10  (グリン)

 沼に着くといつも通りの場所にイーゼルを立てカンバスを置いた。こないだ描こうと思っていた沼の水面を今日こそ描こう。


 期待は外れ、あの少女の姿はなかった。けれど、森の木漏れ日の輝きと澄んだ空気はグリンバゼルトの気持ちを引き立ててくれる。


 悩んだところで無駄と言うもの。忘れるに越したことはない。あの男が自分の父親であり、この学校の校長である事実は動かせないのだ。


 風が木を揺するのは上方の枝だけで、グリンバゼルトの居場所には吹いてこない。濃い緑色の水をたたえた沼も静かで、水面が乱れることもない。椅子を取り出して座ると、グリンバゼルトはしばし沼に見入った。


= 金色の大きな魚、恋をしたのは空の月 =


 僕の母は、手の届かない空にいる月に恋をしたのだろうか? グリンバゼルトはふと、そう思った。


「初めてあのかたを見た時から、ずっと憧れていたの」

いつだったか母はそう言った。


「いつでも大勢に取り巻かれ、あのかたは華やかでした。同じ寮で顔なじみとは言え、地味で、薬草を扱うだけが取り柄の私が近づくなんて、とてもできないこと、私の思いは憧れでしかなかった」


 学校を卒業した私は街の魔導士になり、もう二度とあのかたにお会いすることはないものと思っていました。


 けれどあの九日間戦争の折、南の魔女の居城に入った私はあのかたの疲れ切った顔を見ることになるのです。


 今、考えても心塞がれるあの九日間戦争。私たちは何としてでもサリオネルト様をお助けしたいと集まっていました。


 戦況はかんばしくなく、西の城を放棄するとサリオネルト様は決断なさいました。そして城と運命を共にするとおっしゃいました。


 仲の良いご兄弟でした。双子なのにまるで正反対に見えるお二人でした。が、それはあのお二人が互いに相手を補うためだったのだと、今はそう思えてなりません。


 サリオネルト様のご決断にあのかたがどんな思いでいられたか私に知る由もなく、私にできることは、あのかたに甘く温かいお飲み物を差し上げることだけでした。


 そして西の城が崩れ落ちる中、あのかたはサリオネルト様とマルテミア様の亡骸を南の城に連れ戻されました。


 あのかたはしばらく弟君のお顔を見詰めていらっしゃいましたが、やがて次に行くべき場所へとおもむかれようとなさいました。けれどその途中、歩みは止まり、その場にいた者たちはあのかたの嘆きを目の当たりにし、慟哭を耳にすることとなったのです。


 常に心を武装しているあのかたのそのお姿は周囲を驚かせました。そう、あのかたはいつでも心を武装し、自分を求める者たちに忠実であろうとしていたのです。誰よりも強く、今よりも強く、あのかたは自分にそう課しておられました。


 西の魔女の策略で南の陣地に疫病がばら撒かれたとき、あのかたは自ら街の魔導士ギルドに足を運び地域の魔導士たちを指揮しました。九日間戦争が終わって一年ほど経った頃のことです。私があのかたをお見かけしたのは九日間戦争以来のことでした。


「リリミゾハギ、元気にしていたかい?」

 その声にどれほど心が震えたか。卑しい街の魔導士、薬売りが生業なりわい、そんな私にも他のかた同様に接してくださることが、どれほど嬉しかったことでしょう。


 もちろん私だけでなく、あのかたはどんな人にも分け隔て有りませんでした。その頃あのかたは魔導士学校の副校長でしたが、その傍ら、何度も街に、あのかたのご領地に足を運び、領主としてのお勤め、街に蔓延する疫病対策に奔走しておられました。私は ――


 私は不謹慎にもあのかたにお会いできると、喜びに打ち震えていました。病に苦しむ街人たちのためにあのかたが来ている事を知りながら、嬉しくて仕方なかったのです。そしてあのかたの、お優しい心、言葉、眼差しに、身の程もわきまえず思いを募らせていったのです。


 そんな私の思いに気付いたあのかたは私にこうおっしゃいました。世間話のついでを装って、こうおっしゃいました。

「妻を愛している。愛しくて恋しくて、どうしようもない。妻への思いで私の心は満ち溢れている」


 私にとって残酷なその言葉は、あのかたの思いやりから出た言葉、私は思いきらなければならないと知っていました。決して私を愛することはない、とそう言っているのです。


 だからあんなことがなければ、私とあのかたの人生が重なることなどなかったはずです。

「私は……あのかたの弱みに付け込んだのです」


 母は『あんなこと』と言った出来事についても、父の弱みについても一切話そうとしなかった。そして、すべて自分が悪いのだと、父を恨んではいけないと、僕に何度も言った。


 母は、今でも父を愛しているのだと、いやでも判る。手の届かない空に帰ってしまった今でも、母は父に憧れ、父が戻ってくるのを待っている。そして、その願いが叶うことがないことも充分承知しているのだろう。


 なぜ父は、金色の魚のあの話を幼い僕に何度も読み聞かせたのだろう。ほかにも本はたくさんあったはずなのに、なぜあの物語だったのだろう。それとも父に意図はなく、単に僕があの物語を強請ねだったに過ぎないのか? その辺りの記憶は曖昧で僕には判断できずにいる。


 近づく気配がグリンバゼルトの物思いを中断させる。誰か来る。木立の向こうから、ゆっくりこちらに向かってくる。魔導士ではない誰か、あの少女だろうか?


