22・沖信彦

 明け方。

 木箱は、軽トラックの荷台に乗せられてチャイナタウンを出発した。荷台は幌で覆われたが、背の高い木箱は遠目でも明らかにそれと分かる。しかも、中身を壊さないように注意しているのか、異様に遅い速度で走り続けた。

 レンタカーで追尾する沖にとっては、簡単な尾行だった。

 そして木箱は、とあるマンションの前に着いた。

 沖は、仲介業者に受け渡す恐れも大きいと予測していた。あえて輸送経路を複雑にするのは、非合法の荷物の出発地を隠すための常套手段だからだ。だが、そのマンションは全て一般住宅のようだ。

 そこが、目的地だとしか考えにくい。

 だが、こんな早朝に荷物を届けるのは不自然だ。考えられるのは、人目に触れさせたくない品物を先方との打ち合わせのもとに運び込むという場合だ。これまでもそうやって届けていたのなら、今回もルーティン通りだということになる。

 それでも、沖の不安は高まる一方だった。

 罠かもしれない……。

 警戒心が首をもたげる。

 クリーニング工場の中まで侵入した〝何者か〟を引き摺り出して〝無力化〟するために、あえて追跡しやすくしているのかもしれない。だが、周囲に追尾を監視しているらしい人物は見えない。夜が明けたばかりの住宅街だから、まだ通行人もいない。〝敵〟が潜んでいるなら、見逃す可能性は少なかった。

 建物の中から監視しているのなら、マンションの中まで誘い込んでから処分しようというのか……。

 次第に、自分が誘導されているという危惧が高まっていく。

 道路に停めた軽トラックから2人の中国人が降りる。何かを言い合いながら、荷台から下ろした木箱を台車に載せる。彼らからは、尾行や監視に対する警戒は全く感じられない。そして1人は、車を移動するために去って行く。

 まるで、『襲うなら今だぞ』と言わんばかりに……。

 彼らを目で追いながらも、沖は一方で遥に連絡を取ろうと躍起になっていた。追跡中も、『高橋に追われた』という遥の状況が気になっていた。

 凪の行方は掴まなければならないが、そのために遥を犠牲にはできない。今は、遥を守ることが先決だ。一刻も早く安全を確認したい。

 だが、スマホは繋がらない。必ずバッテリーを充電して電源入れ、サイレントモードにしておくように厳命していたのに、一向に反応がない。

 振動に気づかないのか、出られる状況にないのだ。

 沖の動悸が高まる。

 沖は『iPhoneを探す』アプリを起動して、遥のスマホの場所を探った。表示されたのは、思いもしない場所だった。

 思わず声が出る。

「何だと⁉」

 マークが付いたのは、目の前のマンションだった。遥のiPhoneは、今まさにこのマンションの中にあるのだ。

 沖は慌てて盗聴器の受信機を取り出した。マンションの壁に阻まれて受信できる保証はなかったが、試さないわけにはいかない。

 イヤホンをはめてスイッチを入れると、大きなノイズに混じったかすかな声が聞こえた。

『……すぐに4人揃う。君が、最後の戦士――サクラになれる日がどんどん近づいているんだよ』

『何で……こんなことをするの……?』

 答えたのは遥だ。キーホルダーに偽装した盗聴器が拾った声だ。恐怖に震えているようだ。

 沖は金属バットで殴打されたような衝撃を受けた。

 とんでもないミスを犯したのだ。

 遥は、捕らえられてしまったのだ。

 遥は木箱の届け先にいる。それ以外の偶然など、起きるはずがない。

 しかもそこには、高橋がいる。コンビニで高橋が受け取ったコスチュームも、そこにある。

 その全てが、この場所で結びつこうとしている……。

 破局に向かって……。

 遥を守れないかもしれない……。

 沖は一瞬で決断した。

 車を飛び出してマンションに走る。エントランスに人影はない。

 中国人は、1人で台車を押してインターホンに近づいている。その背後に駆け寄って、振り返った相手の首筋に手刀を叩き込む。MCMAP(Marine Corps Martial Arts Program)と呼ばれるアメリカ海兵隊の格闘技プログラムの方法だ。技が決まれば相手を気絶させられる。だが、沖の技術は到底完璧とはいえない。

 中国人はわずかによろめいただけで、凶暴な視線を沖に向けて何かを叫んだ。

 沖はためらわず、その顔面に思い切り拳を叩き込んだ。

 今度は、相手は倒れた。

 瞬間的に筋肉を緊張させたために、身体中の傷が一斉に悲鳴を上げる。チャイナタウンで殴られた傷は、まだ完全には回復していないのだ。だが、もはや気にしてはいられない。

 周囲の気配を探る。

 公共のスペースだから誰が現れてもおかしくはない。幸い管理人は常駐していないようで、騒ぎに気付いて駆けつける者はいない。だが、監視カメラは当然稼働しているだろう。警備会社が駆けつけるまでにそれほど時間はかからないはずだ。

