30 (グリン)

 今日はあの子に名前を聞こう。そう考えているだけで僕は一日が楽しかった。課題がある事が楽しかった。思えばいつもだらだらと、何の目的もなく過ごしていた。どうせ決められた道を歩むしかない、そう僕は思っていた。


 彼女と一緒になるために僕は街の魔導士になろうと思う。街人の彼女を魔導界に置くのはきっと彼女の負担になる。彼女を守るには街に住むのが一番いい。


 街の魔導士になりたいと言ったところで、そう簡単には許されないだろう。ただでさえ、街人の娘と一緒になりたいなんてきっと周囲が許さない。それなりの魔女を伴侶とする、そう期待しているはずだ。


 職業についても、ギルドに入る事を期待されているし、せいぜい逆らっても学者になるかだ。でも元から僕はどちらにもなりたくなかった。


 街の魔導士になる事を認めさせるには、いろいろな意味で力が必要だ。


 叔父のサリオネルトは、当時、西の魔女になると決まっていたマルテミアとの結婚をギルドに反対されたが、サリオネルトは自分とマルテミアの命を懸けて、結婚にこぎつけた。だが、それと僕の場合は大きく違う。


 サリオネルトの双子の兄は、すでに次のギルド長に指名されて南の魔女の娘との婚約も整っていた。そこへ双子の弟が西の魔女に指名されたマルテミアと結婚すれば、権力の集中になると当時のギルド長スナファルデが異を唱えた。過分に政治的な思惑が絡んでいたのだ。


 だが僕の場合は政治なんか匂いすらしない。ただ単に、僕の思い、それ一つだ。だからこそ、僕が魔導士として実力を持ち、個人的なことと突っぱねれば、街の魔導士になる事も、彼女と結婚することも、僕の自由になるはずだ。


 問題は力の強い魔導士はその力を魔導界、そして世の中のために使わなくてはならないという大前提。その大前提をもって、ギルドは僕に、ギルドか学者を選べと迫るという事だ。


 僕が自分を通す決め手となるのは、僕がいかに強い力を持つ魔導士になっているかと、どれほど街の魔導士に相応ふさわしくなっているかの二つだ。


 一見矛盾しているようだが、強い力、これは魔導士が意見を述べる時、必ず必要となる。原則として、自分より力の強い相手に、魔導士は逆らわない。


 今から一年、どう頑張っても僕がビルセゼルトを上回る魔導士になるのが無理なのは判っている。意見を一考させるほどの魔導士になっていればいい。無視できない実力を持った魔導士になっていればいい。


 プログラムに抜かりはない。誰もが納得するプログラム、僕の力をより高めるためにもともと組んだ。そうしなければ、周囲は納得しなかった。今思えば他生物会話を入れてよかった。小鳥の情報網は街の魔導士になった時、役に立つ。幻惑術だってそうだ。市井の人々を導くとき、必ず役に立つ。


 幻惑術の教授がビルセゼルトなのは気が重いけれど、通常、二年かけるところを一年で僕は合格し、ビルセゼルトの期待に応えてやる。


 そして街の魔導士となり、ヤツが一番僕に期待している事には背いてみせる。でもこれは二次的なことでどうでもいい。


 力の強い魔導士、高位魔導士が街の魔導士になる事は珍しいことではない。現北ギルドの長ホヴァセンシルも街の魔導士だった。その上、彼は北の魔女の夫でもあった。そんな立場の彼は街の魔導士であり、いくつかの街を兼任し、そして周囲の魔導士のまとめ役でもあった。


 ビルセゼルトと並ぶと言われる魔導士と自分を比較するのは気が引けるが、そんな前例は心強い。


 僕の願いは、彼女と二人で送る静かな生活だ。そのための努力を惜しまない、僕はそう決めていた。


 そう、彼女の気持ちを僕に向ける、そのことにも僕は努力しなければいけない。彼女はやっと僕とも会話してくれるようになった。声を聞かせてくれるようになった。そして好きだと言ってくれる。