 グリンバゼルトは立ち上がり、近づく気配に身構え、いつでも防護術が使える体勢を取る。少女と決まったわけではないのだから用心に越したことはない。


 小鳥たちが集まって競うようにさえずっている。それがこちらに近づくとともに、人の声も聞こえるようになる。微かに聞こえるあの声は小鳥と一緒に歌っているのか。


  夜鳴鶯ナイチンゲールは 夜しか鳴かぬ

  昼はどこかで寝てるだけ

  フクロウやっぱり 夜しか鳴かぬ

  昼はこっそりお勉強


 ゆっくりと近づく歌声は少女の声だ。きっとあの少女だ。こんな森に何人も少女が、しかも街人の少女がいるはずがない。防御態勢を解いて、グリンバゼルトは少女が姿を現すのを待った。


 声のもとに駆けていきたい衝動を必死に抑える。そんな事をしたら、あの少女はきっと驚いて逃げてしまう。小鳥のように逃げてしまう。


 自分の鼓動を感じながら、グリンバゼルトは木立の合間を見詰めていた。もうすぐあそこにあの少女が姿を見せる。


 きっとあの子はこの沼を目指している。あの声の位置ならば、姿が見えるのはあの木の間だ。


  キツツキつつくは 大樹のこずえ

  小枝 つつけば 自分が落ちる

  ワライカワセミ 止まらぬ笑い

  誰かどうにか 止めてやれ


はやしたてる小鳥たち、少女の笑い声、もう、すぐ、そこだ。


 木漏れ日がきらめいた。少女の髪が光を弾く。グリンバゼルトに気が付いた小鳥が少女に何か話しかけるように鳴いた。


 少女がゆっくりとこちらに顔を向ける。そしてグリンバゼルトを見ると、にっこりと微笑んだ。


「やぁ……」

間抜けだな、と思いながら、グリンバゼルトはそう言った。少女に掛けるべき言葉が見つからない。


 少女はグリンバゼルトに視線を向けたまま、真っ直ぐこちらに向かってくる。森の中を抜けてくる。


(枝がけている……)

そのことに気が付いたグリンバゼルトがよくよく見ると枝だけでなく、でこぼこと足元に出ている木の根たちが、少女が足を踏み出すとスッと引っ込み平らな道を作る。


(大地の守護?)

 街人の少女が自分で木々に命じているとは思えない。その痕跡もない。木は己の意思でそうしている。この少女は、大地か森、どちらかの守護を得ている。


 森の守護のように見えるが、大地の守護より森の守護のほうが高度でより難しい。ならば大地の守護をこの子は獲得しているのだろう。

(なるほど、それで保護者は安心して、森にこの子一人で出せるんだ)


 グリンバゼルトが呆然と見ているうちに少女はすぐ前に来て、グリンバゼルトを見上げる。体が触れそうな近さに、咄嗟にグリンバゼルトは一歩下がり、立てておいたイーゼルを倒してしまった。

「あ……」


 慌ててイーゼルを立て、投げ出されたカンバスに手を伸ばすと、先に少女が拾い上げた。

「ありがとう……」

受け取ろうと手を伸ばすが、少女は何も描かれていないカンバスを、表裏、そして横からと、しげしげ眺めていて、こちらに寄越す気はなさそうだ。そして小首を傾げている。


「それはカンバスと言って、張られた布に絵の具を使って絵を描くんだよ」


 そしてこれが絵の具、絵筆とグリンバゼルトが説明すると、少女はニッコリ笑顔を浮かべカンバスを手渡してくる。


「この沼を描こうと思って、ここに来たんだ。キミは?」

少女はグリンバゼルトの言葉に頷いて、沼を見る。


「沼を見に来たの?」

すると再び頷く。さっき、確かに歌声を聞いた。話せない訳ではないのに、なぜ黙ったままなのだろう。


 少女はグリンバゼルトの椅子に勝手に腰かけ、沼を眺めている。もちろん、椅子を使われて困ることはない。


 取り巻いていた鳥たちは、すぐ近くの枝に留まり、少女を見守っている。そしてグリンバゼルトのことも見ているようだ。監視されている、とグリンバゼルトは感じた。


 今日の少女はクリーム色のブラウスに胸当てのついた紺のズボン、ゆったりしていて足首で裾を締めたものだ。


 だが、印象が違うのは服装のせいだけじゃない、とグリンバゼルトは思った。この間のようなビクビクとした怯えが、今日は見えない。春の陽だまりのような穏やかさが見えている。


「何か、いいことがあったのかな?」

 グリンバゼルトの問いに少女の応えはない。それどころか自分に掛けられた言葉と気が付いていないようだ。嬉しそうに沼を眺め続けている。


 嬉しそう……そう、今日の少女はニコニコとなんだか嬉しそうに見える。そして伸び伸びしている。


 虐待されていると感じたのは思い違いだったかと、グリンバゼルトは思う。あの日は酷く叱られでもした後だったかもしれない。


 よかった、と思った。何とか救ってやりたい、とは思ったが、実際何ができるかと考えても何もない。


 それでも疑問は残る。街人の少女がなぜ魔導士学校の森にいるのか。


 鳥類と話しているのは疑いようもない。誰かが教えなければ街人には無理な話だ。では誰がこの少女に教えたのだろう。

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