 沖は中国人を物陰に引きずり込んで、作業着の上着を脱がした。帽子も奪って上着を着る。木箱に書かれた届け先の部屋番号を確認し、インターホンを押す。

 普通なら、宅配業者が訪れて許される時間ではない。配達を了解していないなら、罵声が返ってくるはずだ。

 相手の男が出る。息が荒いのがマイク越しにもはっきりと感じられた。

 沖は呼吸を整えてから言った。

「お荷物をお持ちしました。大きな木箱です。これから上がりたいんですが、ロックを開けていただけますか?」

 途端に相手の声は明るくなった。高橋はこの木箱を待ち構えていたのだ。

 エントランスのロックが解除され、沖はガラス戸をくぐってエレベーターへ向かった。

 エレベーターを降りると、302号の前に男が立っていた。高橋翔太だ。

 高橋は沖に、木箱を部屋に入れるように命じた。

 中には必ず遥がいる。おそらくは、凪の行方を掴む手がかりもある。沖にとっては願ってもない状況だ。

 これが、罠でないのなら……。

 どちらにしても、進むしかない。

 沖は高橋の指示に従って玄関に入った。さらに木箱を台車ごと廊下に上げる。

 力を込めると、また全身に痛みが走る。

 同時に、素早く計算していた。

 おそらく格闘とは無縁の高橋が相手なら、もみ合いになっても勝算はある。たとえ相手が武器を持っていても、ナイフぐらいなら致命傷を避ける程度の受け身は可能だ。

 背後で高橋が扉を閉めて、言った。

「ありがとう、沖さん。でもダメだよ、遥ちゃんに付きまとっちゃ」

 振り返ると同時に、沖の首筋に激しい痛みが走り抜けた。

 沖は振り返ったまま、その場にしゃがみ込む。

 高橋がスタンガンを持っているのが目に入る。奪って、遥を救出しなくてはならない。

 だが、腕は上がらなかった。立ち上がることもできない。意識はあっても、体が硬直して動かない。

 スタンガンの高電圧が神経の作用を一瞬麻痺させた結果だ。

 予測していなかった武器が、油断を招いた。

 おそらくは、数10秒間はこのまま動けない。

 高橋は素早く動いた。ポケットからプラスティックの結束バンドを取り出す。沖の体の向きを変え、腕を後ろに回して結束バンドで縛り付ける。緩んだり抜けたりしないように、何重にも縛り付けていた。

 その間、沖は抵抗することもできなかった。

 高橋は木箱を押しながら廊下を進み、奥の部屋に入って行く。玄関に戻った高橋は、今度は自転車用のロックチェーンをぶら下げていた。

 沖に命じる。

「立って。もう、立てるよね?」

 ようやく足に力が戻ってきた沖は、ゆっくり立ち上がった。

 ここで抵抗すべきかを、再び計算する。

 腕は後ろ手に縛られている。体当たりは可能だが、高橋を確実に倒せる確信はない。高橋が持つ武器がこれで全てだという保証もない。

 何より高橋は、沖がここにくることを予測して準備を整えていた。当然、抵抗されることも計算に入れ、それを防ぐ手段も準備しているだろう。

 下手に抵抗すれば、遥に危険が及ぶ可能性もある。

 手を縛った結束バンドを外す方法があるとしても、その間、高橋の攻撃を防ぐ方法は思い浮かばなかった。

 今は高橋の指示に従って様子を見るしかない――それが結論だった。

 高橋は言った。

「こっちに来て」

 あえて大げさによろめきながら、廊下の奥へ進む。高橋には、少しでも油断していてほしかった。明るい陽が差し込むダイニングに入る。

 高橋は沖の背後に回った。沖の首筋に、再びスタンガンの衝撃が走る。

 高橋は抵抗を封じた沖の腕にロックチェーンを通した。そして、壁際に引きずって行く。壁の引き戸を開く。薄暗い〝フィギュアの部屋〟だ。

 沖の意識は万全ではなかった。目の焦点も合わず、暗い部屋の中に何があるのかもはっきり見えない。

 高橋は沖を部屋に押し込み、ロックチェーンを何かに固定した。部屋の壁にビス留めされた手すりのようだ。そして、照明を点ける。

 沖は、その部屋の異様さに悪寒を覚えた。

 奥の壁際にステージのような段差が付けられている。その上に、3体の大きな〝人形〟が飾られていた。フェアリーコンバットの〝等身大フィギュア〟だ。

 沖にはそれがプラスティネーションを施された〝死体〟であることが分かっていた。その顔を凝視する。

 そして、安堵のため息を漏らした。

 凪は、いない。

 最も恐れていた状況は、今のところ避けられている。

 と、ステージの前で何かが動いた。毛布の塊だ。

 高橋がそこに歩み寄る。

「遥ちゃんはここにいるよ。あんたがどんなに邪魔しても、遥ちゃんと僕の愛は断ち切れないんだから」

 高橋が毛布を剥ぎ取る。

 そこには、全裸でスキンヘッドの遥が怯えて身を縮めていた。

 遥が沖を見つめてつぶやく。

「沖さん……」

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