19・小田切遥

 遥はとりあえず何度も通って勝手を知っているネットカフェに駆け込んで、個室で身を縮めていた。両手で握りしめたスマホの真っ黒な画面をじっと見つめている。沖がチャイナタウンに決死の潜入を行なっているはずの時間だ。こちらから連絡することは絶対にできない。

 耐えるしかないのだ。

 そして、スマホが無音で震える。

「あ!」

 思わず落としそうになったスマホを握り直して通話に出た。

 沖が言う。

『遥さん、何かありましたか⁉』

 遥の息遣いの荒さから危機を感じ取ったようだ。

 遥は一度大きく深呼吸してから答えた。声を抑えるのに苦心する。

「やっぱり高橋さんでした。家に侵入してきました」

『何ですって⁉ 大丈夫ですか⁉』

「貰ったバットで脅かして、何とか逃げました」

『怪我は⁉』

「何もありません。今、近くのネカフェに隠れています」

 遥は場所と個室の番号を教えた。

『そこ、他の人もいますよね? 店のスタッフとか、お客さんとか。絶対に外には出ないでください。出来るだけ個室で静かにしていてください。万が一、奴が店に入ってきて襲われたら、なるべく大声を出して。火事でも痴漢でも何でもいいですから、とにかく大騒ぎして人を集めてください』

 遥の声に不安がにじむ。

「こちらには来られませんか……?」

 沖の返事も声を落としていたが、苦しげな気持ちが隠せない。

『すぐ行ってあげたいけど、こっちも手が離せないんです。今日、何らかの取引が行われるようなんです。ヤバそうな荷物が発送の準備を終えています。昼間は普通の業務があるでしょうから、犯罪絡みの作業は夜のうちに済ませると思うんです。すぐに運び出されるかもしれないから、監視していないと……』

 遥は声をひそめながらも、思わず答えていた。

「仕方ないです。凪ちゃんのことが先ですから……。やっぱり、チャイナタウンに行ったんですか? 何か見つけたんですか?」

 沖が、クリーニング工場の地下で見た状況を簡単に説明する。それでも、遥には思い当たることがあるようだった。

 遥が尋ねる。

「そこ……どんな臭いがしていました?」

『臭い? ひどいものですよ。シンナーみたいな。もともと、クリーニングの薬品がいっぱいですから』

「それ、きっと……」

 遥が語尾を曖昧にする。

『何でしょう?』

「あの……凪ちゃんのことがあるから、言いにくいんですけど……」

『何か思い当たることがあるんですね? どんなことでもいいです、教えてください』

「でも……」

 沖はきっぱりと言った。

『凪のことがあるからこそ、知らなきゃならないんです。どんなことでも』

 遥も小さくうなずく。

「それ……多分、プラスティネーションっていうやつじゃないかと思うんです……」

『プラスティネーション?』

「生き物の水分を樹脂に置き換えて永久保存できるようにする技術です。完成すると、見た目は生きてる時と変わらないし、匂いもないし、常温で保管してても腐りません。手触りや柔らかさもそれなりに残す方法もあるって……」

 電話の向こうで、沖が息を呑むのが分かる。

『そんなこと、できるんですか?』

「ホルマリンとかアセトンとか、いろんな薬品を使うみたいですから、簡単じゃないと思います。でも、可能です」

『死体を丸ごと?』

「ほら、中国主催のイベントの『人体の不思議展』とかの標本、そうやって作ってるはずですけど。アニメでも出てきたこと、あります――」

 かつて日本でも『人体の不思議展』が開催され、人間の死体を輪切りにしたり、ポーズを取らせたりした標本が展示された。それらは従来は一般には見ることができなかった標本で、本物の人間の死体を素材にしていた。倫理的な批判は多かったが、中国本土では死体ビジネス自体が珍しいことではない。

 政治犯や宗教団体員から内臓を抜く〝臓器狩り〟、あるいは幼児を誘拐したり孤児を売りさばくことなどは、むしろ〝ありふれた犯罪〟だ。共産党幹部の関係者が〝死体加工工場〟を経営して膨大な利益を上げているとリークした関係者もいた。

 中国や発展途上国に限らず、欧米先進国などでも人身売買は密かに行われている。〝奴隷商人〟という職業は、21世紀になってもアンダーグラウンドの定番なのだ。

 沖にもその程度の知識はある。

『あ、あれか……。でも、中国国内でなら共産党の好きなようにできるとしても、日本じゃそんな設備は作れないんじゃないですか?』

「設備っていっても、多分沖さんが見た薬品槽とかだけで、温度管理ができれば充分じゃないかしら。臭いは相当きついでしょうから、それさえごまかせれば――」

『確かに、クリーニング工場なら、臭いの問題はクリアできそうですね……。っていうか、こんな場所じゃなければ無理だな……』

「でも、どうして都会のど真ん中にそんなものを……? そもそも、なんでそんな工場が必要なんですか?」

『確証があるわけじゃありませんけどね。でも、人体を加工していると仮定するなら、理屈は通ります』

「はい?」

『死体から臓器を取り出すとかの実用目的なら、そんな工程は不必要です。あくまでも標本とか観賞用だから、わざわざ手間をかけるんです。体のパーツの標本を作ったところで大きな需要があるとも思えないし、薬品槽のサイズから考えれば全身を加工しているんでしょう』

