18  (グリン)

 昨日と同じ場所にイーゼルを立てた。当然かもしれないが、少女とダンスを楽しんだ場所は元通りの広さに戻り、もちろん枯葉も見当たらない。


 沼は今日も緑深く美しく、穏やかな水面は揺れることなくきらめいている。木立の上のほうには時折風が吹くのだろう。沼のほとりの木漏れ日がゆらゆらとうごめいて、煌めきをいやしている。


 少女は姿を見せていない。昨日と同じくらいの時刻に多分来る。だから早めに来て、待つことにした。それでも昨日よりはずっと遅い時間だ。談話室で思いのほか時間を過ごしてしまった。


 シャーンには助けられた。


 カトリスはああ言ってくれたけれど、談話室には行きづらい。勝手な思い込みで、僕は自分から遠ざかった。今さらどのツラ下げてみんなに会えばいい?


 シャーンのお陰できっかけができ、カトリスの言う通り、普段通りの僕に、普段通りのみんなだった。黄金寮の談話室に掲げられた『友愛』『慈愛』『憩い』のスローガンが眩しかった。


 ジェネイラには申し訳ないけれど、感謝もしている。僕が少女に寄せる思いを自覚させてくれた。僕はあの少女が好きだ。


 カタカゴの花言葉は『初恋』とカトリスが言った時、まさか、と僕は思った。だって、僕は少女の住処も身分も、まして名前すら知らない。そんな相手に恋心を抱く?


 だけどジェネイラに『付き合っている人がいないのならば』と言われたとき、付き合っているわけではないけれど、と僕は思った。


 もし付き合うのなら、あの少女しかいない。僕にはあの少女しかいない。そう思った。


 なぜ少女はカタカゴの花を僕にくれたのだろう。陽だまりには、色とりどりのデイジーとカタカゴ、スミレ、スズラン、タンポポ、あと名前の知らない花がたくさん咲いている。


 その中から少女はわざわざカタカゴを選んで僕にくれた。花言葉を少女は知っていて、僕にくれたのだろうか?


 それとも初恋が示すのは僕ではなく、あの少女の初恋か? それならどれほど嬉しいか。


 そんなの考えすぎだ。自分に都合のいいように、僕は考えすぎている。それとともに自覚した。僕は彼女に夢中だ ――


 と、急に木々が大きく揺れた。物思いで気が付かないうちに空には黒い雲がかかっている。どうやら木立の上部は強風にさらされているようだ。嵐が来るのか?


 今から学校に戻っても間に合いそうにない。森の中で移動術が使えないことは実証済みだ。ここで嵐をやり過ごそう。少なくとも雷はそう長くは続かないだろう。


 沼を見ると、相変わらず水面は静かで、そして ――


 きらめいている。日差しが届いていないのに、木漏れ日もないのに煌めいている。この沼の輝きは沼自体の物なのだ。水が光っているのだ。


 驚いて、まじまじと水面を見詰めていると雷鳴がとどろき、空が光った。大粒の雨がポツリポツリと落ち始める。


 早く結界を張ろう。うかうかするとずぶ濡れになる。風は木立の上部しか揺らしていない、ここには風は届かない。雨をしのぐだけならば、結界を張ればどうにかなる。


 てのひらを開き、周囲に力を降り注ごうとしたとき、その場に飛び込んできたのはあの少女だった。


「キミ、こんな時に……じきに嵐になる」

再び雷鳴が響き、小さな悲鳴を上げて彼女が僕にしがみ付いた。


「大丈夫、音も弾こう」

結界を張るから、少し待っていて。涙目の彼女をそっと押しやり、術を再開する。気付くとダンスの舞台が戻っている。その広さに合わせて僕は結界を張った。


 うん、巧くいった。広場に丸い透明な屋根ができ、雨を受け止め、したたらせている。あっという間に大雨になり、結界の中に雨音が響く。だが、空が光っても雷鳴は聞こえない。音を消すのは今の僕にはこれが限界か。


