こがねの魚と銀の月

38 （ジゼル）

　沼に行くと誰かが立っている。私に気付いてこっちを見ている。誰だっけ？　そう、グリンだ。グリンに会いたくて私はここに来たんだった。

「キミ、名前は？」

なぜ、そんな事を聞くの？　グリンは私の名前を知っているでしょう？

「キミの名前はなんだ？」

「ジゼェーラ……でも、ジゼルと――」

「父親の名は？」

呼んでほしいのは、ジゼル、そう言おうとしたのに、言わせてくれない。

　父親の名も知っているでしょう？　グリンと同じ。

「父は……ビルセゼルト」

「……なぜここに？　二度と来るなと言ったはずだ」

うん、そう言われた。でも、もう一度だけ、どうしてもグリンに会いたかった。

　きっとそれはグリンも同じだ。グリンが泣いている。二度と来るな、と、言いたくないのに口にして、グリンは苦しんでいる。

「……泣かないで、グリン」

「僕の名を呼ぶな！」

　グリンが私に向って何かを投げた。風弾だ。本で読んだ事はあるけれど、実物を見るのは初めて。突風はすぐ横の木にあたり、梢が悲鳴を上げるように震えた。

「消えろ、次は狙いを外さない」

グリン、怒っている。怒らないって約束したのに。昨日からグリンはその約束、忘れている。悲しくて、涙が止められない。

「お……怒らないで」

「……」

グリンが黙った。でも、気持ちが揺れているのは伝わってくる。私と同じで泣いている。

　グリンが苦しんでいる。私のせい。私が答えを間違えたから。グリンが向こうを向いてしまった。私の事なんか見たくもない、そんな感じだ。

　少しグリンに近づいてみる。

　私はグリンに謝るためにここに来た。それにはこの距離は遠すぎる、もっと近くで、グリンの目を見て、そして謝らなければ私の思いは伝わらない。

　するとグリンが沼に向かった。沼に向かって歩いていく。ダメ、沼は危ない。そこには、そこには……

「行かないで、グリン」

　その沼はどんな生物も生きていられない、ビルセゼルトがそう言った。でも、金色の魚は沼にいる。その沼に入るには金色の魚になるしかない。

「沼に入ってはだめ」

止めるのに、グリンはどんどん沼に向かってゆく。私は駆けだして、グリンを捕まえた。

「グリン！」

　抱き付いた私をグリンは抱き返すどころか、受け止めてもくれない。私とグリンは遠くなってしまった。

「グリン、だめ、いかないで」

見上げるとグリンも私を見た。琥珀色の瞳、涙にぬれた琥珀の瞳、それが迷い、彷徨（さまよ）い、私を見詰めながら別のものを見ている。

　そして何かに思い当たり、琥珀色の瞳が赤みを帯びる。怒りだ。グリンは怒りに包まれている。

「ごめんなさい。私がいけなかった」

グリンの顔色が青ざめる。怒りがグリンの体を震わせる。

　私、拙（まず）い事を言った？　何か仕（し）挫（くじ）った？　グリンが私の腕を掴（つか）んだ。痛みで腕が痺（しび）れる。

「僕がキミを慰（なぐさ）んだら、ビルセゼルトはどう思うだろうね」

　ビルセゼルト……そうか、グリンはビルセゼルトが嫌い。だから私も嫌い。きっとそうなんだ ――

　掴まれた腕がさらに強く引かれ、バランスを失して倒れ込む。怖い顔で私を見詰めながら、グリンが膝をついて私の目を覗（のぞ）きこむ。

　琥珀色の瞳はやはり赤い光を宿して奥のほうで燃えている。グリンは私を見ながら、やはり私を見ていない。

　グリンが私の胸元に手をやり、そして服を引き裂いた。螺鈿（らでん）細工の留め具がどこかに飛んでいく。グリンの体重が私にかかる。その時……

