18・沖信彦

 深夜2時。

 チャイナタウンは眠らない。だがそれは、外周に面した飲食店やホテルの話だ。多くの従業員や不法滞在で働いている同国人を呑み込んだビルの上層階では、さすがに物音が絶えている。

 1日の作業を終えたクリーニング工場もまた、暗く静まり返っていた。数少ない常夜灯だけでは、内部を見渡すことはできない。

 沖は、気配を消して身を隠すことに長けている。クリーニング工場の通用口の古びた鍵を外して潜入することは難しくなかった。

 工場に入ると沖は黒いリュックからサバイバルゲーム用のナイトビジョン単眼鏡を取り出す。軍用の赤外線暗視装置第一世代型の廉価版で、通販で誰でも買える玩具に近い品だ。それでも、実用上は問題がない。スイッチを入れて覗き込むと室内の様子がくっきり浮かび上がる。全体に緑がかった単色の映像だ。

 工場の中には洗剤と揮発溶剤が入り混じった匂いが漂っていたが、整頓はされていた。片側には大型の洗濯機や乾燥機の円形の蓋がずらりと列をなしている。狭い通路の片側には業務用のアイロン台やプレス台が並び、さらにその横には洗濯を終えたリネンが重ねられ、天井から下がったレールには無数のハンガーにかけられた衣料品がぎっしりと詰められている。

 見た所、沖がイメージしていた工場と相違はない。特に異常だと思われる点はない。だが、業務を終えていても溶剤の匂いは簡単には消えない。例えば異臭を発する覚醒剤の合成などを行なうなら、カムフラージュには最適の環境だとも言える。とはいえ、昼間は表看板のビジネスを行なっているのだから、従業員の数も半端ではないだろう。その全員に隠れてここで違法行為を行うのは、不自然だ。

 だとすれば〝死体の処理〟を行なっているのは別のフロアだろう。秘匿性を優先させるなら、おそらく地下だ。

 沖は地下へ降りられそうなドアを探した。奥の壁際にそれらしい鉄の扉があった。鍵はかかっていない。

 沖は暗視装置をポケットに入れ、わずかにきしむドアを開いて中に入った。

 暗視装置が不要な程度の常夜灯の明かりはあった。内部を観察する。予測した通り、階段の踊り場だった。下りの階段もある。沖はためらわずに、下へ向った。

 1階分降りると、同じような鉄の扉がある。やはり鍵はかかっていない。扉をわずかに開くと、今度は明かりが溢れている。中で何らかの作業が行われているらしい。

 沖は片目を閉じた。不意に照明を消された場合、素早く暗闇に慣れるためだ。もはや未知の〝敵地〟の中心部にある。いつ、どこから襲われるか予断を許さない。すぐに暗視装置を使えるとは限らないのだ。

 ゆっくりと中に入っていく。揮発性の溶剤の臭いもきつくなる。大型の換気扇が動いているのか、虫の羽音のような唸りも絶え間なく聞こえる。

 気配に注意しながら進む。と、奥から微かな中国語が聞こえてきた。

 通路には組み立て前の木箱が大量に立てかけられていた。沖はその陰に隠れ、息をひそめた。

 聞こえてくる中国語は微かで、早口で聞き取りにくい。やはり東北地方の方言のようだ。分かったのは、いくつかの単語だけだった。

〝次が来る〟〝準備〟〝危ない〟〝急げ〟〝発送〟――

 それでも、夜間に行われている作業が非合法なものであることは予測できる。〝死体の処理〟が何を意味するものであれ、ここが〝処理の現場〟であることはほぼ確実だ。処理に伴う臭気を隠すために、クリーニング工場の地下を選んだのだろう。

