6・沖信彦
凪は、帰らない。何も進展しないまま、すでに1ヶ月以上が過ぎていた。
凪は意図的に身を隠そうとしている。そうでなければ考えられないほど、捜索の糸口が掴めないのだ。おそらくは、沖が探しに来ることまで予期して、自分の痕跡を消したのだろう。
事情を考えれば理解できないこともない。卑劣な〝父親〟と弱い母親の間で苦悩する中学生にとって、自分が消え去ることが最善の策に思えたのだろう。
自ら命を絶っていないことを期待しかない。警察の公開情報では、それらしい身元不明遺体が公表されていないことがせめてもの救いだ。
捜索は探偵の行動様式を熟知する娘との知恵比べの様相を見せ始めている。
沖はもはや、凪の消息を探ることに全神経を注ぐ状態になっていた。ただ一つ得られた〝可能性〟が、消息を絶った〝地域〟の情報だった。
中学の同級生の話では、凪が消えた日、『近いうちにアニメショップへ行きたい』と言っていたらしい。その件は、小田切遥の話でも裏付けられた。
だが、顔見知りのショップ店員たちは、最近は見かけていないというばかりだった。探偵の習性として素性を隠しながら、いや、逆に『失踪した娘を探す父親』という素の立場を晒しながら、凪の写真を何枚か見せて周辺の聞き込みに奔走した。
そして若い客引きから、近くのチャイナタウンで似たような制服を着たポニーテールの少女を見かけたという情報を得た。一般客が訪れる料理店から離れ、警察でも近づきたがらないディープなホテル街へ向かったというのだ。しかも若い男と2人連れで。
客引きは『また1人、家出ギャルが腐海に沈んだ』と思ったと言った。
一時期、コリアン系の店が集中していた地域だ。その衰退に伴って多国籍化し、今ではかなり広い領域がチャイナタウン化しているという。
だが客引きは2人の後ろ姿しか見ていないということで、確証は何もなかった。だから沖はその情報を保留したまま、他の可能性を潰していった。
チャイナタウンは、凪にはそぐわない場所だという思いが強かったからだ。
結果、それ以外の目撃情報は全て凪とは無関係だと確認できてしまった。
最後の希望に賭けるしかなかった。
美晴には正直に話すわけにはいかない。
凪は、父親になるかもしれない男の暴力から逃げるために、別の危険に身を投じたかもしれないのだ。ヤクザでも敬遠するチャイナタウンに身を隠しているのなら、犯罪に巻き込まれている可能性も高い。話せば、美晴はさらに追い込まれるだろう。凪の無事が確認できるまでは、『手がかりがないまま調査を続けている』と繰り返すしかなかった。
たとえどんな男と一緒だとしても、生きてさえいればいい。そう自分に言い聞かせるしかなかった。だとしても、甘言を弄しての誘拐や監禁、あるいは売春の強要といった事態になっていれば、何がなんでも救出しなくてはならない。
確証を掴まなければならない。
普通の女子中学生にはそぐわない、その〝地域〟の監視を続けて、もはや1週間以上が過ぎた。何件かの料理店に入り浸り、急造の常連になっていた。身分の偽装が必要だと判断したのは、探偵の直感だ。
表向きは路頭に迷うリストラサラリーマンを装っていた。
景気が上向いて人手不足が叫ばれている昨今では、非常識とも言える〝偽装〟だ。だが、人には様々なハンデキャップがあるものだ。病気や精神的な不調で人生を狂わせることなど、ありふれている。株で失敗して家族に捨てられた末にネットカフェで暮らし、何となくこの街に惹きつけられてきた半端者――それが沖が選んだ隠れ蓑だ。
流れ者が仕事を探しているという噂を立てることが目的だった。〝ヤバい仕事〟であっても受けざるを得ない人間だと思わせたかった。そんなはぐれ者でなければ得られない情報もあるのだ。だからあえて目立つように、沖が店に入るのは昼食の忙しさが過ぎ去った、いわば休憩時間が多かった。
今日も、油臭くて狭苦しい店のカウンターの奥で、店主が暇そうにフリーペーパーを広げている。紙面は簡体字で埋め尽くされ、コミュニティの重要な情報源になっているらしい。
中には身分詐称や偽装結婚、密航者の特別在留帰化申請を行うなどの広告が堂々と幅を利かせている。法律の隙間や盲点に喰い込んで活動の場を広げていくのは、世界に散っている中国人の基本的な行動様式だ。同郷人で固めた地域は、聖域化してガン細胞のように増殖していく。
その店は古い4階建てのビルの1階に入っていたが、上層階は細かく区切られたアパートになっている。密入国者や不法就労の外国人でも入居を拒まない、現代の〝タコ部屋〟だ。彼らの仕事もまた、この界隈では無数に供給される。多くは明らかな犯罪か、それに近いグレービジネスだ。
沖は不満げに言った。
