吉野の雪を踏む

野咲カノン

第1話

 冬の吉野は凍てついて、木々は氷をまとって白く光る。

 川連法眼の屋敷は吉野山の奥にあり、冬になると人の訪れもぱったりと絶えた。都を落ちてから旅に旅を重ねた義経一行は、外界から遠く隔たれたこの屋敷にかくまわれ、ようやく平穏な生活を取り戻しつつあった。


 山奥に閉じ込められてふさぎがちな皆を気遣い、義経は雪見の宴を催すことにした。手ずから木の下の雪を払い、筵を引いて宴席を作る。

「これでよし。次は酒肴の準備だ。静!」

 義経は小袴の裾が濡れるのも気にせず、深い雪をざくざくと踏み分け庭を横切った。雪に埋もれた低木に気づかず、つまずいてよろける。

「危ない!」

 弁慶があわてて走りよったが、義経は平気な顔でその低木を検分していた。

「見ろ、弁慶。寒牡丹だ」

 厚い雪が振りおとされて下から顔を出したのは、薄紅色に咲く大振りの寒牡丹だった。

「雪山には色がないと思っていたが、ただ色を潜めていただけだったのだな。健気な花だ。まるで静のようだと思わんか」

 と自分の愛妾を花に喩える義経に、弁慶はなんとも返答しがたく、「左様でございますか」と気のない返事をした。

「誰に愛でられることもなく、厳しい季節をあえて選んで咲く気高さ。その秘めた色を私の前でだけ見せてくれるいじらしさ。これぞ花の中の花」

 と枝に積もった雪をやさしく取り除いて褒める。

「しかし我が君。花は弱く、このような大雪には耐え切れず、落ちてしまうかもしれません。花はやはり、気候のよい時に愛でてこそ。それが花のためでもありましょう」

 弁慶のことばには義経も思うところがあって、返事もせずに考え込んだ。


 そこに家主である川連法眼が、客を連れてやってきた。

「判官殿。そのようなところにいらしてはお風邪を召されます。会わせたい人もいる。さあさ、こちらへ」

 と川連法眼は義経に断りもなく、我が物顔で部屋の中央に座す。失礼な奴、と弁慶は苦々しく思ったが、義経は気にした様子もなく、小袴の裾についた雪を払って、悠々と部屋に上がった。

「判官殿、こちらは比叡山横川の覚範と申す者。信頼の置ける者ゆえ、どうぞご安心いただきたい」

 川連法眼に紹介されて、覚範は義経の前に頭を垂れた。裏頭の間からのぞく目が鋭い光を放つ。

「判官殿の手勢に加えていただきたく、参上いたしました。私の後ろには、志を同じくする数百の者が控えております。いざという時には皆、判官殿のため戦う所存」

 と言う姿は真摯ではあったが、義経は権勢の衰えた自分に与する他人がいようとは思えず、慎重に答えねばなるまいと心密かに思った。

「そのように心寄せてくださるのはありがたいが、武運傾き隠居する義経、数百の兵を持ったところで戦う相手もなし、持て余すことでございましょう」

「ははぁ。判官殿には我が心お疑いのご様子。なに、無理もないことです。これが証になるかは分かりませんが、まあご覧いただきたい」

 そう言って覚範が取り出した五条袈裟を見て、義経はハッと息を呑んだ。それは懐かしい鞍馬山で見慣れた、義経の師、東光坊覚日律師の袈裟であった。

「御坊、その袈裟、どこで手に入れられた」

「実は、兵を集め私をここに寄越したのは、覚日律師なのでございます。律師はこの袈裟を私にくださりこうおっしゃいました。『もし判官殿が疑うようであれば、これを見せてあなたの身の潔白の証とし、判官殿にこう言うように。覚日の身は遠く山河を隔てても、その心はいつまでも判官殿のお傍にある』と」

