11 (グリン)
魔導士学校に住むのは、教職員と生徒だけだ。そして教職員は教師棟に個別に部屋を与えられている。教職員は自室に家族の住処との間に火のルートを開き、夜にはそこへ帰る。家族が魔導士学校に住むことは滅多にない。たまに夫婦で住む者もいるが、子ができたら別に住処を持った。街とは隔離されている魔導士学校は、家族で住むには適していない。
「ねぇ……」
グリンバゼルトが少女に話しかける。聞こえないのか、少女は沼を見たままだ。
「ねぇ、キミ」
やはり反応がない。ただうっとりと沼を見詰めているだけだ。
沼を隠してしまうのは気が引けたので斜め前に回り込み、膝をついて視線の高さを合わせてみた。するとやっとグリンバゼルトを思い出したように、グリンバゼルトの目を見て小首を傾げた。
「ねぇ、キミは魔導士学校に住んでいるの?」
違うよ、と言うように首を横に振る。
「それじゃあ、近くの街?」
また首を振る。
「それじゃあ、どこに住んでるの?」
少女は小首を傾げ不思議そうにグリンバゼルトを見詰める。
まさか、と思いつつ、グリンバゼルトが
「この森?」
と訊くと、やっと首を縦に振る。
「……一人で? 一人でこの森に住んでいるのかい?」
ニッコリ笑顔を浮かべ少女は首を縦に振る。
「……」
=== 森には、人心を惑わす魔物が住む。見た目は美しく、嫋やかで、とても魔物とは思えない。けれどその美しさに心惹かれた者は二度と森から出られない……
(いや、伝説だ。おとぎ話だ。でも、本当に伝説か?)
もし伝説ではなく事実なら、僕はこの森から出られなくなる。そんな思いがグリンバゼルトの心に浮かぶ。
(って、この子を魔物だと、僕は言うのか?)
ただの街人の少女だ。自分の愚かさにグリンバゼルトは呆れかえる。
でも少し変わっている。小鳥とは話すのに、人間の僕とは話さない。だけど……
嫌われているとも思えない。初めて会った時はともかく、今日は僕を見て笑顔になった。沼を見に来たようだけど、ひょっとしたら僕に会いに来たのかもしれない。
いや待てよ、こないだは確かパンと果汁をあげたんだった。それが目当てでここに来たのか? いやいや、それなら沼なんか見詰めずに、僕に食べ物を
グリンバゼルトは自分が自分の都合のいい様に考えていることに気付いていない。そしてそれが、自分の願望なのだと気付いていない。
少女は自分を見詰めるグリンバゼルトを見詰め返している。深い緑色の瞳の奥が揺れる。
(綺麗だ……)
無意識の内にグリンバゼルトの手が動き、少女の頬に触れる。少女はその手の動きを目で追うだけで、怖がる様子も嫌がる様子もない。
(温かい。柔らかい)
これが魔物であるはずがない。
チチチチッ! 警告のような鳴き声で小鳥たちが騒ぐ。思わずグリンバゼルトが手を引っ込める。木の枝で遠巻きに見ていた小鳥が数羽、少女の肩や、小鳥たちのために差し伸べた少女の腕に留まりに来る。
小鳥たちは口々に何か訴えている。それに少女は耳を傾けているようだ。やっぱり小首を傾げてから、グリンバゼルトを見て、また小鳥たちに視線を戻す。そして頷く。すると小鳥たちが一斉に飛び立ち、また木の枝で少女を見守り始める。
送言術? 今、少女は声を出さずに小鳥たちと会話した? だけど、少女から、どうしても力を感じない。術の痕跡も見えない。
グリンバゼルトはもう一度、少女の心を覗いてみる。やはり見えない。誰かが掛けた塞心術が有効で、グリンバゼルトの術が弾かれているのを感じる。
塞心術を掛けたのが少女でないのは判る。己に掛ける術とは違う。他者に掛ける術なのははっきり判る。だけど署名が見当たらない。このレベルの術ならば、術者の痕跡が残るはずなのに、それが全くない。よほどの使い手、という事だ。
まぁ、ここは魔導士学校なのだから、強力な魔導士がいてもおかしくない。教師のみならず、教授を上回ると言われる学生だっている。
考え込むグリンバゼルトを面白そうに少女は眺めていたが、不意に立ち上がり、グリンバゼルトの手を引いた。
「え? どうした?」
グリンバゼルトがイーゼルを立てた向こう、僅かに開けた場所にグリンバゼルトを引っ張っていく。
そして、手を放すと深々とお辞儀してから、片腕を挙げてクルクルと円を描くように回り始めた。
(ダンス?)
