第2話「異世界には、“あれ” が無い」
異世界に来た翌日は、新しい職場への出勤初日でもあった。
起きた時点で遅刻寸前。慌てて準備し家を飛び出す。
新たな職場は『赤の石窯亭』という名前の飲食店。
キッチン中央に置かれた赤レンガ製の石窯が、文字通り店名の由来だそうだ。
オーナー兼店長の夫婦はこの店の2階に住んでいる。お店は奥さん店長が仕切る『昼の食堂』と、旦那さん店長が仕切る『夜の酒場』の二部制で、ひとまず私は昼の時間帯だけ働かせてもらうことになった。
正直なところ、飲食店で働くのは不安だ。
高校1年の時の人生初バイトが
その後も色々あって「自分は人づきあいが得意じゃない」って自覚した。
とはいえ適度な距離さえ保つようにしてれば、それなりに無難にやっていけるとは思う。でも飲食店は……大丈夫かなぁ。
そんな私の不安をよそに。
勤務初日の店内は、大歓迎ムードのお祭り騒ぎと化していた。
「それじゃ、マキリちゃんがうちに来てくれたことを記念して――」
「「「「かんぱ~いッ!」」」」
奥さん店長の音頭にあわせて、私含め店員も客も全員揃って乾杯し、店長
大量の不揃いな柑橘系果物をまとめて豪快に絞ったばかりのジュースは、清々しい香りに充ちていた。味は甘さ控えめのオレンジで、ほんのり苦みがアクセント。後味さっぱりだから料理にもよく合いそうだ。
ガラスじゃなく、ジョッキサイズの陶器マグカップってのも悪くない。持ち手も飲み口もざらざらで、ごつくて分厚くて重いから両手で持ってちょうどいい。こういうコップでジュースを飲むのはなかなか新鮮だ。
「ねぇマキリちゃん、この『カスタードソース』ってのは凄いねぇ! ちょっとかけただけで果物がこんなに
大きなスプーンと皿を抱え話しかけてきたのは興奮気味の店長。
皿の山盛り木苺にとろりとかかっているのは、さっき試作したカスタードソース。彼女いわく「試食」らしいけど、その割にだいぶ量が多い気がする……!
ちなみに木苺はエイバスの特産の1つで、この辺りでは最も安く手に入る果物らしい。安いなら気兼ねなく試作に使えるし、安定して手に入るのも嬉しいね。
甘くないからそのまま食べても味気ない。だけど香りと酸味が強いから、甘味を足すと一気に美味しくなりやすいんだ。
というわけで少し甘めに作ったカスタードソースをかけてみた。
これなら牛乳・卵・砂糖だけで簡単に作れるし。いつもならバニラとかで香りを足すけど、今日は木苺の香りを活かすからこれで充分だと思ったんだよねぇ。
「カスタードソースは、パンケーキやタルトとかにかけてもおいしいですよ」
「それさぁ今度お店で出してもらってもいいかい?」
「もちろんです」
「おぉっ楽しみだねぇ! じゃその分お給料に特別手当のせとくよ!」
店長は満面の笑みでソースがけ木苺をぺろっと平らげてから、皿にこびりついたソースまで1滴残さず完食したのだった。
***
実は昨日この店に紹介してもらった時、冒険者は私を『たまたま会った異国の菓子職人』だと紹介した。彼によれば「石窯亭は昼時のデザートメニューのマンネリ化に悩んでるから、菓子職人だと紹介すれば絶対に雇ってくれるはず」と。
その時は、夢の中の出来事だからと気にも止めなかった。
でも起きてここが現実だと気付いた瞬間。
すっごく心配になったんだ。
私のお菓子作りはあくまで趣味レベルだし、ましてお店に出したり、不特定多数の人に食べてもらったりなんて経験なかったもの。
そりゃ
だから店長にこうやって喜んでもらったのを見た時は、嬉しいよりむしろホッとした気持ちのほうが強かった。
もしこれで気に入ってもらえなかったら、せっかく決まった職場から放り出されてたかもしれない。そしたら今後の生活が金銭的に不安定になるのはもちろんだし、せっかく紹介してくれた冒険者達の顔を潰してしまうことにもなりかねない。
彼らは
今後彼らに「この恩を返せるか」どころか「また会えるか」すらも分からない。
だけど少なくとも、恩を仇で返すようなことだけはしたくない。
店長の期待に応えられたことで、ようやく小さな小さな1歩目を踏み出せたような気がしたんだ。
***
16時、赤の石窯亭での初日勤務終了。
日が高いうちに仕事を終え帰宅できるなんていつぶりだろう。心なしか疲れもどこか心地いい。
ちょっと早いけどシャワーを浴び、どさっとベッドに倒れ込む。
「あれ? 外がまだ明るい。時間通り帰れる職場って、実在してたんだ」
思えば東京で勤めてたWeb制作会社で、時間通り帰れた試しはほとんど無かった。
常に仕事に追われててサービス残業がデフォルト仕様。さらに納期直前ともなれば終電退社も日常茶飯事。
たぶんブラックと言って良い部類。
何とか耐えられてたのは先輩のおかげ。ウェブサイト制作やSEOの基礎とか、ちょっとしたミスの対処方法とか、仕事における時間短縮のコツとか、色んなことを教えてくれたのも彼女だった。
