9  (グリン)

 緑の沼で少女と出会った翌日は雨だった。新学年のプログラムの希望提出しか、その日は予定されておらず、一日暇を持て余していた。


 その翌日はオリエンテーションとプログラムの見直しで忙しかった。他生物会話を二単位取りたいと言い出したグリンバゼルトに寮監は戸惑い、


「他生物会話は確かに役に立ちます。が、二単位ですか? 鳥類と小動物……鳥類はともかく、小動物はそれほど役に立ちませんよ? それに昨年、必修のドラゴンは取得済みなのだし、今さらな感が否めません。進路を考えての選択なのですよね?」

と、進路の話を持ち出し、グリンバゼルトを辟易させた。


「どうしてもと言うなら止めはしません。が、グリンバゼルト、これで単位数が上限です。ほかに学んでおきたいことはないのですね?」


 もともと二単位、自由に使える時間として取らずに残しておこうと思っていた。学んでおきたいことは既に選択して織り込んである。


 グリンバゼルトにとっては自由時間が減るだけの話、黙っていたら、寮監はいつも通り、判りましたと話を打ち切った。


 そして新学年が始まるのは明後日からだ。今日と明日は何もすることがない。提出したプログラムの希望が通らなければ呼出しもあるけれど、グリンバゼルトの成績なら優先され、多分すんなり通るだろう。


 よし、今日と明日、あの沼に行って思い切り絵を描こう。きっとあの子も来るだろう。あの子には聞きたいことがある。僕にできることがあれば助けてあげたい。


 そう思っていたのに、朝食を摂りに食堂へ行くと寮監が声をかけてきて、食事が終わったら校長室に行くように、と言う。

「私と二人で校長の執務室に参ります。食事が終わったら、私に声を掛けるように」


 ひとりで行けと言われたなら、すっぽかすこともできただろう。寮監と一緒となるとそうはいかない。しかし、いったい何の話だろう。グリンバゼルトは朝食の味がよく判らなかった。


 校長室に入ると、ビルセゼルトは窓際に立ち、森を眺めているようだった。相変わらず、燃えるような赤い髪、いや、時折遠目で見かけるそのままの髪の色。遠くからも目立つあの色。

(なぜ僕は父の髪や瞳を受け継げなかったのだろう)


 ビルセゼルトを見るたびにグリンバゼルトの心に浮かぶ疑念。僕の髪と瞳が父と同じ色ならば、ひょっとしたら父は母を見捨てなかった? 幼さが生んだその疑問を、違うのだろうと判っていても、グリンバゼルトは捨てきれていない。


 寮監とグリンバゼルトが部屋に入ると、ゆっくりとビルセゼルトが振り向き、自席に向かう。


「来てもらったのは、グリンバゼルト、キミが何を考えて自分のプログラムを組んだのか、真意が知りたいと思ったからです」

そう言ってローブをひらめかせて椅子に座る。そしてレンガ色の瞳でグリンバゼルトを見詰める。


 大好きだったあの瞳、優しかった眼差し、それが今では、見るのも苦痛、見られれば恐怖し、苦しみ以外の何物でもない。グリンバゼルトはビルセゼルトの問いに答えることもなく、視線を外す。


 答えないグリンバゼルトに業を煮やしたか、

「ハッシバロブル先生はグリンバゼルトから何か聞いていますか?」

と話を寮監に振る。


「ビルセゼルト校長、入学時から申しておりますが、グリンバゼルトは心を開くことがありません。だが、学績は優秀、その彼が考えて出した結論、私が理由など聞いても意味がないように思います」


「つまり聞いていない、ということですね」

ビルセゼルトの言葉は疑問ではない。


「で、グリンバゼルト、キミは言葉を解し、言葉を語ることができたと思うが、私の記憶違いかね?」

グリンバゼルトはそっぽを向いたまま答えない。


「返事がないのは、答えたくないからか、返すべき答えを持たないからか?」

今度はチラリとビルセゼルトを盗み見るグリンバゼルトだ。ビルセゼルトがニヤリと笑い、グリンバゼルトを逆なでする。


「校長、あなたとは口をききたくない」

 ビルセゼルトを睨み付け、グリンバゼルトは言い捨てる。心臓がバクバク音を立てた。なぜ? ずっと言いたかったことをやっと言った。だから勇気が必要で、だからこんなに動悸がするのか?