 義経はこれを聞いて感に耐えず、

「この義経がはからずも兄上の勘気をこうむってから、一族郎党は言うに及ばず、師である覚日律師にも厳しい詮議があったと聞く。それを恨みにも思わず、ただただ我が身を案じてくださるお志。ありがたさに言葉もない。三国中を探しても、覚日律師にまさる高僧なし」

 と鞍馬山のある北へ向かって両手を合わせ、伏し拝んだ。

「お師匠さまのご名代とあっては、おろそかには出来ません。しかし、今この吉野に大軍を置いては我が居場所を鎌倉方に知らせるも同然。私は時機を見て奥州へ下るつもりですが、その時には必ず御坊とその一党を引き連れてまいります。どうかそれまでは他の場所でお待ちいただきたい」

「なるほど、ごもっともではありますが、味方は血の気の多い者ばかり。放っておけば判官殿のお考えも理解せず、吉野へ押しかける者がいないとも限らない。私が確かに判官殿にお会いしたことを知らしめるために、なにか証を頂戴したい」

 と覚範は言った。そこで義経は惜しくは思ったけれど、大事の品を手放すことにした。

「これは私が幼少の頃から所持する守り刀。共に数十年の時を過ごしてきた大事の品です。これを授けることが、私のあなたへの信頼の証」

「ああ、これで私も安心して仲間の元に戻れます。さっそく判官殿のお言葉をお伝えして、来たるべき日に備えましょう」

 覚範は義経から賜った短刀を性急に懐にしまい、いそいそと席を立った。


 さてその頃、義経の忠臣の一人、佐藤忠信は庭の様子を見て歩いていた。雪見にふさわしくない景色がないか検分するためである。そこへ人の渡ってくる気配がしたので、忠信は顔を上げて渡り廊下の方を見やった。

「まずはうまくいった、うまくいった」

 打ちとけた様子で話す声は川連法眼とみえ、彼をあまり快く思わない忠信は、顔を合わすのを避けて雪山の影に留まった。

「それにしても覚範殿のみごとな演技。真実知る私でさえ、あまりのお志に泣きました。あの判官など、手を合わせて拝むありさま。いやあ、おもしろい」

 と川連法眼が声はずませることばの意味はしかとは分からないが、どうもただ事とは思われない。

「これこれ、私を大嘘つきの悪党のように言うてくださいますな。私が覚日律師と会うたのも事実、彼が判官の行く末を憂いていたのも事実。違うのはただ一点、私が兵を集めたのは判官を助けるためではない、判官を討つためだ」

 そう言って呵呵と笑いあう二人の声に忠信はいきり立ち、雪踏みしめる足もわなわなと震えた。

「ところで、覚範殿。以前にお約束いただいた件はどうなりましたか」

「ご安心なさいませ。鎌倉殿は川連殿の御尽力にいたく感謝されておられます。判官を討った後には川連殿にしかるべき褒章もあるとのこと」

 と覚範は袂から書状を取り出した。川連法眼が白雪のやわらかい光に透かして見ると、それはまさしく川連法眼の密告への感状で、右端には頼朝の花押が書かれている。

「ありがとうございます。これで安心いたしました」

「兵が整い次第この館に攻め入る手はずですから、それまでは川連殿、判官に決して気取られぬよう」

 二人は重々しくうなずきあって母屋へと向かった。

 忠信は雪山の影から飛び出て、

「これは怖ろしいことを聞いた。早う我が君様にお伝えしなければ」

 と義経のいる離れへ向かおうとしてふと立ち止まった。義経と川連法眼は、鞍馬寺で共に稚児をしていた仲で、その信頼はことのほか厚い。証拠もなくこのことを告げては、讒言と思われはしないか。なんとかあの感状を手に入れたい。そう思って忠信は、まずは急いで母屋へと向かうことにした。



