーフは、それが現実であるか否かに関わらず、個人的人生経験や社会的・文化的文脈の中で重要な情緒的意味を担いうること。そして文化系の学問や文学的営為は、そうした感情価の側面を射程として人間とは何かを問いうるものであること。私はこの連載の中で、表現を変えて幾度もそのことを述べ続けてきたように思う。
ひとつの象徴的な小説を紹介したい。フランチスク・ムンテヤーヌ「一切のパン」(筑摩書房『世界文学大系94 現代小説集』所収)である。マイナーな作品であり、一九六五年に出版された刊本が絶版のため現在入手する術はほとんどないと思われるが、一九七五年前後に光村図書の中学校国語教科書に採用されていたので、読んだことのある人は結構いるのではないだろうか。私もこの小説を授業で読んで、強い印象を受けた。その後歳を重ね、宗教学という学問を学びまた自己表現として小説創作を続ける中で、もう一度この小説を読み直したい思いにかられてずっと探し求めていた。そんな時、ぐりふぉん同人であるはまのにあ氏から東京書籍が開設する教科書図書館「東書文庫」<http://www.tokyo-shoseki.co.jp/>のことを聞き、メールで問い合わせたところ作品の著者名や掲載教科書、出典についての情報を得ることができた。その後、国語教師を定年退職された山陰文芸協会副会長・古浦義己氏から古い教科書を閲覧できる施設を紹介していただき、ようやく作品を読み直すことができたのである。
舞台は第二次大戦中のハンガリー。ルーマニアがソ連と手を結んだ為にルーマニア人である主人公はドイツ軍に逮捕される。彼はドイツ軍から人間性を剥奪されるような屈辱的な扱いを受け、他の逮捕者たちとともに監獄へ向かう列車に乗り込んだ。そこから脱走する際、主人公は車内で知り合ったユダヤ人のラビ(僧侶)から、布に包んだ一切れのパンを与えられる。ラビはいう、パンをすぐに食べようとしてはいけない、いつどこで食物にありつけるか分からないのだから、耐えられるぎりぎりまで布に包んだまま持っているべきだ、と。主人公の孤独な逃走が始まった。激しい飢えと乾き。あちらこちらにいるドイツ兵の影。死を目前にすることの絶望。彼はポケットに収めたパンを心の支えに、ついに窮地を脱して自宅にたどり着いた。ほっとした主人公は深い感慨をもって布包みを開く。そこにはパンではなく、一切れの木片が入っていた。
この物語は、人の心の仕組みとそれがもたらす力をうまく言い当てている。中身が木片であった事にあまり目を奪われてはならない。仮にこの中身が本当にパンであったとしても、それが主人公の支えとなったであろうことに変わりはないのだから。大切なのは、中身がパンであると信じること自体が彼に生きる力をもたらしたという、その一点だ。
このことは、宗教という現象を考える上で重要な視点になると思う。妖怪は存在するか、と問われた時、水木しげるなどごく一部を除いて多くの人は即座に否定するだろう。しかし、神や仏の存在について同じことを問われた時、それを否定する人は幾分少なくなる筈だ。日本人のうち何らかの宗教を信じている人の数は日本の総人口を上回るという、統計上の問題から発生する笑い話のような事実もある。科学的実証主義の立場から神仏の存在を否定することは──正確にいえば、肯定すべき積極的根拠がないと示すことは、おそらく簡単だ。合理的思考が広く普及すれば宗教は衰退するに違いないという、社会学者の予測もかつて存在した。にも関わらず、現代社会でもなお宗教を信じる人は多い。それは、世界から意味を読みとる人間の認識能力の基本的構造が、生きる力を得るために何かを信じることを要請するからなのだと思う。
しかし、宗教は決して純粋なものではあり得ない。オウム事件を持ち出すまでもなく、宗教を通して人間のエゴや暴力や悪意が、友愛や祈りや善意と同じように露わになることを、私たちは知っている。良い面も悪い面もひっくるめて人の心の全てを剥き出しにする「人間の現象」としての宗教を、次回のテーマとして取り上げたい。
続く
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