 すぐには無理だと判っている。だけどいつか言わせたい。彼女に言って欲しい。愛している、と。僕を愛している、と。


 まずは名前を聞こう。名の持つ力は無視できない。名を呼ぶという事は、相手を求めるという事だ。互いに名を呼び相手を求め、互いに必要だと思える関係。僕は彼女とそんな関係を築いていこう。


 もう、土台はできている。あとは如何いかに僕が彼女に愛を注ぐかだ。きっと彼女は応えてくれる。そして今日、必ず僕は彼女の名を知る。知ってみせる。


「なんだか今日は元気だね」

今日の最後の講義『属性の強化と進化』が始まる時、アランが声をかけてきた。アランはこの講義、強制受講だと嘆いていた。親友のデリスはいない。


「それに引き換えマメルリハちゃん、今日は随分元気がない」

「シャーンが?」

「今日は三回遭遇した。三回とも声を掛けた。でも、気が付きもしないで行ってしまった」

「アラン、それは……気の毒だが嫌われているんじゃないのか?」

「耳が痛くなるようなことを軽々しく言ってくれるねぇ」

アランが苦笑する。


「でも、兄上、僕は彼女に嫌われているとは思えない」

「アランに兄上と呼ばれるのは嬉しくないが」


「シャーンの兄上なら、いずれ僕にも兄上だ。今のところそう思っているのが僕だけだというのが悲しい現実だが」

「良かった、ちゃんと現実が見えているんだね」


 大げさにアランが嘆く。

「恋に悩む日が来るなんて、思いもしていなかった。しかも親友がライバルだ。それを親友に告げていないことにも悩んでいる」

「はいはい、せいぜい頑張れ。講義が始まる、まただな」


 話は打ち切ったが、元気がないシャーンは少しばかり気になる。アランはきっと自分で元気になる。いつになく真剣なのは気になるが。


 シャーンにしても、いつも強気で元気だし、アランが言うように挨拶もしたくないほどアランを嫌っているとも思えない。沼から戻ったら、夕食の後にでも白金寮に行ってみようかな。顔を見せるだけでも、シャーンは安心して元気になるかも知れない。シャーンに彼女の事を打ち明けて味方になって貰うのもいいと、ふと思った。


 やっぱりなんとしてでも今日は名を聞き出さなきゃならない。名前も知らないなんて言ったらシャーンは必ず僕を馬鹿にする。


 アランにつかまらないよう、講義が終わったらさっさと寮に戻った。今日も会えると彼女は言っていた。もう来て待っているだろうか? 早く沼に行こう。


 窓から部屋を抜け出した。談話室を通れば、アランに掴まるかも知れないし、そうじゃなくても誰かがどこに行くと尋ねてくるかもしれない。だいたい、いつも森に行く時は窓を抜ける。


 マグノリアの木の上で様子をうかがうと、下には誰もいない。飛び降りて、急いで藪を抜けた。黄金寮の出入り口でアランとシャーンが話している。ひょっとしたらここのベンチを使おうと思うかもしれない。


 森は今日も輝いていた。陽を浴びて新緑はキラキラときらめいて美しい。足元を飾る花々、小鳥はさえずり、蝶が飛び交い、枝には時折リスが顔を見せる。命に満ちた森、ここで僕は彼女に出会った。


 沼に彼女の姿はなかった。でもすぐに来るだろう。


 いつも通り僕はイーゼルを立てカンバスを置く。彼女を描こう、描き始めよう。彼女の名を絵のタイトルに、僕は彼女を描く。そしてその中に僕自身を描き込もう。


 緑深い沼、僕と彼女を引き合わせた沼は今日も静かに光をたたえている。いつも通りだ。


 そう思った時、いつも通りではない気配を感じた。誰かがこちらに向かってくる。しかも二人だ。一人は彼女。そしてもう一人。


 あれはシャーンの気配だ。

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