 疲れ果てた面持ちで力なく、そろそろと部屋へ入る夫を見て、川連法眼の妻の心はざわめいた。

「今日は突然のお客もあり、さぞお疲れでございましょう。まあ、ゆっくりと火にお当たりくださいませ」

 妻は火桶を近づけ夫をねぎらったが、夫はその気遣いにも生返事で、何やらしきりに考え込んでいる。

「今夜は判官様が雪見の宴を催されるそうです。だんなさまも、一つご相伴に預かっては」

 何気ない妻の言葉に川連法眼は顔をゆがめた。

「ご相伴とは笑止。それもみな、わしの金で購ったものではないか。それを我が物顔で平らげて、果ては雪見の宴とは、ほんに判官殿は雅人であらせられる」

「まあ、一体どうなさったのです。御酒の一つや二つでおうらみごとをおっしゃる旦那様ではありますまい」

 軽くたしなめつつ妻は夫の顔を見やって、その目に宿る剣呑な色に驚いた。

 季節はずれの来客。突然義経をののしりはじめる夫。これはただ事ではない。もしや、と思い当たることがあった。

 思い切って妻は居住まいを正し、決然として言い放った。

「なるほど、あなたの心底、見極めました。鎌倉方に組するが時勢、よう決心された」

「なに?」

「隠されずともようございます。あの覚範なる者は鎌倉殿の手の者でございましょう。判官様への義理も大事ではございますが、それも命あってこそ。全て打ち明けてくださいませ。お力になります」

 妻の言葉に、川連法眼はやっと心のつかえが取れた気持ちがして、

「よう言うてくれた。私とて判官殿には義理もあり、情もある。しかし、私が鎌倉に背いたならばその咎は、お前は言うに及ばず、この吉野山一帯に及ぶだろう。鎌倉殿の追及は厳しく、もはや判官殿に逃げ場はない。ならばいっそ思い切って、この手で判官殿の命運絶とうと思い立ったは、……思い立ったは、ああ、結局我が身可愛さ」

 と胸にせきあげて言葉を詰まらせ、

「わしは判官殿を売った大悪党じゃ、大悪党は大悪党らしく、自分の罪は棚に上げて、売られる判官殿に罪なすりつけての悪口雑言。ハハ、どうじゃ、堂に入った悪党ぶりであったろう、のう」

 と目に涙を浮かべながら悲しく笑った。

「その旦那さまの心意気が、鎌倉殿にも伝わっていればよいのですが」

「オオそのことなれば心配はない。ここに鎌倉殿の感状がある。鎌倉殿は私の働きにことのほかお喜び。褒美もいただけるとのことだ」

「ほう……」

 夫の取り出した書状を見て、妻の目がするどく光った。


 部屋の燈台が風もないのに大きく瞬いた。川連法眼がその燈台に気を取られた一瞬のうちに、妻は一尺ほどの距離を音もなく詰めて、川連法眼の手から書状を奪っていた。

「なにをする!」

 身を翻して部屋を出ようとする妻を引き戻し、川連法眼は書状に手を伸ばした。

「その書状、まさか判官殿へ見せるつもりか」

「夫の不法、正すも妻の役目」

 妻の目には固い決意が宿っていた。

「……いた仕方ない」

 今ここで、裏切りが露見しては身の破滅だ。

 川連法眼は妻の肩を取って押さえつけ、小刀を抜いて振り上げた。はっと息を溜めて、振り下ろしかねては息を吐き、それを二度ほど繰り返したが、妻が大声で叫びたてたので、慌てて妻に刀を振り下ろした。


 その時、静は母屋の廊下へ差し掛かったところであった。男だらけの宴に女一人ではつまらぬだろう、との義経の配慮で、川連法眼の妻を誘いに来たのである。一緒に雪見をすればさぞ楽しかろうと、胸躍らせて母屋へ向かった静は、女の悲鳴に驚いて一瞬動きを止めた。しかし、彼女も男に混じって吉野まで来るほどの女傑である。臆せず部屋に飛び込んで、川連法眼と、その腕に抱かれて絶命している妻を見つけた。

