37 (グリン)

 やっぱり今日も沼は緑深くきらめいて、木漏れ日が揺れていて、そして静かだった。昨日、怒りに任せて発した落雷の跡は、不十分だろうけれど、修復した。沼の水ににごりは見えない。木立はところどころ焦げ跡を残している。燃え広がる前に慌てて消した時の惨めさ、後悔したところで、どうにもならない。してしまったことは取り戻せない。


 足元に咲く花を見て、赤いデイジーとカタカゴの花を捨てるのを忘れている、と思った。部屋に帰ったらすぐに宙に消してしまおう。


 そうだ、自室のドアに施錠するのも忘れている。講義が終わればアランがまた来るだろう。ひょっとしたらデリスも一緒かもしれない。それまでには帰ったほうがいい。


 どうして僕はこの沼に通い詰めてしまったんだろう。はいってはいけないと言われていたのに、どうしてこの森に来たんだろう。禁を犯すことがなければ、こんな辛くみじめな思いをしなくて済んだのに。


 あぁ、そうか、僕は自分が惨めで、それで辛いんだ?


 自分の妹とも知らず恋をして、相手にも恋してもらえると信じていた。それを運命だと信じていた。なんて愚かなんだろう。


 ビルセゼルトが妻との間にできた娘を魔導士学校に預けたと、魔導界で噂になっている。僕もそれを知っていた。


 妻との間の子は可愛くて、手元に置くんだなと、そうだ、僕はひがんでいた。教師棟のビルセゼルトの部屋にいるものだと思い込んでいた。


 そうさ、僕は馬鹿だ。一度だって食堂で、その娘を見たことがあったか? いいや、一度もない。それだって、勝手に憶測して、部屋で済ましているんだと思った。


 魔導士学校で、一度でも娘の噂を聞いた事があったか? いいや、一度だってない。みんなが僕に気を使って言わないんだと自分を納得させてしまった。


 そうして自分の間違いに気付くことなく、いつしか魔導士学校にいる娘の事さえ忘れてしまった。


 沼でジゼルに会った時、誰かの持ち物かと疑って、でも少女を囲うような教授がいたかと考えた時、なんでビルセゼルトの娘と思いつかなかったんだろう。


 今なら、そう考えるのが自然だと言えるのに、なんであの時は思いつかなかったんだろう。


 学校で少女を囲うなんてビルセゼルトが許さない、と思ったくせに、ビルセゼルトの娘とは欠片かけらも思いつかなかった。


 なぜ? なぜ? なぜ?


 昨日の今頃はここであのコを待っていた。きっと来てくれると待っていた。そう信じていた。運命だと信じていた。


 今日の僕は運命の皮肉を嘆き、もう二度とあの子を抱き締めることはないのだと打ちひしがれている。


―― 僕はあの子を抱き締めたいのか? あの子がビルセゼルトの娘と知った今も?


 そうか、そうなのか、僕の涙が止まらないのは、自分が惨めだからだけじゃないんだ。彼女への思いを心の中から追い出しきれていないからだ。僕は今も彼女が好きなんだ。


 そうさ、好きで、好きで、どうしようもない。妹だと知って、はいそうですか、と簡単に嫌いになれる訳ないじゃないか。一緒に生きていきたいと、そう思っていたものを、それじゃバイバイ、なんて手を振れる訳ないじゃないか。


 ふう、と息を吐く。落ち着けと、自分に言い聞かせる。


 考えてみれば変だった。考えてみれば、知り合って幾らもたっていないのに、僕は一人でのぼせ上がっていた。どこの誰なのか、僕は知らなかったのに、なんでこんなに好きになってしまったのだろう。


 だいたい彼女も変だった。なかなか話してくれなかった。初めて会った時はひどおびえていて、そうだ、それで僕は守ってあげたいと思ったんだ。それは同情ではなくて? 何かおかしいと思いながら、僕はどんどん彼女にかれた。それって……


 それって彼女が僕の妹だったから? 本能が血の繋がりを感じて、僕にそうさせた?


