玖   勝負

 秋人は父の書斎の前にいた。あまり感情ののらない瞳は扉を睨み、無駄な時間が過ぎる。今日こそは、と目の前まで来たのに、扉から放たれる圧に怖じ気づいていた。

 先の時代に建てられた岩蕗邸は舶来品がとんに少ない。例外は秋人の目前にある父の書斎だけ作り替えられていた。仕事中は洋装なので、それに合わせたのかもしれない。重厚な飴色の扉は畳や襖、障子ばかりの屋敷では異質な存在感を放つ。

 秋人は意を決して、分厚い扉を叩いた。中から誰何すいかされ、名乗ると許可が出たのでドアノブをひねる。


「秋人、何か急用か」


 珍しいものを見る顔で父は訊いた。

 秋人は首を振り、最初の言葉を考えていないことに気付く。挨拶をすべきか、手早く用件を済ませるべきか。会話の仕方を知らない少年は初めからつまずいた。

 押し黙る秋人の姿に父は席を立ち、ソファに座るよう促す。


「急じゃなくても、何か用があったのだろう。何でも言ってみろ。お前のわがままぐらいなら、可愛いものだ」


 誰と比べて言っているのか考えずとも見当がつく秋人は利かん坊の少女を思い出す。自分の望みが可愛いものではないとわかっていても退くわけにはいかなかった。ソファに座らず拳を握りしめ、父を見返す。


「異能を学ばせてください」


 秋人の言葉が少ないことはいつものことだ。しかし、此度の内容はいささか唐突で、なおかつ不穏な空気を孕んでいた。

 軽い口調から一転して、一人掛けのソファに体を沈ませた父は考え込むようにしてゆっくりと口を開く。


「美冬と一緒にはできんぞ。あれは虎の穴でも突っ込んでいく」


 頷いた秋人は表情を変えず、無機質な声で答える。


「一人で行きます」

「何処に?」

「ミアカーフ卿の所です」


 顎を指で撫でながら聞いていた父は目を見開いた。あの『異能狂い』かと呟き、厳しい表情で秋人を見据える。


「なぜ、あいつの所に行きたい」


 普段は無言をつらぬく秋人だが、今回ばかりはちゃんと言葉にしなければと考えていた。固く閉ざしていた口から言葉を生み出す。


「守り石が重くなったからです」

「初めて聞いたぞ。あれは異能を吸う石だ。異邦人が、異能を使えるはずがない」

「異能が使えなくても、不可思議な力を持っていると思います」


 言い切った秋人に父はほぅ、と顎を撫でる手を外し、膝の上で組んだ。獣のような油断のない瞳の奥に見えるのは面白がる色だ。少しの変化も見逃さないように目を据えながら、短く問う。


「理由は?」

「ありません」


 揚々のない声に、父は虚をつかれ目を見張った。思わず、子供に対するものではなく、大人と同じような言葉使いで話してしまう。


「秋人。根拠がないのに異能があると言うのは、いささか短慮ではないか」


 たんりょの意味がわからない秋人は少しだけ思考をそちらに向けた。考えなしと言われたのだろう。そう言われても仕方ないと思うが、異邦人が仏間でかもしだした雰囲気を上手く説明する自信はない。秋人は出任せも言えず、父の真意を探る瞳を真正面から受けた。

 置き時計から時刻を知らせる音が響く。鳴り終わるまで二人の口は開かなかった。

 父は秋人が折れないとわかって、ため息のように、聞く順番を間違えたとこぼしてから続ける。


「どうして、異能を学びたいと思った。お前、今まで避けてきただろう」


 確かに、今までの秋人は己の力を直視できなかった。できうるならば、関わらずに生きたいぐらいだ。しかし、そういうわけにはいかない。伏せていた目を父に向ける。


「……強くなりたいと思ったからです」

「大きな力は扱いづらい。もっと胆力をつけてから学んでも遅くないだろう」


 焦る必要はない、と父は付け足した。

 焦っているのだろうか。秋人は自問自答する。焦る、とは違う気がした。美冬と出会って、秋人の世界は熱を持ち、色づき、時間が流れるようになった。何もないと思っていた胸の内に何かが芽生え、枝分かれして、背を伸ばしている。

 けれど、その木は嵐が来れば折れ、濁流が押し寄せれば簡単に飲まれるだろう。自分という土台もなく、ちゃんと根差せていない木に誰が背中を預けるだろう。秋人に巣食うものを受け入れなければ、変わらない。

 秋人は逃げ出したい想いを抑えて、父に言葉を投げる。


「ちゃんと異能が使えたら……自分に……俺、自身に、自信が持てるような気がします」


 秋人の噛み締めるような言葉に父は唸り、組んだ両手に額を預ける。


 考え込む父と初めて出会った時、体も器も大きな男だと秋人は思った。

 彼に出会うまで、秋人は常に閉じ込められていた。葛西家の生き残りで、行くあても預かってくれるような身内もいない秋人が最後に入れられたのは寂れた小屋だ。帝都から離れた場所は鳥の声もなく、外の景色も見えない。食事を与えられる時間で朝のような夜のような時間を過ごした。正直な所、そこに何日いたのか覚えていない。一週間かもしれないし、半年かもしれない間を部屋牢に入れられ、握り飯と水を与えられた。