 そして、出来上がった〝製品〟を送り出そうとしているようだ。木箱は、出荷のために必要なのだろう。

 足音が近づいて来る。中国人は2人らしい。

 沖はさらに物陰に身を潜めた。

 その近くを中国人たちが歩き去っていく。ドアを閉じる音はしたが、鍵はかけていないようだ。すぐに戻って来るのかもしれない。

 だが、照明は消された。薄暗い常夜灯だけが残る。閉じていた目を開く。

 物音が消えてから約5分、沖はそのままじっとしていた。次第に暗さに目が馴染んでくる。中国人が戻る気配はない。地下のドアには鍵をかけない習慣になっていたらしい。

 木箱の陰から出て奥に進む。

 中央の通路の両脇には、金属製の大きな箱が並んでいる。高さは沖の胸のあたりまである。箱の数は6個で、重そうな金属製の蓋で閉じられている。まるで、巨大な浴槽だ。蓋は一か所の角だけがボルトで止められていて、そこを支点にして回転できる構造のようだ。それぞれの辺にロックするレバーが付けられている。

 沖はロックを外し、蓋の一つを引いてわずかに中を覗けるようにした。途端に、強烈な溶剤の臭気が吹き出す。アセトンだ。思わずむせる。息を止めて匂いをこらえながら、小型の懐中電灯で中を照らしてみる。

 金属の箱は、アセトンを満たした水槽だった。溶液の中には何も入っていない。蓋を戻して先に進む。

 全部の水槽の中身を確かめたかったが、いつ作業員が戻るか分からない。まずは、地下の全体像を調べることを優先させた。

 一番奥の水槽の傍に置かれたテーブルの上に、それはあった。

「おい……」

 沖は思わず声をあげてしまった。

 高さ30センチほどの美少女フィギュアだ。ここ何日かで嫌というほど画像を見る羽目になった、コンバット・サクラ――。

 一目で高橋のベッドサイドから持ち出されたものだと直感した。

 だが、薄汚れたガラスケースに入っている。高橋の部屋での神経質なまでの扱いとは全く違う。扱う者の感性によって、同じフィギュアでもこれほど価値が変わるのだ。

 ガラスカバーを外し、フィギュアを持ち上げて台座の下をライトで照らす。

 やはり、製作者のサインがあった。

 確実に高橋のレアコレクションの中の一点だ。これで、チャイナタウンと高橋は確実につながった。あとは、ここでどんな作業が行われていたかを探り出せばいい。

 全部の水槽を開ける必要がある。時間がかかるだろう。まずは、退路を確保しておかなければならない。

 さらに周囲を調べる。他にはステンレスの作業台のような場所や、細いロープや金属のポールなどの園芸用品のような資材が大量に保管されている。材料を見るだけでは、どんな作業が行われているかは予測できない。出入り口は、入ってきた階段の他には荷物運搬用のエレベーターがあるだけだ。

 エレベーターの脇には、組み立てられた木箱があった。押してみる。ずっしりとした質量を感じた。中身を詰められ、梱包を終えている品だろう。さっきの2人組はその作業をしていたのかもしれない。

 時間が許せば、中身を確認したい。

 だが今は、脱出の手段を確保しておくのが先だ。

 沖は一番奥の突き当たりに、あらかじめ用意してきたブルートゥーススピーカーを置いてスイッチを入れた。胸ポケットに入れたスマホと連動させる。

 まず水槽からじっくり調べようとした瞬間、不意に照明が点けられた。フロアが、明るい光で満たさせる。慌てて片目を瞑る。

 同時に、階段の扉が開いて声がした。たどたどしいが、日本語だ。

「誰か、いるか⁉ 泥棒か⁉ 出てこい!」

 侵入を悟られたようだった。

 沖はすぐさま脱出にかかった。身をかがめ、相手の気配に神経を集中する。

 人数は4、5人らしい。戦うのは不利だ。

 1人が金属棒のようなもので水槽を叩いて叫ぶ。

「出てこい!」

 数人が一団になって中央の通路を進んで来る。1人は扉の前で退路を絶っているはずだ。

 沖は身を隠しながら壁際を移動し、階段に回り込む。

 やはり、扉の前に1人いるのが見えた。

 スマホを操作する。

 フロアの奥で、スピーカーが作動した。〝沖の声〟が叫ぶ。

『よせ! 今出て行く!』

 一斉に声がした方へ突進して行く。扉の前の男も奥に走っていく。

 その間に沖は、素早く扉を走り抜けていた。階段を塞がれているのではないかと危惧していたが、妨害はなかった。

 入ってきた経路を逆に辿って、チャイナタウンを脱出する。

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