10・沖信彦

 玄関で沖の姿を見るなり、遥は驚きの声を上げた。

「その顔……」

 沖の右顔面はまだ相当腫れていた。中国人たちは顔を避けて殴っていたようだが、それでも何発かは顎を直撃していたのだ。

 沖は、恥ずかしそうに言った。

「ちょっと、トラブルに巻き込まれてしまって。もっと早く来るつもりだったんですけど……。あっちこっちに話を聞きまわっていたんで、嫌われたんでしょう」

 実際は、起き上がれなかったのだ。丸2日近くベッドで横になっていた。

 無理をすれば動けないことはなかったが、チャイニーズマフィアらしき組織が絡んでいるとなると体調を万全にしておかなければ充分な対処はできない。まして顔面に大アザを作っていては、会う人間を警戒させてしまう。探偵にとって、警戒心を抱かれることがもっと大きな失敗なのだ。

 気は焦っている。だが、焦りが足を掬うことがあることも身をもって知っている。遥からの情報がなければ、せめて腫れが完全に引くまでは休まなければならないと思っていた。それでも、連絡を受けた昨夜よりは大分体調は良くなっている。

 遥は沖を仕事場に招き入れ、ソファーに座った。

「警察には言ったんですか……?」

 沖は、全身の痣を見たらかなりのショックを受けるだろうなと思いながら軽く首を横に振った。それだけでも肩から胸にかけて鈍い痛みが走る。

 だが、ポーカーフェイスは探偵の基礎能力だ。

「まさか。私がしつこすぎたからいけないんです」

 腰を下ろすと、さらに骨が軋む。

 反撃や闘争も不可能ではなかったが、〝アウェー〟で騒ぎを拡大することは避けたかったのだ。危険視されれば、せっかく掴んだ手がかりも無駄になる。

 可能な限り受け身で打撃をそらしたが、何しろ相手の数が多かった。充分に体を鍛えていなければ、まだ動ける状態ではなかったはずだ。

 精一杯平静を装ってはいたが、遥には察知されたようだった。

「そんなにしてまで……」

「娘のことですから」

「どこで殴られたんですか?」

「『アニフレンド』の近くのチャイナタウンで家出娘を見かけたっていう噂を聞いたんです。で、しばらく情報を集めていたんですけど……中国人に囲まれちゃいました」

「怖い……」

 遥の目には言葉通りに恐怖が浮かんでいた。

「確かに。表向きは無害な観光地みたいなもんですけど、ちょっと奥に入るとね……」

 不法移民やマフィアの巣窟になっているとまでは言えなかった。

「『アニフレンド』も調べたんですか?」

「他にめぼしい情報はありませんでした。かすかな望みでも調べないわけにはいきませんのでね」

「でも、凪ちゃんは何だってチャイナタウンとか、そんな物騒な場所に?」

「制服姿を見られたのは後ろからだけで、確証なんてありません。見間違えかもしれないし、別人だっていう可能性の方がはるかに高いと思います。他に手がかりもないもので、仕方なくそこから足取りをたどったんですけど……」

「でも沖さん、何でそんな調査ができるんですか? 普通の人だったら、警察に任せきりにするでしょう? しかもそんな怖い所に、1人で……?」

「はっきりした事件性がないと、警察は動きづらいんです。催促はしてるんですが、何も連絡がないもので……」

「だからって、素人がそんなに危ないことを……」

 沖は即座に計算を始めた。

 小田切遥が凪を匿っているという可能性は、ひとまず排除している。凪が身を隠しているとすれば、チャイナタウンの方が疑いが濃い。だが一方で、遥はかなり重要な手がかりを握っているとも直感していた。遥自身は意識していなくても、凪と交わした言葉のどこかに捜索の鍵が隠されている可能性があるのだ。少なくとも、メールのやり取りをする程度の繋がりはあったのだから。

 それを発見するために、もっと真剣に記憶を掘り起こしてもらいたい。積極的に協力して欲しい。

 これまで沖は、姿を消した娘を探す気弱な父親を演じていた。その上、チャイナタウンで危険な事態に陥ったと打ち明けた。隠しようがない傷を負っている以上、『階段を踏み外した』では信用されないし、嘘がバレれば信頼を失う。遥は『素人の無謀な捜査に巻き込まれたくない』と逃げ腰になるかもしれない。遥が身を守るために沖から距離を置こうとすれば、気づかないでいる手がかりあったとしても埋もれさせてしまう。