「ねえ、なんか別のうまい物が食いたいんだけど。チャーハン、飽きた。近くで中華じゃない店、知らない?」
日本語が堪能な店主が答える。
「この辺、中華街ね。だから中華ばかり。だいたい、中華の店で中華に飽きたとか言うの、変。コリアン、ムスリムなら近い。ベトナムもある。そっち行くといい」
沖自身は、過去に中国人同士の抗争に巻き込まれた経験から多少の中国語を身につけていた。警察を退官した通訳捜査官の雑誌取材を補佐したのをきっかけに、得意分野を開拓するために暇な時間は積極的に勉強していたのだ。いわば、拡大する市場に向けた〝先行投資〟だ。
まだ話すことは未熟で、アクセントは不完全で語彙も少ない。ただ、自分でも意外だったことに、聞くことにはそれほど苦労しなかった。その結果、耳にしただけでどこの方言かぐらいは判別できるようになっていた。
時々聞き取れる店主の中国語は東北地方――旧満州地域の訛りに近かった。
しかし今はまだ、それを隠している。
「ま、そうなんだけどね。あんまり動き回るのも面倒だし。そろそろ金も心細くなってきたし、なんか仕事しないとね……」
「またその話か。何で日本人、ここで働きたがるか?」
「そりゃ、さ……他じゃ仕事探し、難しいからだろうが……」
店主が身を乗り出して声をひそめる。
「ハロワ、ある」
「だから難しいんだって」
「なんか悪いこと、やったのか?」
「そんなこと、話せるかよ……」
「やったのか?」
「失敗の経験ならある。株だよ」
「負けただけか?」
「勝った時もあったがね」
「それだけか? つまらない」
「悪さも、多少はした」
「したか。で、あんた、何できる?」
「何って?」
「特技、あるか?」
「ないと、駄目か?」
「ある方、いいだろ。悪いこと、どんな種類か?」
「だから、言いたくないって」
「金か? 女か? 暴力か?」
「そのどれかだったら、仕事あるのか?」
などと打ち解けたように見せながらも、中国人たちは容易に気を許さない。
中国人社会の結束の硬さは、日本人の感覚とは根本的に違うのだ。その根本は血縁や同郷にある。だから同じ中国人でも激しく対立することが多い。本国では村同士の争いが銃器での殺し合いに発展することも珍しくないという。
そんなコミュニティに日本人が入り込むことはほとんど不可能だ。
だから沖は立ち寄る店々でビールを飲み、自分の偽装を喧伝しながら、地元民らしい中国人たちの会話に聞き耳を立てた。中には入れなくとも、漏れ出てくる情報はすくい上げたかったのだ。
たっぷりの時間とわずかな金を投じたおかげで、周辺の様子はおぼろげながら掴めていた。
中華料理屋やラブホテル、カラオケ店などで囲まれたブロックの内部には外国人がたむろすアパートが点在し、いわば〝治外法権〟のような様相を呈しているという。元から縄張りを持っていたコリアン系住民は韓流の衰退に伴って駆逐され、警察も近づきたがらない地域が自然発生的に形成されたようだ。
それでも何とか奥深くに侵入したかった。そのどこかに凪が潜んでいる可能性は残っているのだ。
店主は不意に席を立って、スマホを出しながらバックヤードに消えて行く。どこかに電話するらしい。
これまでの態度とは明らかに異なる。
沖は、『もしかしたら』と直感した。
どんな理由でもいいのだ。中国人同士の連帯で固められた中心部に足を踏み入れさえできれば、きっと得られるものがある。そこに凪がいることは期待できないだろう。仮にいたとしても、その確証が得られる確率などゼロに等しい。
それは最初から覚悟している。
むしろ沖は、チャイナタウンから手を引く理由を欲していたのかもしれない。
袋小路に迷い込んだ自分を、リセットしたかったのだ。さらなる詮索が時間の無駄だと納得できれば、また最初からやり直す意欲も湧いてくる。ここまでやっても何も得られないなら、諦めもつく。
店主はすぐに戻って席に座ると、また沖に顔を近づけた。ニンニク臭い息が容赦なくかかる。
「一回限りの力仕事、やるか?」
沖は即答した。
「やる。ギャラは?」
「大きな荷物、近くの運送屋に運ぶ。重い。それで一万円」
「それでも、助かる」
「裏口から出ろ。赤いシャツ着た坊主頭、いる。ついていけ」
沖はニヤリと笑いながら、カウンターに1000円札を置いてバックヤードに入って行った。
裏口は開いていた。密集したビルの隙間が通路になっている。壁のあちこちについた換気扇から、油と食材と汗の匂いでベタつく空気が吹き出して渦を巻いていた。散乱する食品のケースには簡体字やハングルが踊っている。わずかに霧がかかったような淀みに、外から差す光も弱められている印象だ。
表通りからたった店一軒分中心に近づいただけで、そこはすでに日本とは違った匂いに沈んでいる。