もしも先輩がいなかったら……うん、とっくの昔に退職願を叩きつけたくなってたかも。
「……先輩、今頃は大変だろうな」
私が消えても会社は回る。Web業界は人の入れ替わりが恐ろしく早いってことぐらい、この5年で嫌になるほど理解した。今回は引継ぎもしないで急に行方不明になったから最初は大変かもだけど、たぶん先輩ならどうにかできるだろう。
そりゃ不可抗力だったとはいえ。
先輩、それに会社のみんな、急にいなくなってほんとにごめんね。
「それとやっぱ
パリッと着こなす和服がトレードマークの祖母ちゃんはお菓子作りが得意だった。
だから祖母ちゃん大好きな私がお菓子作りに目覚めたのは、すごく自然な流れだと思う。
最初はクッキーの型抜きからで、見よう見まねで少しずつ覚えた。使える道具や作れるお菓子が増えると誰よりも祖母ちゃんが喜んでくれたし、味見もいつも祖母ちゃんと一緒だった。
私と祖母ちゃんとの思い出は、バニラやフルーツや焼きたて菓子の甘い香りでいっぱいだ。
高校卒業して就職した私が1人暮らしを始めてからは、年に数回しか会えなくなった。任される仕事が増えるにつれだんだん帰省回数が減っていって、最近は全然帰れてなかった。
……やばい。
なんか、ちょっと、泣きそうかも……。
……。
………………。
「……あっ! 『婚カツ兄貴』最終回、配信昨日だった!」
思わずベッドから飛び起きる。
『婚カツ兄貴』は、私が最近ハマってるアニメだ。
主人公は年の離れた2人兄妹。突然両親が行方不明になっちゃって、高校を中退した『兄貴』はトンカツ屋に就職し『幼い妹』を育て始めた。
それから10年経ち、高校生になった妹が「私を育てるために青春を捨てた兄貴には、素敵な相手と幸せになってほしい!」って言うけど、兄貴は「お前の大学卒業までは無理」の一点張り。
そこに妙にフレンドリーな『イケメン幽霊』が現れ妹と意気投合。
結託し兄貴の婚活を進めていくはずが、謎の組織に襲われたのがきっかけで妹が『特殊能力』に目覚め、強大な敵に立ち向かっていく……っていうところから話が始まる異能力バトルコメディなんだ。
登場人物が敵も味方も良いキャラなんだよ~。
テンポもいいし、声優さんもゲストキャラ含めハマり役ばかり!
たださぁ、兄貴のトンカツが飯テロすぎて毎回おなか減るんだよねぇ。
画面の向こうだって分かってるのに、揚げ物の匂い&衣の歯ざわり&
……『全編作画は超絶良いけど、毎回1番の神作画は
一応キャッチフレーズは「婚活×トンカツ×異能力バトル?!」のはずなのに、他の要素より明らかにトンカツ要素が強すぎるんだよっ。まぁそれも含めて好きなんだけど!!
「そういえば昨日の冒険者2人組、婚カツ兄貴の幽霊と兄貴に似てたな……」
彼らとは初対面のはずなのにそんな気がしなかった。むしろ不思議と懐かしささえ覚えたぐらいだったのは、たぶんこれが理由なのかも。
「それより最終回! やっぱこういう時だからこそ、好きなアニメでも観て気分転換しなきゃだよねぇ。え~っと、スマホスマホ……」
『婚カツ兄貴』は全12話。先週の第11話が良い所で終わってた上、昨日は最終回の最速配信&放送だったから、今頃SNSはネタバレ祭りだろうなぁ。
今クールのアニメの中でも相当人気で、最終回と同時にサプライズ発表で「第2期 or 映画制作決定!」とか来てもおかしくない勢いだった。ネタバレくらう前に観たいのに、なぜか探しても探してもスマホが見当たらない……!
…………ん?
「 ス マ ホ ? 」
ふと我に返る。
嫌な胸騒ぎ。
そして気付いてしまった。
ここは
ということは、つまり――。
「ネット繋がんねえよぉぉおォッ!!!」
この世界には『インターネット』が無かったのだ。
ネットが無いわけだから
がっくりと座り込んだ私は、ただただ呆然と明後日の方向を見つめることしかできなかった。
***
私はどちらかと言えば、何事も浅く広く楽しむほうだ。
ちょっとでも気になった作品は片っ端から追いかけてた。ある時は広告で気になったゲームを遊んでみたり、またある時は好きなアニメの原作マンガを読んでみたり。
で、暇さえあれば入り浸ってたのがSNS。大量のつぶやきを眺めてると、リアルタイムで一緒に楽しんでるリアルタイム感に浸れるよね!
今になって思えば、私の生活は『インターネット』のおかげで充実してたんだろう。
気になったワードを調べるなら、まずはスマホの出番。
動画配信・SNS・オンラインゲーム……こんな心の
もちろん仕事だってそう。
「ほんとに大切なものは、失って初めて気づく、か……」
ネットも無ければ、スマホもパソコンもタブレットも無い。
これから私が生きていかなきゃいけない
「……そういえば昔、
あの頃はいまいちピンと来なかった。
だけど今なら、祖母ちゃんの言葉の意味……ちょっと分かりはじめた気がするなぁ。
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