第11話
リンリンリンリンという音とぐらりと回った夜空に、修は足がすくんだ。いつもの、柳の前の風景とは違う気がした。
修は、怯みながらも一歩踏み出した。いっそう、虫の声が大きくなった気がする。
―――こんなに、こんなにも秋の虫って、大きな声だったか―――
修は、走りながら思った。
はあはあはあ。虫の声に混じって、やたらと呼吸音が大きく聞こえる。すぐに追いつくと思ったのに、走っても走っても、松原は見当たらなかった。夜のなかでざわめく緑が、川に沿って続いているだけだった。そこへ虫の声がうるさいほどに、満ちている。通りかかる人は誰もいない。
(こんなに長い川だったっけ―――どうして追いつけないんだ―――)
自分が追いかけているものが幻であるような気がしてくる。修はもう、自分がどこを走っているのか分からなくなっていた。
「なにやってんの」
唐突に話しかけられた修は、飛び上がるほど驚いた。思わず後ろへ下がる。
「……っ、松、原、さん」
修は、上がった息の合間に、真横から現れた男の名前を口にした。
そこは以前、修が松原を見かけた橋の上だった。あの時は顔が見えなかった。今は、間近で見える。その顔は、店の中で見るよりも、夜の闇と緑が映って影が濃かった。しかし、飄々とした感じは変わらない。
「はい、松原ですケド」
肩をすくめてみせる。夜目にも白いシャツが、寒々しく見えた。
「君、こんなところで何してんの?」
少し呆れたような口調の柔らかい方言に、修は心のうちの靄が晴れていくような気がした。
「あ―――お、お釣り」
修は、ようやく落ち着き始めた息の下で口にした。
「お釣り?」
松原がけげんな顔で、首をかしげる。鼻にしわを寄せてる。笑ってるのだ、と修は思う。
「お勘定―――多過ぎでしたよ!」
笑いながら修が言い直して顔を上げると、松原は修の間近に立っていた。ぎょっとするほどの近さだった。
「お勘定?」
意味のこもらないオウム返しの音に、修は背筋が凍った。松原の真意を確認しようと顔を見つめるのに、よく見えない。
「―――」
松原の声に、虫の声がリンリンリンリンと重なって聴こえない。後ずさろうとするのに、足が空を蹴るようで手ごたえが無い。松原の手が、修の腕をつかんだ。驚くほどに冷たい。
「松原さ―――」
修は声を上げた。
「見逃してあげようと思ったのに」
松原の声が聞こえたと思った瞬間に、その青白い顔が修には見えた。ひょうきんさは影もなく、ただ悲痛さだけが浮かんでいる顔だった。
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