第7話

 幽霊みたいな人やな、という言葉が、修の耳から離れなかった。あの橋の上で、自分の方に踏み出してきた松原さんを思い出すたびに、修は背中がぞくぞくした。次に会ったらどうしたらいいのか分からない修の予想外に、「松原さん」は姿を見せなかった。

 

 「夜は肌寒いくらやのお」

 そう言って、常連の右田さんがカウンターに腰掛けて、焼酎を頼んだ。柳では、ビールを頼む人はめっきり減っていた。九月も終わりが近くなると、さすがに「とりあえずビール」ではなくなるのだ。

 「夜は確かに冷えま―――」

 修が右田さんにお通しを出しながら、相槌を打とうとしたとき、松原が視界に飛び込んできた。いつの間にか、カウンターの端に座っている。

 ガタッ。修は思わず後ろに身を引いたらしく、後ろの卓にぶつかった。

 「おいおい、修ちゃん、しっかりしてやあ」

 右田さんが笑いながら、焼酎に口をつけた。

 松原は、まだ真夏のような白いシャツを着ていた。そういえばいつも白いシャツだ、と修は気づいた。

 修は他の客の注文を捌いたり、洗い物をしたり、あわただしいなかでも、松原をちらちらと見ずにはいられなかった。松原さんはそれに気づいているらしく、修と目があうとニヤリと笑った。

 その笑顔は、修の怖れていたようなおどろおどろしいものでは全くなく、苦笑という感じに近いものだった。修は慌てて、洗い物に注意を向け、その後、そちらを見ることはできなかった。

 初めて彼を認識したときから、修は、彼の飄々とした佇まいに惹かれていることを自覚していた。だからこそ、松原の話はしたくなかったし、橋の上からこちらへ踏み出そうとしていた彼が、まるで違った存在に見えて恐怖を感じたのだ。

 

 「日本酒、ください」

 涼やかな声が修の耳に届いた。「はい、ただいま」と修が顔を上げると、松原がひらひらと手の甲を揺らして手招きしていた。店のなかで、松原さんが声を出しているのを見るのは初めてだな、と修は思った。薄い肉付きの輪郭に切れ長の涼しい目つきの顔が、気怠げな微笑みを浮かべている。

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