 もし、最初から、彼女が妹だと知っていたら、僕は彼女をどう思っただろう。


 知り合った時のおびえた瞳、あんな目をシャーンがしていたら、僕は怒り狂って、そうさせた相手を攻撃するだろう。シャーンを守ろうと必死になる。


 あぁ、だめだ、もう、今さら、彼女とシャーンを同じようには見られない。


 彼女とシャーンは別人なのだし、第一、時は取り戻せない。『もしも』とか『だったら』とか、そんなことを考えるのはナンセンスだ。


 人の気配を感じる。魔導士ではない誰かが近づいて来る。魔導士ではない、違う、力を封印された誰か。


 そうだ、封印された力は、よほど高位の魔導士でなければ感知できない。僕はそれを知っていた。知っていたのに、疑いもせず街人だと思った。なぜだ?


 いつもの木立に彼女が姿を現す。そして僕を見ている。昨日まではそれだけで、僕の心は喜びで満たされた。今は?


「キミ、名前は?」

なぜ、そんな事を聞いたのか判らない。自分の感情が判らない。


「キミの名前はなんだ?」

「ジゼェーラ……でも、ジゼルと――」

「父親の名は?」

彼女の言葉をさえぎって、僕は次の質問をした。聞きたくない答え、なぜそれをわざわざ僕は問う?


「父は……ビルセゼルト」

「……なぜここに? 二度と来るなと言ったはずだ」


そう言いながら、そんな権限は自分にない事に思い当たる。あぁ、そうか、僕は自分勝手なんだ。何もかも、自分勝手に、自分の都合のいい様に、それがこの結果を招いた。


「……泣かないで、グリン」

「僕の名を呼ぶな!」


思わず風弾を投げた。突風は彼女の傍らの木にあたり、梢が悲鳴を上げるように震えた。


「消えろ、次は狙いを外さない」

「お……怒らないで」

「……」


彼女も泣いているのだろう。でもそれは、僕が泣いているのとは理由が違う。でも、だったら、彼女はなぜ泣いている?


 僕は彼女から視線を外した。そう、彼女が悪いわけではないと、僕だって重々承知しているんだ。なのに自分が抑えられない。頼む、ここを去ってくれ。


 怒らないで、罰しないで、彼女の訴えに、そんなことしないよ、と僕は答えたんじゃなかったか? あれはどれほど前だった? 僕は自分の言葉をたがえてはいけない。


 黙ってしまった僕に、彼女が近づいて来る。キミは僕をどうしたいんだ? 近寄るな、今の僕に近寄るな。


「行かないで、グリン」

彼女を避けて沼の畔に向かう僕に彼女が言う。

「沼にはいってはだめ」


 あぁ、そうか、僕が沼に飛び込むとでも? 僕が己を消そうとしているとでも?


 それもいいかもしれない。消えてしまえば苦しみから解放される。そんな事になればビルセゼルトを悲しませることができるかもしれない。


 ビルセゼルトが悲しむ? あの男が僕の死を悲しむ? また僕は自分の都合のいい様に考えている……


「グリン!」

彼女が僕に抱き付いた。沼に向かう僕を止めようとして、僕に抱き付いた。


「グリン、だめ、いかないで」

沼と同じ深い緑色の瞳が涙をいっぱいにして僕を見上げる。この瞳、時々奥で何かが揺らめくこの瞳、この瞳に見詰めて欲しいとどれほど願った事か。


 今、その瞳が僕を見詰める。でも違う。僕が欲しかった瞳とは違う。この子はあの、ビルセゼルトの娘なんだ。


「ごめんなさい、私がいけなかった」

彼女が許しをう。誰のために? ビルセゼルトのために。


 僕の中で、ビルセゼルトへの怨みや怒りが渦巻き、すべてあの男のせいだと騒ぎ始めた。


「僕がキミを慰んだら、ビルセゼルトはどう思うだろうね」

感情が爆発したのを感じた。どこかで『やめろ』と自分の声が聞こえた。だけど僕を止めることはできなかった。


 ビルセゼルトに復讐してやる。

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