 遥から記憶の細部を引き出すには、自分が情報を有効に活かせるスキルを持っていることを証明しておいた方がいいとも言える。

 父親であると同時に、職業が探偵であることを明かした方が協力を得やすいのではないか――。

 答えはすぐに出た。

 沖は言った。

「黙っていて申し訳ありませんでしたが、実は私、素人じゃないんです。職業は探偵です」

 遥はしばらく目を丸くしてから、言った。

「探偵……ですか? あの、コナンの毛利小五郎みたいな?」

 沖は思わず小さく吹き出した。

「まあ、そうだとも言えますけど、現実はコミックとは別物です。殺人事件に関わったことなんてありませんし、警察から捜査を依頼されることもありません。中には張り込みなんかの調査協力に駆り出される同業者もいますけどね。警察にとって探偵なんて、邪魔で目障りな寄生虫みたいなもんですから。特に私は、1人親方の零細業者ですから。まあ、知り合いの刑事がいないわけじゃありませんが」

 遥は興味を持ったのか、わずかに身を乗り出す。

「探偵のお仕事って、どんなことしてるんですか?」

「大半は浮気の調査か、人探しですよ。ですから、身分を隠したりしながらこっそり探し物をするのが日常なんです。尾行やら張り込みやら、地味な仕事です。権力の後ろ盾がある警察と違って、手帳を出しておおっぴらに情報を求めるわけにもいきませんからね。しかも、調査していることを知られちゃまずいことがほとんどですから」

「なのに殴られちゃったんですか?」

「今回は判断を誤ったかもしれません。娘を探す父親っていう素の姿を見せていたんです。チャイナタウンの情報網をあなどっていました。でも、大怪我はしないように鍛えてはいますからね。収穫もありましたし」

「凪ちゃんの居所、分かったんですか⁉」

「そこまでは、無理です。ただ、あの地域が何らかの犯罪の拠点になってるのは間違いないようです。かなりヤバいです。凪が巻き込まれているとするなら、一刻も早く助け出さないと」

 遥の表情も真剣さを増す。

「そうですね。でも……」

 沖は先回りして言った。

「あなたに危険が及ぶようなことはお願いしませんから」

「そうじゃなくて、それこそ探偵のお仲間とか、警察の手を借りた方が安全なんじゃないですか?」

 それは真っ先に手を打った。今も気にかけてくれている仲間も多い。だが、彼らにも仕事がある。多くは望めない。

 だが沖も、凪の身に危険があることが証明できれば再度警察を動かすことに躊躇する気はない。

 今のところ、チャイナタウンに凪がいるという確証は何一つないのだ。彼らが怒ったのは沖がしつこかったからであって、犯罪の証拠にはならない。沖が聞いた〝死体の処理〟という言葉も、何を意味しているかははっきりしない。しかも聞いたのは沖1人だけだ。警察から『聞き違いじゃないか』と追及されれば、それを跳ね返すほどの中国語の実力は持ち合わせていない。

 何より警察は、中国人が囲い込んだ地域には入りたがらない。そもそも彼らの言葉が理解できる警官が極端に少ないのだ。現実的に治外法権のような地区になっている最大の理由だ。

「探偵仲間っていっても、こっちは個人営業ですからね。大手から張り込みの手伝いなんかのおこぼれをもらってる立場なんです。所詮、いつでも切れる尻尾ですから、胴体を振り回す力なんてありませんよ。それに、警察がこれほど不確かな情報で動くはずもない。彼らは、事件が起きないと腰を上げないんです」

 遥が目を伏せる。

「わたしの情報も、どの程度役に立つのか……。そんな世界とは全然関係ないと思うんですけど……」

「チャイナタウンに凪がいたっていう話には、まだ何も確証が得られていません。他に手がかりらしいものがないから追いかけていただけで。ですから、あなたから話を聞ければ、それだけでありがたいと思っています」

 遥がうなずいて席を立つ。

「分かりました。ちょっと待っててください」ソファーに戻ると、手にしたMacBookを開いて沖に画面を見せる。「電話でお話ししたの、このメールなんです。おかしいなって思ったものを抜き出しておきました」