「そうか……」

そんなグリンバゼルトをビルセゼルトは笑みを浮かべて眺める。


「キミが私に話したくないのは判った。ここは学校で、できれば個人的な事情を持ちだして欲しくないのだが、まぁ、仕方ない」

「……」


「個人的な事情なら、ハッシバロブル先生には関係のないこと。話せますね?」

やられた、とグリンバゼルトは気が付いたがもう遅い。


「今日中にハッシバロブル先生に詳しく話すこと。その報告を聞いて、キミのプログラムをどうするかは私が判断する。抗議しても無駄だ。私がこの学校の校長だという事を最早もはや、忘れてはいまい?」


 グリンバゼルトが言い返そうとするのをさえぎってビルセゼルトが一気に言い放つ。

「退出してよろしい。ハッシバロブル先生、頼みましたよ」


 そのあと寮に戻り、寮監室で、なぜその講義を選んだのか、一つ一つハッシバロブルに説明した。


 もちろん、精査して選んだ講義、グリンバゼルトの説明にハッシバロブルは頷き、納得するしかない。


 他生物会話については、諜報術はすでに、遠見、遠聴、覗心、主要なところはマスターしているが、これらは相手が判っていて、初めてできる事。それと比べ、他生物がもたらす情報はあずかり知らぬことさえ含まれる。と、説明した。


「なるほど、確かに諜報の面を言えば他生物会話、いい所に目を付けたと言わざるを得ませんね」

だが、とハッシバロブルは続けた。


「鳥類はともかく、小動物は不要かと思えます。鳥類の情報網は範囲が広い。情報を齎すだけでなく、情報を運ぶことも可能です。が、小動物は限られた範囲に留まることが多く、鳥類が使えれば不要かと思います」


 それよりもあなたに不足しているのは、と続く。


「幻惑術……お判りかと思いますが、相手を自分の意思でこちらの思惑通りに動かす様々な術、これを一単位、差し込みましょう。本来、一単位では到底習得できないものですが、必修というものでもなく、あなたであれば一単位でも充分身に着けられますよ」

「いや、それは……」

幻惑術を使い、相手を思い通りに動かす必要がどこにある?


「あなたの生まれつきの才能でもあるのですから、活かさない手はありませんよ」

「生まれつき?」


「その琥珀色の瞳は『魅惑の眼差し』を時折見せています。『憤りの発露』はたびたび見せていますね。有効な術を覚えると同時に、無意識に発動しているそれらを自分の意思で管理する必要があります」

「……」


「反論は? なければ他生物会話は一単位に減らし、幻惑術を一単位増やすことにします」

 反論したところで、通らないことは判っていた。最悪なのは寮監の部屋を出るときに言われた一言だ。


「そうそう、幻惑術の講義は本来の枠はいっぱいなので、校長自ら行うとのことです」


 寮監に何を言っても無駄だ。最初から打ち合わせ済みなのだ。あの男は、僕のことも自分の思い通りにしたいのだ。母をそうしたように ――


 自室に戻り、暫く不貞寝ふてねした。気分は落ち込めるだけ落ち込んで、これ以上はない、いや、これ以下はないか、そんな状態で森に行く気にもなれない。


 不貞寝と言っても眠れるはずもなく、悶々もんもんと寝返りを打つばかりだ。壁の向こうの談話室から聞こえてくる笑い声さえ耳障りだ。ほんの少し前まで、自分もあの中にいた。だけど気まずくて、ここ数日談話室で過ごしていない。


 飛び級が知られてからと言うもの、仲がいいと思っていた学友がさり気なく自分を避けている。それとも、避けているのは自分なんだろうか? 今、思えば、仲がいいと思っていたのも自分だけで、向こうはそんな事、ちっとも思ってなかったか?


 父親が校長だという事は、どうせみんな知っている。知っていても口にしない。だけど、影で何を言っていることか。どうせ悪く言うだけだ。悪口はいくらも思いつくけれど、良い印象の言葉はどう頑張ったところで一つも思い浮かばない。


 僕にとってあの男は苦しみ以外の何物でもない。なぜ、僕は生まれてきたのだろう。こんな事なら生まれてきたくなんかなかった。


 考えてもどうしようもない事だと、今さらどうにもできないことだと判っていることを、グリンバゼルトは今まで何度考えたことか。


 と、突風が吹いて窓が揺れる。見ると枝が手招きするようにチラチラと動いている。


 行ってみるか。ひょっとしたらあの子に会えるかもしれない。この救いようもない僕を救ってくれるかもしれない。救いようのない僕でも、あの子を救えるかもしれない。


 立ちあがり、窓を開ける。快晴だが、風が時折強く吹く。けれど雨の気配は感じない。グリンバゼルトは枝を伝わって部屋を抜け出していった。

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