第5話

 束の間、虫の声に気を取られた修は、ビニール袋のガサ、という音で我に返った。じゃり、という足音とともに踏み出すと、一斉に虫の音が止まる。一瞬の静寂。そして、ふたたびきらめくような声が鳴り出す。

 「―――あ」

 修は、思わず足を止めた。

 いつもカウンターの端で飲んでいる彼だった。小さな川にかかる橋の欄干に肘をついて、川面をぼんやりと見つめている。いまどき珍しい木造の欄干は黒ずんで、闇のなかに沈んでいた。その上で風にはためく白いシャツが、彼を亡霊のように浮き上がらせていた。カウンターで肘をついているときにも、欄干にもたれかかっているときにも、修には、その長い腕がやけに印象に残った。

 「―――あ」

 今度は、彼が声を出した。視線に気づいて修を認めたのだった。途端に、修は赤面して硬直した。盗み見がばれたような気がしたのだ。

 「ああ……柳の店員さん」

 彼は、ふっと笑って姿勢を変えた。水面からの光が消えて、顔には樹々の影が差した。修からは、彼の表情はよく見えない。

 「今夜はええ夜やなあ……」

 今度は欄干に背をもたせかけた男が、関西訛りでゆっくりと言った。沁みいるように柔らかな声だった。華やかな虫の声が重なって、男の声はよけいに耳の奥深くへ響いてくるようだった。

 「ほれ、虫もよう鳴いてからに……」

 男の声には笑いが含まれていた。男の顔には相変わらず影が差して、よく見えないのに、笑っているのが修には分かった。白い首と白いシャツがはためくのが、修の視野に焼き付く。

 「な、そんなところに棒立ちになってへんと」

 男はふわりと、欄干から体を浮かせた。まるで体重が無いかのような動きだった。修の方へ踏み出そうとしてくる。

 「な、こっちへ―――」

 男が踏み出して来ようとした瞬間、

 「失礼します!」

 修は、身を翻して駆け出していた。

 

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