「これは一体、どうしたことです」

 川連法眼は声を震わせて答えた。

「……恥ずかしながら、わが妻は判官殿を裏切ろうとしたゆえ、手打ちにいたしました」

「我が君様を?」

「妻の真意にもう少し早く気づいていれば、むざむざ死なせずにすんだものを。このようにわが手にかけねばならんとは、なんの因果か」

 とさめざめ泣く川連法眼はあまりに哀れで、にわかには信じがたい話だが嘘とも思えない。

「おかわいそうな人」

 静はそっと両手を合わせた。

「このこと、我が君様にもお伝えしてまいります」

 静は気丈に涙を抑えて、離れの義経に事の次第を伝えに行った。

 

 川連法眼は静を見送ってから、妻の横に膝をついた。血の気の失せた妻の顔をつくづく眺め、しばらく言葉もなかったが、そっと手を合わせて、妻の懐に手を差し伸べた。

 義経たちが来る前に、頼朝の感状を取り戻さねばならぬ。自らのやったこととはいえあまりに侘しく、これからやることがあまりにさもしく、川連法眼は慟哭した。

 すると、部屋の明かりが突然消え、同時に川連法眼の手の下から妻の肉体が無くなった。驚く川連法眼の目の前に小さな炎が現れ、揺らめきながら遠ざかっていく。炎はゆっくりと庭へ向かい、その真ん中でふっと掻き消えた。

 雪が月の光を反射して、外はほのぼのと明るい。炎の消えたあたりに目を凝らすと、いつからそこにいたのか、佐藤忠信が頼朝の感状片手に立っていた。

 ハッと息を呑んで立ち尽くす川連法眼に、忠信は大音声でのたまった。

「川連法眼、命運は尽きたぞ。覚悟めされい」

 あまりに突然のことに川連法眼は混乱したが、ともかく頼朝の感状を取り返さねばと、忠信に襲いかかった。死に物狂いで小刀をめちゃくちゃに振りまわし、書状へと手を掛ける。やむなく忠信は太刀を抜いて、川連法眼の腕を切りつけた。しかし川連法眼も執念で書状から手を離さず、互いに引いた拍子に書状が破れ、その切れ端が川連法眼の手の中に残った。忠信が川連法眼にもう一太刀浴びせようとするところに、武蔵坊弁慶が走り出て、二人の間に入った。

「待て待て! 何をしている」

「ええい、離せ!」

 騒ぎたてる忠信の声は屋敷中にひびきわたり、横川の覚範の耳にも入った。一体なんの騒ぎかと覚範は部屋を飛びだし、庭の片隅に隠れて事の成り行きを見守ることにした。

「忠信」

 義経が鋭い面持ちで、静を伴い部屋へ入ってきた。

「居候の身でありながら、家主に手を上げるなど許しがたい行為。事によってはそなたでも手討ちにするぞ」

 と厳しく詰めよられ、忠信は憤懣やるかたない気持ちであったが、渋々太刀をおさめた。

「この川連法眼は鎌倉と組んで、我が君様を討つつもりです。これが証拠の書状」

 と義経に破れた書状を手渡した。義経はしげしげとその書状を読み、自分を鎌倉方へ売る内容だと気づいて身を震わせた。

「なんということだ!」

 ようよう怒りを沈め、もう一度書状を改めると、たしかに頼朝の花押のある本物には違いないが、左端が破れていて宛名が分からない。

「これでは誰に宛てた書状か分からぬ」

 その言葉を聞いて、川連法眼がそっと自分の手中を覗くと、引きちぎったのはちょうど宛名の部分で、川連法眼の名の書かれた左端が手中に残っていた。一番大切な証拠の部分は隠しおおせたのだと、にわかに川連法眼は元気づいて、忠信に反駁した。

