弐拾 手紙
稲の穂が垂れるようになっても、美冬の腕は上達しなかった。
看護婦教育所、洋館に休むことなく通い、陽の落ちた家で復習を繰り返す。
それでも足りないと朝の稽古を増やすと真珠のような綺麗な球ができるようになった。勢いに乗れと毎日繰り返した結果、しっぺ返しをくらった。寝て起きても指先が冷え、ぎこちなくしか動かせない状態が続く。擦り合わせても何の助けにもならず、息を吹きかけば温かさがしみた。
ここで後ろに引かないのが美冬という人で、我慢比べのような練習を続ける。手は氷のように冷えたまま、それは全身に広がっていった。周りに気付かれなかったのは数日だけだ。
佐久田を始め、フィンが静江がいい顔をしなかった。それでも無理を押し通したのは、白い炎にまかれて秋人が消える夢を見るからだ。
新聞で記されていた明確な数字が、『わずかな傷』や『勇猛で多大な攻撃』など、あいまいな表現にすり替えられていく。日に日に戦局は悪化しているとしか、美冬には思えてならなかった。
静江が条件にした一年は理想に至るまでには短く、焦る気持ちを抑えるには長かった。もどかしくてたまらない時間が過ぎていく。
雪のように白い顔が青白くなるのもそう時間はかからなかった。
窓が結露した教室に入ってきた静江は明らかに顔をひそめ、美冬の席まで歩いて、たんと机を叩く。
「顔色が悪すぎる。今日は休みにして帰りなさい」
「それはできないわ」
他の生徒が目を白黒させる中、美冬は静江の氷点下にまで落ちた真顔に対峙する。
静江の口はほとんど動いていないのに、落とされる言葉は重く響く。
「体を壊しては意味がないでしょう」
「壊す予定はないからご心配――」
美冬が言い終わらない内に、静江は姪の唇に人差し指を向けた。よく回る口が結ばれたことを確認して、さらに一段低くなった声は強がりを切り捨てる。
「減らない口を閉じなさい。あなたは、今日、休みを、とる。私が決めました。佐久田、連れていきなさい」
悔しげに顔を歪める美冬を援護する者はいない。美冬の様子見に端で控えていた佐久田は言われた通りに行動する。寒気で震える美冬に上着を二枚かけてやり、教室を出るように促した。
車は帰らせていたので、佐久田が馬車を拾い、美冬は抱えられるようにして乗り込んだ。
馬車が揺れ、背もたれに預けた体が揺れ、頭が揺れる。全身がいうことを聞かないなんて、久しぶりだと美冬は呑気に構えた。
まだ野山を駆け回っていた頃の美冬は風邪知らずで傷まみれ。よく寝込んでいたのは秋人の方だ。不調の辛さを知らない美冬は病み上がりの秋人を連れまわし、明くる日に二人して寝込んで怒られた。
色の変わった美冬の唇に笑いが込み上げ、乾いた咳がもれる。
「大丈夫ですか?」
怯えた眼差しを送ってくる佐久田に、美冬は強く言えない。生意気ね、と心の中だけで悪態をついた。
「少し眠られてはどうですか」
揺れる美冬の頭に佐久田の声が響く。
美冬は馬車の揺れと見分けがつかない動作で首を横に振った。寝たら、またあの白い夢を見る。そう自分に言い聞かせて気力だけで己を保つ。部屋につくまで、佐久田の肩を借り、足を引きずった。
「オルゴール……」
女中に着物をゆるめられ、なされるがままに布団に入れられた美冬はうわ言のように呟いた。
部屋を出ていこうとした佐久田は音が拾えた様子で、すぐに木箱のねじを巻いて美冬のそばに置く。
子守唄のようでどこか物悲しい音が美冬をなだめた。慎重に息をして、耳で生きていることを確かめる。美冬が瞼を閉じても白い炎はちらつかない。
湯たんぽの準備をするために、女中が立ち上がり、部屋は二人だけになった。
寒さを耐えていた美冬に、佐久田の言葉が降る。
「大丈夫です、何とかなりますから」
無責任なことは言わないでほしいと美冬の心は粟立つが、頭に触れた手がやさしかったから全てを許した。兄らしくないと言ったことは撤回しようと密かに決めて、眠りに落ちた。
⊹ ❅ ⊹