通路の先で、赤いシャツが手招きしていた。
沖は、黙ってその後について行った。建物の間の路地には、空の酒瓶や発泡スチロールの空箱が所狭しと並べられている。人がすれ違うのも困難な路地を数回曲がって、チャイナタウンの中心へ向かって行く。やや広い空間に出る。
そこでは4人の男が、背の高い木箱を囲んでいた。木箱は側面が外されて内部が見えていた。まだ、空っぽだ。傍の道具箱には数本の金槌や釘が詰まっている。
どうやら、ここで木箱を組み立てていたらしい。荷物の梱包から手伝わされるのかと思えた。
突き当たりのビルの壁には軽トラックぐらいなら通れそうな大きさの錆びたスライド扉がある。そこで木箱に中身を詰めるのだろう。
沖は当然、周囲の建物の配置を調べてある。グーグルマップを使えば、真上からの航空写真が容易に確認できる。そこは古くからあるクリーニング工場の裏に当たる。警察の知り合いを通じて、何年か前にオーナーが中華系に変わったという情報も得ていた。
扉の横に設置された大型の換気扇から、シンナーのような刺激臭が風に乗ってくる。やはりクリーニング工場だ。
と、赤シャツが振り返って沖の背後に回る。そして沖の背中を強く押した。
沖はよろけて、木箱にぶつかりそうになる。同時に、5人の中国人に取り囲まれる。彼らは、明らかな敵意を向けていた。
沖は、木箱に詰め込まれるのは自分自身ではないかと観念した。瞬間的に背中を丸め、軟弱なはぐれ者が怯えているように装う。
戦うことは不可能ではない。それだけの訓練は身につけている。だが、相手が多すぎる。しかも、完全アウェーだ。たとえ5人をぶちのめしたところで、迷路のようなチャイナタウンの中心から脱出できる保証はない。
様子を見るべきだ。
木箱の横に立った男が沖を睨む。そして、中国語で言った。
「やれ」
沖は横から腹を殴られた。
身を守るように屈み込むと、さらに蹴りが加わる。腹や腕、下半身までが殴打される。だが、顔や露出した皮膚は襲われない。
殴られたことを他人に悟らせないための、手慣れたやり口だ。
しばらくして攻撃が止む。地べたに膝をついた沖は、攻撃を命じた男を見上げた。
その男だけは腕組みをしたまま、手出ししていない。恐らくはクリーニング工場のボスだろう。
ボスが中国語で何かを言った。料理店の店主と同じ方言だ。当然、同郷だ。
赤シャツが通訳する。
「お前、娘探してる父親だろ? 邪魔だ。嗅ぎ回るな。誰にも話すな。今度きたら、殺す」
そしてボスは、手下たちにあごで指示した。
手下たちは沖の体を探り、財布を取り上げた。中身を調べて運転免許などを出すと、一枚一枚スマホで撮影して行く。他の者は沖の手を取り、指一本一本を何かに押し付けて行く。指紋を採取しているのだ。
それが終わると財布に証明書類を戻し、さらに数枚の一万円札を加えて沖のポケットに突っ込む。
口止め料のつもりなのだろう。
証明書類は全て本物だ。沖が探偵であることは暴かれるだろうが、彼らの情報網が有能なら、実の娘を探していることも確認できるはずだ。沖がとってきた偽装にも疑問は抱かないだろう。邪魔だとは感じても、これ以上危害を加える必要はないと判断するはずだ。
赤シャツが沖を立ち上がらせ、背中を押して再び中華料理屋に戻った。
店の中を抜ける途中、店主がニヤつきながら言った。
「早かったな。終わったか?」
沖も笑った。
「ああ。おかげで、いい稼ぎになったよ」
「だったら、もう来ないことね」
「しばらくは暮らしていけそうだからな」
だが沖の笑顔に隠された闘争本能も、また本物だった。
すでに金銭以上の代償は得られていた。赤シャツが通訳しなかったボスの東北訛りを聞き逃さなかったのだ。
『死体の処理を知られるな。次に来たら殺すと言え』
聞き違いでなければ、ここには〝知られたくない死体〟があるらしい。それは当然人間の死体で、何らかの処理をしている。明らかに、非合法の〝ビジネス〟だ。
大陸本土では、墓に葬る男のために、添い寝をさせる女の死体が公然と売買されているという。臓器密売のために殺される囚人や反体制活動家も数知れない。死体ビジネスの大きな市場が存在するのだ。
チャイナタウンが聖域化してるとはいえ、日本国内で死体の需要があるとは考えにくい。大陸で無数の〝素材〟が手に入れられるのに、わざわざ他国で〝死体を処理〟する理由も分からない。
分からないが、この場所では死体が必要とされているようだ。
死体が凪ではないことは、祈るしかなかった。
だが当初の目論見に反して、凪の行方を知る手がかりはこの地域にあるという強い疑念が生まれていた。
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