「そのような書状に覚えなし。忠信殿が私を貶めようと準備したものでしょう。忠信殿こそ裏切り者でございます」

 驚いたのは忠信である。

「これは思いもかけない讒言。悪事の露見を恐れ、自分の妻まで手に掛けたのはそなたの方だろう!」

「我が妻は忠信殿にそそのかされたのです。そもそも忠信殿に不審あり。ここには妻の死体が確かにあったが、それがふっと消えたかと思うと、突然忠信殿が現れた。どうも怪しく思われます」

「確かにここにご遺体があったのは私も見ました。突然消えたとあれば、不思議なこと」

 と静も戸惑いながら同意する。

「忠信殿はあやかしの類に違いない。我らを誑かして、判官殿を陥れようとしているのです」

 それには義経にも多少思い当たるところがあって、

「忠信には確かに不思議なところがある。この吉野への道中でも幾たびか敵に攻められたが、忠信には矢もきかず、その鬼神のごとき働きはとても人間業とは思われなかった。都落ちの時からどうも人が変わったように感じていたが」

 もしや本当に人が違ったかと、しげしげと忠信をうち眺めてあやしむ。

「ただ君が為に、死に物狂いで戦った家臣にたいして、それはあまりに情けないお言葉でございます」

 忠信は嫌疑を掛けられたことがあまりに口惜しく身を震わせて訴えたが、川連法眼はそれを鼻で笑って言った。

「なにを言おうが無駄なこと。そなたがあやかしの類なれば捨て置けぬ。調伏せねばなるまい」

「なんだと! この裏切り者が!」

激昂して斬りかかろうとする忠信をふたたび弁慶が抑えるが、忠信も力自慢の剛の者なので、抑えきるのは困難に思えた。

「ええい、静まれ。お前たちがそう言いたてずとも、まことの忠義分からぬ義経ではないわ。弁慶、裏切り者の首召せ」

 そう言って義経は、扇と目線で弁慶に合図を送った。弁慶はハッと驚いたが、すぐに落ち着いた様子で太刀をすらりと抜き放った。

 忠信は、ここまで言っても我が忠義は伝わらないかと、万策尽きて力が抜けた。弁慶は従容と座した忠信の後ろに立ち、刀を構えた。

「御免!」

 気合一閃、弁慶が振り下ろした刃はあざやかな曲線を描いて、忠信の横にいる川連法眼の首を斬り落とした。


 ハッと驚く忠信に義経は思わず微笑をもらした。

「言ったであろう。まことの忠義、分からぬ義経ではないぞ」

「しかし、この忠信にお疑いがあったのでは」

「いや確かに不思議だとは言うた。不思議だとは言うたが、不審だとも、疑い有りとも一言も言うてはおらんぞ」

 と義経は大いに笑った。覚範は庭の片隅でこれを聞いて、たくらみの露見を悟った。ここにいてはまずいと、庭を離れひそかに屋敷を抜け出す。

 義経は威儀を正して忠信に問いかけた。

「そなたの忠義、一片も疑いはないが、不思議があるのは事実、そなたの事情話してみよ」

「そうまで言うてくださっては、私も隠し通してきたことを、お話いたします」

 と忠信は語りはじめた。

「ご高察のとおり、私は人間ではございません。私は大和国の野狐、野を荒らし村に悪さしてうとまれる厄介者でございました。しかしそんなケチな悪事にもなんだか飽きがきて、大きなことをして名を上げたい、という馬鹿な望みを抱くようになりました。そんなとき、この大和に義経一行が来ると知り、あの天下に名高い義経を打ち負かせば一生の誉れ。ひとつ化かしてやろうと、いまだ京にいらっしゃる忠信殿の姿を借り、お傍近くに入り込んだのでございます。

 しかし、共に起き伏しするうちに、判官様の気高さ、お優しさに触れ、いつしかこの方のご武運を開きたいと思うようになり、畜生の浅知恵なれど、様々に判官様を守護して参りました。今回も、証拠の書状を手に入れ、川連の悪事を暴くために、川連の妻に化けたのでございます。本物の川連の妻は今ごろ離れの一間でぐっすり眠っておりますから、ご安心くださいませ。