 沖はパソコンを引き寄せ、メールに見入った。

「コンバット・ローズ――ですか……」

 遥が、沖が持ってきていたブティックのロゴが入った手提げ袋を示す。

 美晴が揃えていてくれたものだ。

「それ、お願いしていた凪ちゃんの服ですか?」

 沖が画面から目を外して手提げ袋を差し出す。

「そうです。これでいいでしょうか?」

 遥が手提げ袋から出したシャツやスラックス、そしてブラジャーなどの下着類を確かめる。

「はい。でも、下着まで持ってきてくれたんですね」

「元嫁が用意してくれました」

「これで、かなり正確に体格を判断できます。ちょっとあっちで測ってきます」

 そういった遥は、作業場へ移動した。作業台に衣類を広げてメジャーで測り始める。

 その後ろ姿を見てから、沖は再びMacBookのメールを調べ始めた。

 コスプレ衣装製作依頼の文面に添えて、肩幅やそで丈などの数値が並べてある。その項目は素人目にも精密に計測したもののようで、本人にメジャーを当てて測っているとしか考えにくい。さらにメール画面をスクロールすると、『完成イメージ』と称して5枚の画像が添付してある。ベースはアニメのセル画だが、顔と手足の露出部分にだけ人体の写真が合成してある。

 遥が『凪に似ている』といった画像だ。目の周囲にだけ、わざわざモザイクをかけている。

 似ていると言われれば、確かに似ている気がする。

 沖の鼓動が早まる。

 この写真の少女が凪で、身体の細部まで計測されているなら、測ったのは誰なのか。本当に、コスプレ衣装を作る目的で測ったものなのか。

 関係があるとは断定できないと分かってはいても、中国人が口にした〝死体〟という言葉が脳裏に蘇る。

 凪は、すでに殺されているのではないか――?

 そんな、最悪の事態が浮かんでしまう。

 沖には、写真の少女が凪ではないと言い切ることができない。ここ数年、会っていないからだ。元嫁から写真は預かっていたが、それだけでは確定的な答えが出せない。

 父親失格だ。

 いや、凪が母親と家を出た時点ですでに、父親ではないと拒否されていたのだ。それだけに余計に、早く居場所を突き止めなければという思いが高まった。

 と、一枚のアニメ画像の背景に目が止まった。何か、不自然さを感じる。何体かの人物が書き込まれているが、カメラの広角レンズを通したように歪んで見えたのだ。

 沖は背中を向けている遥に尋ねた。

「添付されているアニメの元画像って、分かりますか?」

 遥は振り返らないまま答えた。

「ネットから拾ったものだと思いますよ。コンバット・ローズで検索すると、たくさん出てきます」

 沖は言われるままにネット上から画像を探した。すぐに、合成元になった映像が見つかる。アニメ雑誌に掲載されたもののようだ。

 メールの添付画像と見比べると――。

 メールの方が微妙に変形していた。

「この画像、ちょっと見てもらえますか?」

 遥が手を止めて沖の横に立つ。

「何でしょう?」

「元のセル画が変形されてるみたいなんですが……」

 しばらく二つを見比べていた遥が、うなずく。

「確かに。これって多分、人物の画像は全身写真だったんです。セル画の方の顔や手足の露出部分を透明にして、人物にピッタリ重なるように変形したみたいですね。他の4枚も、同じように変形してますね」

「それって、写真を撮られた人物はセル画と同じポーズをとっていたってことですか?」

「ですね。人体の比率とアニメ画は当然違いますから、そうやって修正したんでしょう」

「つまり、撮影された人物は指示された通りにポーズを取ったと? 画像合成の素材になることを知っててやったんだろうか……?」

「でもその画像、角度は違いますけど全部同じポーズですよ。変身直後の決めポーズ。フェアリーコンバットは作画が丁寧で、変身カットが何種類もあるんです。手書きのテイストにこだわった作風ですけど、元は3Dデータだからそんなバリエーションも作れるんです。そこまで手をかけているから、今でも人気が衰えないんですよね。アニメ好きの子たちは、ふざけて真似たりするものです」

