30・沖信彦

 沖は自分のアパートに帰った。ほんの数日しか空けていなかったのだが、数ヶ月も離れていたような気がする。

 鉄製の外階段を登って日陰になっている薄暗い廊下に出る。部屋の前、ドアに寄りかかるように誰かがうずくまっていた。

 沖が足を止めてつぶやく。

「凪か?」

 人影が顔を上げる。

「父さん……?」

 沖は深いため息をもらした。

「今、開ける」

 沖は凪の横に立ち、ドアの鍵を開ける。厚いカーテンが引かれた部屋の中は、暗い。

 凪は亡霊のように力なく立ち上がった。

 沖は凪の背中を押して部屋に入れる。そして、後ろから抱きしめた。

 胸を震わせ、涙を流していた。

 凪がつぶやく。

「ごめんなさい……」

「いい……戻ってくれれば、それでいい……」

 沖は凪を離すと、照明を点けようとする。

 凪がそれに気づく。

「まだ点けないで」

「暗いままでいいのか?」

「顔、見られたくない……」

「怪我でもしているのか⁉」

「そうじゃなくて……恥ずかしい……」

 部屋にはカーテン越しの明かりがぼんやりと差し込んでいる。

「中に入りなさい。散らかってるがな」

「うん……」

 凪は床に散った雑誌を避けて、小さなテーブルの前に正座した。

 沖は傍のベッドに腰掛け、凪と目を合わせないようにする。

 無言のまま、時間が過ぎる。

 凪がうつむいたままつぶやく。

「何も聞かないの……?」

「聞いて欲しいのか?」

「あたしのこと、ずっと探してくれたんでしょう?」

「知ってたのか?」

「逃げてて、ごめんね……」

「もう謝るな。凪に謝られると、苦しくなる。凪をこんなに追い込んだのは、俺だからな……」

「父さんは悪くない……」

「お前たちを突き放したのは俺だ。あの時は怖い思いもさせてしまった。だから、もう離さない。いいか?」

「うん……」

「あたし……ここにいて、いい?」

「当たり前だ。俺の娘なんだから。今はまだ考えられないだろうけど、母さんのこともお前の気持ちを聞いて、ちゃんとするから」

「うん……。遥さん、死んだの?」

「ああ。サクラになりたかったんだろう?」

「願い、叶ったのね……」

「凪を生かしておいてくれて、感謝している」

「あたしね、一緒に行かせてってお願いしたんだ……。でも、あなたは残りなさい、って……。お父さんが待ってるから、って……」

「辛いことはなかったのか?」

「知り合いは増えた。みんな、あたしよりずっと嫌な思いをしてきた子たち。あたしなんか、まだいい方じゃないかって思えて……」

「彼女たち、友達だったのか?」

「友達……とは言えないかな。みんな、遥さんの他にはあまり喋らなかったし。人と話すの、苦手な子ばかりだったし。あたしも、だけど……」

 凪が殺人に手を貸した映像は、まだ沖の脳裏にこびりついている。だが、それを問うことはできない。

「遥さんのことは信じていたのか?」

「だって、言葉通りにあたしたちを解放してくれていたし……。いつかは自分の順番も来るって、待ってたんだけど……。残った2人、どうなったか知ってる?」

 沖は、質問されるだろうと覚悟していた。

「遥さんと一緒に死んだよ。高橋という男に殺されていた」

 それは嘘だ。だがいずれは、そうなる。止めることが正しいかどうか、沖には答えが出せない。

 それは佐藤が言った通り、常識では測れない命題だ。

 だが、もう止める気はない。

「そうなんだ……2人とも、やっと解放されたんだね……」

 それでも、聞かずにはいられなかった。

「彼女たち……生き続ける道は考えられなかったのか?」

「考えるには、疲れすぎてたんだと思うよ。ただただ疲れて、食べる事にも息をすることにも疲れて、眠ったままこの世界から消え去ってしまいたかった……そんな子ばかりだったから」

「そうなんだな……俺には、凪は責められない。だが、一つ、確かめたいことがある」

「何?」

「お前、チャイナタウンに出入りしたか?」

 凪は、あっさりと答えた。

「うん。遥さんにお使い頼まれて」

「学校の制服で?」

「何で知ってるの? どうして制服なんですか、って聞いたんだけど、『凪ちゃんはアニメキャラみたいで、その方が可愛いから』って言われて……」

「怖い目には合わなかったか?」

「平気だよ。フィギュアとかの荷物を何度か届けに行っただけだから。行くたびに中華をご馳走してもらったし」

 沖はようやく納得した。

 遥の〝第2の人格〟は、そうして周囲に目撃者を作ってアニメショップから沖を誘導していったのだ。沖が遥の存在を知る前から、目撃者として引き込むことを決め、着々と布石を打っていたのだ。

 そして、沖は最も大事な質問をした。

「凪……お前は……まだ、死にたいのか?」

 凪が答えるまでに、わずかな間があった。

「分からない……。でも、遥さんから『生きなさい』って言われたから……もう少し考えなくちゃね……」

「あの子は、そんなことを言ったのか……」

「まだ本当の両親が生きていて、凪のために一生懸命になってくれるんだから、って……」

「母さんは嫌いか?」

「今は会いたくない」

「だったら、そう伝える。安心して、ここにいろ」

「ねえ……遥さんはどうなるの? 死んでしまっても、やっぱり人殺しって罵られるの?」

「それはない。今度の事件は、お前がやったことも含めて、誰にも知られることはない。だからお前も、誰にも言うな。誰にも、だ」

「それって……佐藤って人がやってくれたの?」

「佐藤に会ったのか?」

「しばらくネットカフェで暮らしてたんだけど、尋ねてきた。『何も公言しないと約束できるなら、父さんのところに帰れるようにする』って」

 沖は歪んだ笑みを浮かべた。

「あいつが恩人だった、ってことなんだな……」

 凪が、不安げに問う。

「父さん……あたしがしたこと、全部知ってる?」

 沖はまた嘘をついた。

「知らない。知る必要もない。お前が生きているだけでいい。だから、何も気にするな。全部呑み込んで、静かに生き続けよう」

「いいの、それで?」

「それが、いいんだ。今度のことで、被害者はいない。遥さんは解放者で、死んだ娘たちは望んで解放された。彼女たちには、俺のような父親もいなかった。それだけのことだ。誰も、傷ついてはいない」

 それも、嘘だ。だが嘘は、生き続ける支えにもなる。

「いいのかな……あたしだけ……」

「だが……」

「だが?」

「お前がその重さに耐えられなくなった時は、必ず俺に話してくれ。絶対に1人で抱え込むな。2人一緒なら、きっと何とかなるから……」

 凪がうなずく。

「あたしには、父さんがいたんだものね……忘れてただなんて、あたし、バカみたい……」

 沖はベッドから立ち上がり、再び凪を抱きしめた。

「お前は、俺が必ず守り抜く。だから、ここにいてくれ」

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