「だとしたら……?」

『観賞用、つまり〝人形〟として売っているんじゃないでしょうか。あなたが受注した衣装は、多分その〝人形〟に着せるためだと……』

「うそ……。でも、誰が買うんですか、そんなもの⁉」

 沖の声は暗い。

『人間は、品行方正な善人ばかりじゃない。幼児や死体の愛好家とか、犯罪とは言い切れなくても後ろ暗い趣味を持つ者も多い。あれこれストレスを抱える権力者や富豪にも、それは当てはまります。つい最近も、欧米の聖職者の間での幼児への性的虐待が大問題になっていました。彼らが、〝死体の人形〟に大金を支払っているとしても、私は驚きません。需要は、確実にあると思いますよ。しかも、供給数は多くないでしょうから高額な商品になるでしょう。でなければ、利害に聡いチャイニーズマフィアが手を出すとも思えない……』

「だとしても、日本は警察が優秀だし、法律は厳しいじゃないですか。危険じゃないですか? なんでわざわざこんな国で……?」

『それに見合う利益があるんでしょう。多分、日本人の人気が高いんです。さっき、アニメにも出てきたって言ってましたよね。アニメは世界中で大人気ですから。日本人じゃなければ嫌だっていうコレクターがいてもおかしくはありません』

「だからって、東京でなんて……」

 沖の声は、語るうちに暗さを増していく。

『だからこそ、東京なんでしょう。死体は、死後2、3時間で硬直を始めます。新鮮なうちじゃないと、関節も動かしにくくなります。人形なら、様々なポーズを取らせたいですからね。しかも、時間が経って色とかがくすんでいたら商品価値が落ちると思います。だから、なるべく死体を手に入れる場所と加工場は近い方がいい。死体を手に入れるには、人が溢れている東京の方が目立たない……。消えても誰も気にしない人たちが暮らしていることも事実なんです』

「そんな……」

『そのクリーニング工場は、チャイナタウンに囲まれた治外法権みたいな地区にあります。格好の物件を手に入れられたから始めたビジネスなんでしょうね』

「人の命を、ビジネスだなんて……」

『そう考えるのは、日本人だけかもしれません。多くの国で、権力者は平気で他人を殺します。殺した数が多いほど力があるんだと誇示する文化さえあります。人権だとか平等だとか、ポリコレは都合よく使われていますけど、ほとんどは偽善ですから。中国じゃ、チベットとかウイグルとか、〝民族浄化〟っていう言葉で虐殺が繰り返されているそうです。ナチスと一緒ですよ。そんな感性の中国人なら、死体の扱いに感傷なんて持ち込まないでしょうし……』

 最後は、涙を堪えているかのようにも思えた。

「そんな……。わたし……そんな犯罪に加担していたんでしょうか……?」

『遥さんは自分のビジネスの注文を受けただけです。責任は、発注した側にあります。気に病む必要はありません』

「でも……」

 沖は、話を変えようとするように言った。

『日本でも今までその、プラ……」

「プラスティネーションです」

『それをやっている工場とか企業とか、あるんでしょうか?』

「わたしはは知りません。でも、動物標本なんかなら博物館とか動物園にあるって聞いたことはあります。だったら、標本制作ぐらいはできる会社があるのかも……」

 遥は、沖があえて冷静さを装おうとしているのではないかと疑った。

 沖が念を押す。

『改めてお伺いします。そのプラスティネーション、人体にもできるんですね?』

「専門家じゃありませんから、詳しいことは分かりません。でも、展覧会とかに標本として実際に展示されています。人間を加工するには、時間は相当かかると思いますけど……」

『どれぐらい?』

「さあ、それも分かりません。昔、少しだけ小耳に挟んだだけですから、はっきりしたことは……。でも、大型動物なら数ヶ月はかかると思いますよ」

『昔? いつ頃の話ですか?』

「アニメで見て、気になってネットで調べたんで……。あのアニメ、5年以上前だと思いますけど……」

『そんなに以前ですか。それじゃ、技術が進歩している可能性はありますね。調べてみます』

「あの……今、何を見張っているんですか?」

 沖がさらに声をひそめる。

『さっき話した荷物、出荷間近らしい木箱なんです。少女が入れそうなぐらいの大きさがあります。その行き先を確かめます』

 遥は反射的に声を出していた。

「まさか、凪ちゃん⁉ あ、その……」

 言ってしまってから、まずい発言だったと語尾を呑み込む。

 だが、沖の反応は冷静だ。もう、感情を露呈してはいない。

『その可能性はあります。姿を消してからもう2ヶ月近く経ちますから。だからこそ、確かめる必要があるんです』

 その声には、揺るがない決意が滲み出していた。


     ✳︎


 高橋はネットカフェの玄関が見える場所で、電柱の陰に身を潜めていた。

 待つのはつらくない。

 期待に胸を弾ませる時間が、その分、長くなるのだから。

 ネットカフェを見つめながら、ボソボソと口の中でつぶやく。

「だめだよ、遥ちゃん……どうせ、そこしか行くところがないんでしょう……? 電波からは逃げられないんだから……僕と遥ちゃんは、永遠に繋がってるんだから……」

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