驚いて見ていると、クルクルの中に、上げた腕を振り下ろし、もう片方の腕と片足を後ろに引いてお辞儀のような動作が入る。そうかと思うと体を上に伸ばして、両腕をはたはたと上下させる。
(これって……)
鳥の求愛ダンス? グリンバゼルトはおかしくて、つい笑ってしまった。
すると少女はますます調子に乗って踊り続ける。気が付けば枝の小鳥たちが
少女は楽しそうに、笑顔で踊り続けている。そして急にグリンバゼルトの手を引いた。
「一緒に踊れって?」
笑顔がさらにニコリと笑う。そして手を放して最初のお辞儀をする。
慌ててグリンバゼルトが真似をすると、再び手を取ってその腕を伸ばし、そして今度は肘を折りながら一歩踏み出す。もう一方の腕はひらひら上下させている。グリンバゼルトが真似すると嬉しそうに笑い声を立て、回り込むようにステップを踏む。
(僕は何しているんだろう……)
そう思いながら、グリンバゼルトは少女のダンスに付き合う。
少女の動きを真似するだけなのに、やってみるとこれがなかなか難しい。大きく間違えると、少女は動きを止め、唇をつんと突き出した表情で人差し指を大きく左右に振る。ダメ出ししているのだろう。そしてまたお辞儀から始める。
いつの間にか、二人で笑いながらステップを踏んでいる。地は踏み固められたように硬く平らになっていて、二人が踊るには充分な広さに変わっている。鳥たちも加わって、
こんなに体を動かすのはいつぶりだろう。息が切れ、軽く汗をかいてきたグリンバゼルトがそう思うころ、繋いでいた手が滑ったのか離れてしまい、勢い余って少女と二人、尻もちを
落ち葉なんかなかったはずだと知っていたが、深く考えるほどのことではない。笑い転げながら、グリンバゼルトはその場に仰向けに寝っ転がった。
「ダンスが上手だね」
少女もその場に寝っ転がるのを感じながらグリンバゼルトが話しかける。
「このダンスは小鳥たちに習ったのかい?」
やはり息を弾ませている少女はクスクス笑うばかりで答えない。
見上げると若葉は柔らかに輝き、その隙間からは青空が見える。
なんとなくそれを眺めていると、小鳥たちが来てグリンバゼルトの腹に留まり始め、他生物会話、鳥類との会話をなんとしてでもマスターする、とグリンバゼルトに思わせた。
小鳥は少女にも留まっているのだろうな、とグリンバゼルトが見ると、少女の姿は見えず、代わりに無数の小鳥が群がって団子のようになっているのが見える。まさか? と思っているうちに、鳥団子から腕が生え、小鳥たちを振り払い少女が頭を出した。
なんだかおかしくなって、グリンバゼルトが大笑いする。こんなに思い切り笑ったのはいつぶりだろう。今日は忘れていたことを色々しているようだ。踊って体を動かして、大笑いして。ここに来てよかった。
暫くすると少女がまたグリンバゼルトの手を引っ張る。
「まだ踊るのかい?」
笑いながらグリンバゼルトが立ち上がると、少女は沼の畔に向かう。
「危ないよ。気を付けて。滑るし、沼と地面の境が入り組んで判り難い」
慌ててグリンバゼルトが後を追うと、少女が沼を覗きこんだ。つられてグリンバゼルトも覗きこむ。
金色の光が揺らめいて、水の中を横切った。そして沼の底へと沈んでいく。
(金色の魚?)
よく見ようと目を凝らしたが、それきり何も見えなかった。
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