人の気配を感じた美冬は重い瞼を上げた。視界が定まらないまま、気配のする方へ目を向ける。思った位置に人はおらず、勘違いかと思う美冬の頬に風があたった。平時ならきっちりと閉められている襖にわずかな隙間ができている。廊下からの光でまだ昼の時分だと察することができた。
隙間から自分に向かう延長線上にあったのは、洋風の白い封筒だ。
美冬は布団から手だけを出し、封筒を取った。宛名も送り主もない。開ける前に火鉢に投げようかとも思ったが、中身を見てみることにした。岩蕗邸は幾重にも結界が張られているので、呪詛などの心配はない。怪しげなものではあるが、害のあるものではないと判断して、中身を取り出した。
予想していた通り、送り主はフィンだ。封筒と便箋を両手で持ち、寝転んだ状態で読み進める。
『急に発つことになりました。つたない手紙で失礼します。誰にも読まれない自信はあるのですが、念のために名前は伏せておきますね。こんな不思議なことをする人なんて私以外にはいないでしょう。セイカクには私の力ではなく、力を貸してくれる人がすごいのですが。
それはさておき、この手紙は時間がたつと消えます。その事を頭に入れて読み進めてください。
最初に、あなたはヒジョウに頑張っています。あなたは努力をほめても、結果が出なければ意味がないという方なので、あまり言いませんでしたけどね。すごい早さで、異能を我が物にできています。
あなたはまだできていないと思うかもしれませんが、蛭子である白い人が異常なのです。本来であれば、あなたの父のように長い年月をかけて技術をみがくものです。
決して、あなたの力は弱くはありません。たきつけるために、少ないと言ったこと、気付いていましたよね? あなたは白い人を出すとやる気が出るようなので、いか仕方なくです。ヒツヨウ以上に、気にやむことはありません。
まだまだ教え足りない状態ですが、私の勝手をおゆるしください。私は降ってわいたような機会を逃すわけにはいかないのです。
おわびと言ってはなんですが、最後にとっておきを教えましょう――』
とっておきは異能が身に付く秘密の方法でも裏技でもなかった。
最後の一文字まで読んだ美冬は目の前が真っ暗だ。異能はまだまだ形になっていない。腰のあたりまでの氷を作ることはできるが、身を守るには心許ないだろう。銃の弾は弾きそうだが、大砲の弾が降ってくれば、木っ端微塵だ。
自分の身は自分で守れると豪語できる状態ではなかった。布団の中で事切れた湯たんぽのように、身も心も冷えている。
「お嬢、起きてますか?」
声量を落とした声が耳に届く。
は、と顔を向けた美冬は枕の下に手紙を隠した。
体を起こす気にもなれなくて、そのままの状態で美冬は返す。
「何の用?」
「美味しそうなものを見つけたので、どうかな、と思いまして」
「あまり食欲がないのだけど」
「じゃあ、においだけでも。きっと気に入りますよ」
異様に推してくる佐久田に眉間にしわを寄せた美冬は入室を許した。
佐久田は盆を持った状態で美冬のそばまで寄る。盆には湯気のあがる湯飲みと油紙にくるまれた何かがのっていた。文句を言いたそうに見てくる顔に対して、佐久田は得意気な笑みだ。まるで、いい報告するように、何を持ってきたかを口にする。
「りんごジャムをはさんだワッフルスです」
美冬は言葉を失った。見開いた目を上げると、訳知り顔が映る。
「お前、どうして」
それ以上は言葉が出なかった。美冬と秋人しか知らない味をどうして知っているのか。そう訊きたいのに、震える美冬の口からは上手く動かない。
「おいしそうでしょう?」
美冬の疑問には答えず、佐久田は子供のように笑った。
枕元に置かれた盆に目をやり、出ていこうとした佐久田を引きとめる。
「佐久田、起こして」
眉を上げた佐久田は、食べるんですかと意外そうに言った。持ってきたのはお前だろうと美冬が目で訴えれば、ばつが悪そうに笑い、起きるのを手伝う。
