第6話

 「どうしたんや、修ちゃん」

 引き戸を開ける音に振り返った客が、驚いた顔で言った。

 「真っ青やんか」

 「あ、ちょっと、走ってきたので……」

 修は、口のなかでもごもごと言いながら、カウンターの端に視線を走らせた。なんとなくあの客が座っているような気がしたのだ。座っていて欲しいような、座っていたらもっと恐ろしいような、そちらを見たくないような気持で、確認せずにはいられなかった。

 その客は座っていなかった。修は、はーっと息を吐いた。息を吐いたことで、自分が全身に力を入れていたことに初めて気づいた。

 

 「お疲れさん、今日は遅くまですまんな」

 大将に声をかけられて、修は卓の上を拭いていた手を止めた。

 「最近はなんや繁盛して、ありがたいことやで」

 「あのお客さんなんですけど」

 唐突に修は切り出した。少し驚いた顔で、大将はカウンターの中から修を見つめ返してきた。

 「なんや?あのお客さん、て?」

 「あの、端に座ってる」

 「―――ああ」

 大将は、一瞬、ぽかんとした顔でいたが、しばらくして誰のことが分かったらしい顔をした。

 「あのお客さんか―――あの人なあ……」

 大将微妙な表情をしたので、修は気まずくなり、それ以上、言葉を継げなかった。

 「あの人かあ、お前もなんか変や、と思ってたか。いやな、別に悪いお客さんちゃうねんで?金、払わん、とかとちゃうし。そやけどなあ」

 大将は、修の戸惑いには気づかない様子で、洗い物を再開した。

 「名前は松原さん、て言わはるらしいわ」

 合間に、ざあざあと水を流す音が混じる。

 松原さん、か。修は、頭のなかで繰り返した。

 「ああ、なんていうか、雰囲気あるよな。あの人をちらちら気にしてる人は、結構いるわ。お前、気づいてた?」

 修は、それを聞いてなんとなく体に力が入るような気がした。大将が顔を上げてこちらを見たのは気づいていたが、修は拭いている卓に目を落としている振りをした。

 「ほんで……松原さんなあ、なんとなく不思議な雰囲気で、いつ来はったんか、いつ帰らはったんか、はっきりせえへんことが多いんよな。まあ、お金はちゃんと―――どっちかって言うと多めに、置いていってくれはんねんけどな。いつもふらっといなくなってしまわはって」

 修は、いつの間にか手を止めて、大将の話に聴き入っていた。

(そしたら、さっきの橋の上にいた人は、やっぱり松原さんなんだろうか。ふらっと出て行って、あそこにいたのだろうか)

 「なんや、幽霊みたいな人やな、って、常連さんと言うてて」

 大将の言葉に、修はさきほどの背中に氷水をかけられたような感覚を思い出した。


 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る