 永遠に続くかと思ったある日、使用人にすると言って、岩蕗隆人と名乗る男が預かりにきたのだ。あの頃は何もかもがどうでもよく、何をする気もなかった。言われるままについていっただけだ。

 男と女があたたかく迎え入れてくれたが、家族ではないとわかっていた。冷静に見れば気付く。屋敷は完璧な呪詛で見えない壁を作り、そこかしこに守り石の調度品。質は落ちるが、庭に敷き詰められた石も守り石だ。何かの拍子に異能が暴れだしても最小限に抑えられる環境。噂話に花を咲かせる使用人さえ、動きに隙がない。くわえて、氷塊ひょうかいの鬼人と恐れられる屋敷の主は希代の異能使いとして名高い。

 秋人は自分は監視されているのだと悟った。何も知らない美冬以外の大人は信用してはだめだ、と。

 成長するとともにその感覚は薄れていき、大人達の人となりを知り一人の人間なのだとわかる。大切なものを守るために強く生きているのだ。

 秋人はそちら側の人間になりたかった。己の力も制御できない子供ではなく、使いこなせる大人に。


 父が顔を上げた。

 秋人は知らず知らずの内に息をつめる。


「そうだ、秋人。勝負をしよう」


 そう言った瞳は、よくないことを思い付いた美冬と同じように輝いていた。


⊹ ❅ ⊹


 代々、武人として帝を支えてきた岩蕗邸には道場がある。

 幼い頃は身を守る手段を学ぶために美冬と秋人が稽古をつけてもらった。

 今では、美冬よりも早く起きた秋人が一人で鍛練をつむ。ほんのたまに居合わせた執事に稽古をつけてもらう場所だ。

 父は道場に来る道すがら、胆力が備わっているならば止める必要はないだろうと言った。道場の端に上着を脱ぎ捨て、首元のボタンを外す。楽しみでならないと口角が上がっていた。


「相手の背を取った方が勝ちだ。私は足技を使わないハンデをつけよう」


 そう言いながら、靴下を脱ぎ捨てた父を見た秋人も靴下を脱ぎ邪魔にならない所に置いた。木の板が足裏から熱を奪っていくが、駆け巡る血を落ち着かせるにはちょうどいい。早鐘を打つ胸に深く息を吸い、細く吐き出し、構えを取った。

 力みのない体勢をとった父は秋人を見定めている。

 はじめの一手は秋人からでいいらしい。久方振りの稽古だ。試しに胴を狙う。

 父は後方に避け、間をつめた秋人の頭部めがけて手刀を落とした。

 鋭い一撃は両腕で横に弾かれ、体のできてない肩にずれる。肩に触れる寸前、上半身をずらす力を利用した秋人の横蹴りが空気を裂いた。

 一閃、一刀が何度か繰り返され、風を切る音と衣ずれの音、打撃を受け払い、肉と肉とが出す乾いた音が隙間なく流れる。

 張りつめた空気に乱れた息はまざらない。研ぎ澄まされた精度をさらに高めるよう、隙間なく音が場内に響く。

 身を縮ます冷えた空気は消えていた。

 秋人が再び胴を狙い、横に避けようと足を動かした父は刮目した。胴に狙いを定めていた拳が開かれ、丸太のような父の腕を支えに、細い体躯が飛び上がる。

 肩を飛び越え、背後に立たれると一瞬で判断した父は体を返した。完全に背と腹が変わる前、とんと肩を押される。力の入り方で、策にはまったと悟る。

 中途半端に体を回転させた父は肩越しに秋人を見下ろした。

 背後に飛び降りると思い込ませ、体勢を変えるのを見抜いたのは秋人だ。最後に背中になる場所を空中にいながら判断して、肩を押して降りる場所を修正する。

 体勢を変えることに意識した体はそう動きを止めることも変えることもできない。父の身体能力を加味しての戦い方だ。


「秋人、強くなったな」


 父が誉めても、秋人はちっとも嬉しそうな素振りを見せなかった。何と言うべきか悩んで、恐れ入りますと一拍以上遅れてから聞き取りづらい声で返す。


「秋人、お前、面白い奴だな」


 父は堪えきれず、声を大にして笑った。

 秋人は負けているのに笑う心境がわからず、困惑の色を瞳にのせる。思いっきり頭を撫でられ、それが嫌ではないことに驚いた。頭を押さえられるのと、撫で付けられるのでは、心の有り様が違う。名前がわからない感情に胸が苦しくなった。痛みではなく、ぎゅうぎゅうに詰めたような中身はなぜかあたたかい。秋人にまたわからない感情が芽生えたが、それは心地がいいものだ。

 ひとしきり笑った父は秋人が異邦人の所へ行くことを許した。拳で語り合い、秋人は一人前だと判断した。見舞いに行かせた時のように、子供だということも忘れて。



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