 彼女は黙って(いつも黙っているけれど)僕を見ていた。そして結界が出来上がると両手を上に向け、その手を周囲に丸く広げ、どうやら僕の真似をしているようだ。もちろん、街人の彼女から力が発揮されることはない。


 何の変化もないことに(だろう)彼女は小首を傾げ、次には僕に向き直る。


「えっ?」

急に抱き付かれ、どうしていいか判らず、だけど、だけど……泣きたいくらいに嬉しくて抱き返すしかないじゃないか。僕の思いは彼女に通じているのか?


「好きだよ」

思わずささやいた僕に、体を放した彼女が嬉しそうに微笑む。もう放してしまうの? 一抹の寂しさが僕を包んだ。


 周囲を見渡すと彼女は、また小首を傾げその場に座った。そうだ、今日は椅子を出すのを忘れていた。


 でも、もう不要だ、彼女の下にはたっぷりの枯葉が現れている。そして、ここに座れと言うように僕を手招きし、地面を叩いた。


 言われた通り(彼女は何も言っていないが)僕も腰を降ろすと、彼女はポケットから、ナプキンを取り出し、広げた。中から出てきたのはペシャンコになったマドレーヌが二つ。


 ショックを受けたのだろう、彼女は目を見開き、口元を抑える。すかさず僕は再生呪文を投げた。元通りになったマドレーヌを見て、彼女が僕を見る。僕が頷くとにっこり笑い、マドレーヌを一つ、僕に寄越した。


 クスクス笑いながら少女がマドレーヌを食べ始める。マドレーヌに齧りつく僕もなぜだか笑っている。笑いながら、時々互いの顔を見て、甘い菓子を二人で頬張る。


 結界の外はさぞや荒れていることだろう。見れば稲妻が時折走る。だけどここは穏やかで、優しい時が流れている。彼女が僕の心に暖かな風を吹かせている。


「キミは夜、ここに来たことはあるかい?」

 なぜそんな話を始めたのかは判らない。彼女は首を横に振る。


「晴れた夜、ここから見える星空は、それは素晴らしいものだよ。そして沼も輝いている」

空の星が落ちたかと思うほど、キラキラと沼が輝くんだ。


「キミにもいつか見せてあげたいな」

微笑むと彼女も僕に微笑んだ。


 沼が星を映しているわけじゃないことをさっき知った。沼は星と輝きを競っているのかもしれない。


 沼に目を向けると、相変わらずキラキラと煌めいている。どんな力が作用して、沼を光らせているのだろう。


=== 金色の魚は緑色の涙をいっぱい、いっぱい流した ===


 涙は光っていたのだろうか? 今でも光を失わず、沼に広がっているのだろうか? いや、あれはおとぎ話、金色の魚は存在しない。では、昨日見えたあの金色の物はなんだろう?


 ここは魔導士学校の森。森の意思が神秘の力を働かせる、人知の及ばぬ力を持つ森。ならばどんな事が起こっても不思議じゃない。森は今、何を考えているのだろう。森の中でこの沼はどんな役目を持っているのだろう。


 ふと彼女を見ると、枯葉に包まれて横たわり、どうやら眠っているようだ。昨日は鳥団子だったけれど、今日は枯葉団子だ。小鳥たちは嵐をけてどこかにひそんでいるのだろう。少なくともこの結界に入って来られない。


 彼女を包む枯葉も、森の意思によるものか。彼女の守護は大地ではなく、やはり森なのだ。だから彼女は森に住み、森に守られている。


 彼女を覗きこむと、うっすら笑みを浮かべている。なんて可愛いんだろう。どうしてこんなに僕をなごませるのだろう。


 その時、微かに森が揺れたような気がした。どこかに落雷したのだろうか? そうだとしてもこの結界には影響ない。中にいる限り安全だ。


 僕はスケッチブックを取り出して、彼女の寝顔を描き始めた。

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