「食べたらお盆を片付けようかと」
そんなことを言って、佐久田は胡座をかいて座る。美冬の咎める視線も物ともしない。
「……半分、食べなさい」
「いいんですか?」
「全部は無理よ」
「じゃあ、遠慮なく」
佐久田が割り、油紙で包まれた方は美冬に渡された。
香ばしい香りも牛酪の風味も半減したワッフルスが手に乗る。美冬の手には感覚がないからわからないが、冷えていることは何となく感じ取れた。
一口食べて、思い出の味ではないと痛感する。ふやけた生地も、染みすぎたリンゴジャムも、口に広がる味も、二人で食べた時と全部が違った。隣に秋人もいない。思い出が幻だったようだ。
一口目を口に含んだまま固まる美冬を放って、佐久田はあっという間に平らげる。口の端についたジャムまで味わって、美冬の座る位置より後ろに潜むものを目ざとく見つけた。
「枕に何か隠してませんか? まさか、勉強してるなんて言いませんよね」
枕に手がのびて美冬は焦った。便箋は封筒にしまっていない状態だ。フィンからの申し出もある。中身を見せるわけにはいかない。
制止の声よりも、佐久田の手の方が早かった。
焦る瞳に佐久田の不思議そうな顔が映る。
「ただの手紙じゃないですか」
佐久田の言葉に美冬は目を軽く見張った。確かに、封筒から出していたはずのフィンの手紙が消えている。枕の下にまだあるとは思えなかった。
封筒だけ残して何がしたいのか。混乱を悟られぬよう口をヘの字に曲げた美冬は佐久田から封筒を取り返した。右手にワッフルス、左手に封筒。左右を代わる代わるに見て、佐久田を先に追い出そうと決めた。検分はワッフルスを片付けた後だ。封筒を枕元に置いた美冬は、無理にワッフルスを腹に押し込んだ。最後の一滴まで茶を飲んだことを見届けられて、布団に入る。
何処か安心したような佐久田を鬱陶しそうに追い出した。足音が聞こえないことを確認して、封筒を開く。中には一枚の便箋が隠れていた。
『いつかのお節介の礼だと読んでください。
あいつは、いつもあなたの無事を願っていました。そばにいなくても、あなたのことばかりを考えていたと思います。口では絶対言いませんでしたけどね。
あなた達ほど、心配なら会いに行けばいいという言葉がお似合いな馬鹿はいません。
俺が言いたいのはそれだけです。ご武運を祈ってます。』
憎まれ口ばかりの手紙は美冬の本心を見透かしたような言葉ばかりが並んでいた。
美冬は秋人が何を考えているのか知りたかった。誰にも言わずにしまっていた心だ。
離れる前は秋人の気持ちをわかっていると思っていた。離れてから、彼が何を考え、何のために行動したのかわからなかった。記憶をかえりみて、彼の心が本当にわかっていたのかと疑問が生まれる。それが渦巻いて沼となり、美冬の足に絡みついて逃れることを許さない。上ばかり見て、足掻いていたのは無意識に己を守っていたのだろう。
何が、勝ちたいだ。何が、待つのも助けられるのももう沢山だ。
女が嫌だった。力がないのが嫌だった。全部全部、妬んだ。努力しても男で力のある秋人ばかりが恵まれていると妬んでいた。自分ばかり注意されると憤っていた。受け流すこともできずにひがんでいた。
秋人は美冬を恨んでいると考えたこともある。彼はたまたま白い花を出しただけだと嘲笑う心も存在した。
照彦からの手紙をもう一度読み直す。
馬鹿で上等だ。自分が何をしたいのか、やっとわかった。
秋人の隣に立ちたかったのだ。女であっても、力がなくても、彼の隣は誰にも譲れない。
久しぶりに全身が沸き立ち、美冬は走り出したくなった。体に力を込め、立ち上がれない事実に苦笑する。寝込んだ美冬と秋人に仏の顔で雷を落とした母も体を休めることも大事だと言っていた。
もうすぐ、不屈の花も咲く。雪が溶ければ、戦地に迎うのだ。
そう夢見て、美冬は瞼を閉じた。
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