　私の背を支えていた地面がずぶずぶと沈み込んだ。あっという間に地面が消えてグリンと私は沼の水に飲み込まれる。

　息ができない、そう思ったのに、空気の層ができていて、私とグリンを包んでいた。でも腰から下には水の冷たさを感じる。

（グリン……？）

　グリンを見ると瞳から赤い光は消えている。でも、悲しそうな目、なぜ逃げないの？　逃げていいんだよ、そう言っているように感じる。

　そしてグリンは私を抱き締めた。いつものように、きつく優しく。そして頬ずりすると、もう一度私の瞳を覗きこむ。そして額（いたい）に口づけた。

「グリン！」

グリンが私を放す。私から離れ、空気の塊から離れ、水の中に全身が浸る。

　グリンの黄金に輝く髪がするすると伸び始め、やがてグリンの全身を包む。腕が縮み、足が縮み、横に広がってひらひらし始める。頭は首とともに胴にめり込んでいく。そして瞼（まぶた）がなくなった目で私を見、そして胸鰭（むなびれ）を振った ―― バイバイ？

　金色の大きな魚……

　そう思った瞬間、空気の塊が消えた。私はあわてて水中から顔を出し空気を求めた。

「グリン！」

水の中に姿を探すがグリンも、金色の魚も見つけられない。

　どうしよう、グリンは金色の魚になってしまった？　きっとなってしまった。そんなのダメ、グリンは魚じゃない。人間だ。人間は人間として生きていく。そうでなきゃ、そうでなきゃ幸せになれない。そうでなきゃ……シャーンが悲しむ。

　私も悲しむ。きっとビルセゼルトも悲しむ。

　そうだ、シャーン、シャーンなら何とかしてくれる。シャーンに会いたい。会わなくてはいけない。スズランだ、スズランの花を使おう。

　森を懸命に走り抜け、息を切らして部屋に飛び込む。スズランを掴（つか）んで花瓶から引き抜く。勢いで花瓶は飛ばされ、ガシャンと音を立てた。

「お願い、シャーンの許に。シャーンに会わせて」

スズランを持った手が熱くなり、体全体が熱くなり、それが冷めると、目の前に誰かが立っていた。

　手に持った本を机に置こうとしていたんだろう、急に現れた私に驚いて、動作が途中で止まっている。シャーンだ、シャーンの部屋だ。

「シャーン、助けて。グリンが魚に変わってしまった」

「どういうこと？　それにジゼル、なぜずぶ濡れなの？」

　沼で起こったことをシャーンに話す。私の説明でシャーンは判ってくれるだろうか？　タオルで私を拭きながら、シャーンは話を聞いている。時々 掌（てのひら）を翳（かざ）して、暖かい風を吹かせている。これもきっと魔導術だ。グリンが私に向けた風弾と違って優しいけれど。

　破れた服を直したのも、きっと魔導術だ。シャーンは取れた留め具も別の物に付け替えてくれた。私の物と同じ匂いの留め具だった。

　私が話し終える頃、私の髪も服も乾き、その代わりシャーンの顔が涙でずぶ濡れになった。でも、シャーンの泣き声は聞こえない。

「グリンが魚になった ――」

ポツリとシャーンが呟く。

　シャーンはきっと何かを考えている。深い息がゆっくりとシャーンの胸を上下させている。急にドアがノックされ、シャーンが飛び跳ねるほど驚く。

「シャーン、談話室にお出（い）で」

女の子の声がする。

「そこから動かないで、ジゼル」

シャーンはそう言って立ち上がるとドアを開け、そこにいた人にこう言った。

「アモナ、お願いがあるの、黄金寮のアランを呼んで」

するとアモナと呼ばれた人がクスッと笑った。

「アランならもう談話室に来ているわ。赤金寮のデリスも一緒よ」

それを聞いてシャーンが泣き崩れた。泣き声を上げてシャーンが泣いた。