 しかし、判官様をたばかった罪は罪。いかようにもお裁き受ける覚悟ですが、その前に覚範殺すが最後のご奉公。どうか一刻の猶予を賜って、最後の武功を立てさせていただきたい」

 と涙ながらに語られたことばに、弁慶もいたく感心して、

(あっぱれな心意気。これはなんとしても手柄を立てさせてやりたい)

 と考えた。

「我が君。覚範はかなりの手練、私の力だけでは心もとない。ぜひ狐の忠信殿にもお力添えを願いたい」

 と弁慶も申し出たので、義経は快くそれを許した。二人は喜び勇んで部屋を飛びだしていったが、すぐに戻って「どこにも覚範見当たらず、逃げたものと思われます」と報告した。

「覚範を逃がしては、すぐに鎌倉方の大軍を率いて戻ってくるぞ。どうするべきか」

 今大軍と正面からぶつかっては全滅は必至と思われた。ついに命運尽きたかと、義経の心もいつになく乱れた。

「これも私が軽率にあの二人を信じたゆえに起こったこと。怪しい、とは思いながらも、守り刀まで与えてしまったことが悔やまれる」

 と義経が嘆くのを聞いて、狐の忠信は身を乗りだして叫んだ。

「なに、守り刀? 判官様が肌身離さずお持ちだったものならば、必ずやその霊力をたどれるはず。私が探しだして、横川の覚範の首取ってまいります」

 忠信は座を蹴って立ちあがると、風を切って走っていった。弁慶も慌てて薙刀をひっつかむと、その後を追った。



 武者二人が出て行き、急に静かになった部屋には不安が募る。静はそっと義経に寄り添って身震いした。

「これからどうなるのでしょうか」

「忠信が覚範を討ったとしても、鎌倉方にこの場所が知られたのは事実。この屋敷は立ち退かねばなるまい」

 義経の言葉に、やはりこの場所も安住の地ではなかったのだと静の悲しみは深く、思わず涙をこぼした。

 京を離れてから旅の空、花の都では法皇の歓心を得るほどの白拍子だった静だが、旅の艱苦に疲れ果て、その輝きを曇らせていた。それも全てこのような山奥まで引きまわしてきた自分のせいだと思うと、義経の心も張り裂けんばかりだった。

 どこまでも共にと考えてきたけれど、これが潮時かも知れぬ。人知れず義経は覚悟を決めた。



「判官様」

 忠信の弾んだ声に義経は振り向いて庭を見た。忠信は息一つ乱さず義経の御前に跪き、首桶をうやうやしく据えた。ようよう追いついてきた弁慶も息を弾ませながら庭にはべり、

「いやはや、まったく忠信殿の足に追いつくのは至難の業。しかし、その甲斐あって、それ、覚範の首取りましたぞ」

 と己が手柄かのように言ったが、首桶を持ってきたのが忠信であることからも分かるように、手柄を上げたのは忠信の方である。

「首取った仔細述べてみよ」

 との義経の言葉に弁慶が答える。

「雪の中を跳ねるように駆ける忠信殿を追っていくと、やがて世尊寺にたどりつきました。雪に閉ざされたお堂はひっそりとしていましたが、忠信殿が言うには、中に覚範の気配がすると。気配を隠して忍び寄り、中をうかがえば、蔀戸の隙間からかすかな光が見えます。

 ここで追いつけたのは僥倖。私が鉄のこん棒、忠信殿が木槌を使って蔀戸を打ち壊し、お堂の内に押し込んだのでございます。

 中には慌てて鎧を半分ほど着けた覚範が薙刀をかまえておりました。追い詰められたとはいえ、その眼光するどく、さすが横川にその人ありとまで言われただけのことはあると、私もしきりに感心しておりました。