「元の人物の画像は再現できませんか?」

 遥は少し考え込む。

「Jpegだし、多分フォトショのレイヤーで合成してるんでしょう」

「フォトショ?」

「あ、フォトショップ。画像処理のソフトです。レイヤーっていう層をセル画みたいに重ねて、合成できるんです。ですけど、統合しちゃってますから、レイヤー情報はなくなってます。人物の全体像だけはもう抽出できませんね。今見えている内容しか、データが残っていませんから」

「無理ですか……。だとすると、まだ凪だと断定はできませんね……。このメール、転送してもらっていいですか? 元嫁にも見せて確認したいんですけど」

「個人情報ですけど、場合が場合ですから……後で送ります。それより採寸の方ですけど、そのメールの数値と矛盾するような点はありませんでした」

「凪だとしてもおかしくない――ってことですよね」

 遥はつらそうにうなずく。

「はい……凪ちゃん、誰かと一緒にいるのかも……」

「それならいいんです。相手が誰でも、生きてさえいるなら」

「生きてって……まさか?」

「その恐れがあるから怖いんです。杞憂だといいんですけど……」

 遥の表情が真剣さを増す。

「他のメールも見てください」

 遥が再び沖の横に座ってMacBookを操作する。

「他にも注文があったんでしたよね……」

「気になるものが、3通。それはすでに完成して、納品してあるんですけど」

 2人はそれらのメールを比較していった。

 沖がつぶやく。

「確かに、いろんな点で似てますね……」

「特にサンプル画像です。同じ人物が雰囲気を少しだけ変えて描いてみた、って感じがしませんか?」

「ですね。画像の合成のやり方も一緒みたいだし」

「最初がレモン、そしてミント、スミレ、最後がこのローズです。サイズが全部違ってますから、着る人物も違います。なのにバラバラに注文してくるなんて……」

「ほぼ1ヶ月置き、ですよね」

 遥が身を乗り出す。

「あ、言わなくちゃと思ってたんだ」

「何を?」

「気づいたことがあるんです。昨日の電話で言い忘れていて。このメール、1ヶ月置きじゃなくて、必ず満月の夜に届いているんです」

 沖は慌ててスマホで潮見表を開く。

「本当だ……。よく気づきましたね」

 遥は仕事場の先を指差した。

「ほら、そこに窓があるでしょう? 夜に仕事が入った時って、月を眺めながら作業手順を考えるんです。思い返したら、いつも月が丸かったなって……。でも、こんなつまらないことでも、何かの役に立つでしょうか?」

 沖は目を輝かせた。そんなつまらないヒントが、重要な真実を暴くこともあると知っているからだ。

「とんでもない。確かにこのメールが凪に関係している確証はありません。ですが、裏に何か犯罪的な企みを感じます。今はただ、凪が巻き込まれていないことを祈るだけです。申し訳ありませんけど、このメール全部私に転送してください。色々、調べてみたいので」

「犯罪がらみ、なんでしょうか……?」

「それも分かりません。ただ、そうでないなら、こんなに手間をかけてアドレスを変えたり画像を作ったりする理由が説明しにくいんです。それも、調べてみます」

「はい……」

 遥は不安げだ。

「大丈夫。仮に犯罪があっても、あなたは単に注文を受けただけです。罪にはなりませんよ。私が証人ですから」

 遥は、ようやく笑顔を見せた。

 沖が問う。

「4着目の製作はこれから、ですか?」

「はい。作ろうかどうしようか、迷っているんですけど……」

「通常通り、作業を始めてください。で、3着目はいつ発送しました?」

「昨日です」

「え⁉」

「旅行に行っている間にスタッフが自宅で下ごしらえをしてくれていましたので、仕上げてすぐに」

 沖が目を輝かせる。

「送ったばかりですか⁉ 送り先は?」

「コンビニ着です」

「それなら、間に合うかもしれませんね」

「え? 何に?」

「発注者の特定です」

「あ、そうか……」

「どんな梱包で送りました?」

「アマゾンの空箱に入れました。結構大きいですよ。衣装自体はタイトで薄いんですけど、ウィッグのボリュームがありますから。100サイズっていうやつ。わたしじゃ片手で持てません。あ、ワンポイントに大きなハートのシールを貼ってあります。色はショッキングピンクですから、分かりやすいと思います」

「それなら目立ちますね。届け先のコンビニを教えてください」

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