 一太刀浴びせんと、私は覚範に襲い掛かりましたが、敵もさるもの、ひらりとかわしたかと思うと、灯していたろうそくを叩き落しました。お堂の中は月の光も届かず、完全な真っ暗闇です。私の目には何も映りませんが、覚範からは打ち壊した蔀戸の前に立つ私は、月の光に照らされた格好の標的だったでしょう。暗闇から飛び出してきた薙刀をかろうじて受けたところで、忠信殿に「弁慶殿、影へ、影へ!」と叫ばれて、飛びすさって堂の片隅の暗闇へ逃げました。

 そこからは、私には何も見えません。ただもみ合う音と、剣戟の音だけが響いていました。後から聞けば、忠信殿は目は見えずとも音で敵の居場所が分かるそうで、覚範は相当の苦戦を強いられたでしょう。私には勝敗も分からず、忠信殿の状態も分からず、それは気が気でなかったけれど、永遠と思えた時間もやがて終わり、ドサリという鈍い音とうめき声の後に、しっかりした忠信殿の声が「弁慶殿!」と私を呼ぶのでやっと安心した次第でございます」

 との弁慶の言をしおらしく聞いていた忠信は「判官様、こちらを」と言って覚範から取り戻した義経の短刀を差し出した。これには義経も格別喜んで、

「あっぱれな働き。これで平泉へ落ち延びる時間も稼げた。全て忠信のおかげだ。これからも末長く仕えてくれよ」

 と忠信の手を取って言った。

「もったいないお言葉ですが、正体を知られては共におられぬのが狐の掟。これ以上判官様をお守りできぬのは心残りですが、私は山に帰らねばなりません。この忠信という名も、忠信殿ご本人には無断で騙った名ですから、名もないこの野狐のことはどうかお忘れになって、幾久しく、どうぞご達者で。ご武運をお祈りいたしております」

 と挨拶する狐の忠信に、義経は感極まって、

「これほどの恩を受け、なんの礼もせずに帰すことなどできようか」

 と嘆いていたが、「おお、そうだ!」とはったと膝を打ち、

「狐よ、名がないのならば、そなたに今より、わが姓名を譲ろう。これより後は源九郎義経と名乗るがよい」

「なんと、その、判官様の名をくださる……?」

 弁慶は苦りきった顔で義経の突然の思いつきを諌めた。

「なるほどその狐は我が君様によく仕え、働きは格別のものがありますが、その褒賞はさすがに過分というもの。お考え直しください」

「いやこれは、私のためでもあるのだ。我が名声が源氏の栄光とともにある間、この名を名乗ることは幸福であった。しかし、源氏の棟梁に叛旗をひるがえした今、血筋を表すこの氏が、兄上の栄光とともにあるはずのこの名が、私を苦しめる。それならば、いっそそなたのような者に譲り、末永く名乗らせて、『源九郎義経は義に篤いものであった』と、決して裏切り者の名ではないと語り継がれることこそが、この名のため、また我がためぞ」

 と声を震わせる義経にさすがに弁慶もそれ以上は何も言えず、黙りこむしかなかった。

「ではあの、弁慶殿もお許しくださるか」

 源九郎狐は、喜びのあまり躍りあがると、本性の狐の姿を現した。金色に輝く美しい毛並みが白々とした雪に映える。喜んで雪の上をころころと駆けまわる狐の姿は愛らしく、義経も思わず微笑んだ。

「この源九郎狐、この後は人々の役に立つ良い狐となり、源九郎の名をより高めてみせましょう。判官様、みなさま、道中お気をつけて。奥州へ無事下られますよう、及ばずながら私からも守護」

 と振り返り振り返り、源九郎狐は遠ざかっていった。義経は小さくなる金色をいつまでも見送っていた。たとえその身がはかなく滅んでも、その名が汚れなく残ることを信じて。


 これが大和に名高い源九郎稲荷の、その名の由来の物語である。

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