4・岩本新一

 質素な社長室のテーブルを囲んで、意味のない会議がダラダラ続いている。誰も責任を取りたくないから、他人の意見の粗探しに終始して結論を出さないのだ。

 日本企業の悪しき体質だ。

 結局はトップが決めるしかない。

 会社は成長著しいネットセキュリティ企業として注目されてマスコミなどへの露出も多くなっているが、まだ充分に成長しきったわけではない。個人客相手の開拓にリソースを振り向けるべきか、大金を投じて食い込んだ公官庁相手の業態をさらに堅固なものにしていくべきか――。

 2正面作戦に挑む体力が不足していることだけは、全員の共通認識だ。

 岩本新一は思った。

 あと10分、こいつらには喋らせておこう。どうせ銀行との付き合いで抱え込んだお飾りの役員だし、リスクを取ってでものし上がろうという気概のない連中だ。

 決断は自分がする。責任も自分がとる。

 いつものように。

 と、胸ポケットにスマホの振動が起きた。

 取り出して画面を見た瞬間、岩本の目に緊張が走った。1年以上連絡がなかった相手だ。しかも、連絡を取りたくない相手だ。

 ソファーに並んだ5人に命じる。

「君たちの意見はよく分かった。もう1日考えよう。結果は明日午前中にメールする。どちらにも対応できるように対応策を検討しておくように。では、解散だ」

 役員の間に安堵のため息のような風がそよぎ、緊張が一気に霧散する。

 専務の1人が岩本に歩み寄って言った。会社の立ち上げから一緒だった右腕だ。

「では社長、今夜の会合は予定通りにセッティングさせていただきます。方向性をどちらにするにしても、会っておいた方が得な相手ですから。先方も、忙しい方ですし」

「ああ。任せる。1時間前に連絡してくれ」

 そして専務が身を寄せて声を落とす。

「金、用意しておくか?」

「会う以上は、見せ金も必要だろうな……。現金で1000万程度だな。それを懐に入れるようなら、話はすぐに片がつく」

「たやすく懐柔できる相手だ。何10年も前から大陸や半島とズブズブだっていう噂もある。選挙資金の調達にも苦慮しているようだしな」

「綺麗どころが揃ってる店も抑えておけ」

「そっちは手配済みだ」

 ニヤリと笑った専務が、軽く岩本の肩を叩いて去る。

 社長室が空になると、岩本は再びスマホを取った。極秘の相手をコールする。

「10分後に。以前と同じように、社員には見られない通路から入ってほしい。直通エレベーターに乗ってくれ」

 そして、机の内線を取る。

「1時間ほど席を開けるように。考え事に集中したい。この階には専用エレベーター以外では誰も入らないようにしておけ」

『了解しました』

 本来なら、自社ビル内では会いたくない相手だ。だが、スマホに入ったメールには、発信者と『緊急』というタイトルがあるだけだった。発信者は『佐藤』だ。会社も所属も、一切記されていない。

 岩本自身が、佐藤がどんな組織のどんな立場にいるのかを何一つ知らされていない。ただ数年前、〝彼ら〟から引き合わされ、『佐藤の指示には逆らうな。活動資金も提供しろ』と厳命されただけだ。

 その時は単純に、使い勝手のいいトラブルシューターなのだろうと思っただけだ。

 だが佐藤が動かすチームによる岩本の身辺調査は、苛烈で詳細を極めた。1週間後に社長室のテーブルに載せられた10冊を超える分厚いファイルには、岩本自身がとっくに忘れていた過去の記録がぎっしり詰まっていた。何10年も前の瑣末な交通違反から、個人のキャッシュカードの公にはしたくない利用履歴、そして不倫で生まれた子供の悪癖や周辺情報まで、何もかもが調べ尽くされていた。

 岩本は佐藤の実力を知って、恐れた。〝彼ら〟に利益を与え続けられれば、佐藤は力強い味方になる。だが、それができなくなれば、その力は自分に歯向かってくるのだ。

 逆らってはならない相手であることは、情報を扱うプロである岩本には痛いほど理解できた。

 彼が緊急という時は、まさに緊急事態だ。

 本来なら、社屋には引き入れたくない相手だ。だが、外で会うのも都合が悪かった。

 社長決済が必要な案件が重なっている中、たとえ数10分でも気まぐれで外出することは社員の注意を引く。相手が社員であっても、極めて個人的な〝機密〟には絶対に近づけさせるわけにはいかない。普段通り社長室にこもっていれば、少なくとも会社から秘密が漏れることはない。専用エレベーターの暗証番号を教えていたのも、この時のためだ。

 佐藤は、きっちり10分後にドアをノックした。

 ドアを開けると、入って来たのは背ばかりが高い風采が上がらない中年男だ。まるで枯れた老木のようで、左遷を言い渡されたばかりの小役人にも見える。

 だがそれは、変装だ。前回会った佐藤は、スキンヘッドで鋭い目つきをしていた。状況に合わせて姿を変える技術は、まるでカメレオンだ。

 ドアが閉まると、岩本は尋ねた。

「で、今度は何を始めた?」

 要件が隠し子の不始末であることは分かっていた。ファイルが机に乗った日に佐藤から直接、〝継続的な要監視対象〟に指定すると告げられていたからだ。その他に〝彼ら〟から棘められるような失策を犯した覚えはない。

 佐藤は、ドアの前に立ったまま答える。口調はまるで、領主にかしずく執事のように丁寧だ。

「小学生に関心を持ち始めたようです」

 岩本は観念したようなため息を漏らした。男が〝緊急〟だと言ってきた時点で、予測はしている。

「〝電波〟とか言い逃れしていた症状が悪化してるのだな……?」

「私の印象では、極めて急速に。しかも危険です。もはや、人格の解離と呼ぶべきかもしれません。凶暴な人格が顕在化して、自分では制御できない可能性もあるようです。これまでの発作と同様、その間の記憶は曖昧になると考えたほうがいいでしょう。ですから、本人が意識しないまま〝操られている〟といった恐れもあります」

「そこまで……。とうとう〝暴走〟が始まったというのか……? で、いま現在、どこまで実行している?」

「実は、正確には分かりません。いつの間にか、妙な組織とも関係を持っていたようです。多分、前回の発生時にできたコネクションから広がったものでしょう。かなり危険な、暴力的な集団だと思われます」

 岩本の表情に緊張が浮かぶ。実子が反社会的な組織と関係を持てば、たとえ隠し子であっても実業家としての名声への悪影響は避けられない。〝彼ら〟がそれを鷹揚に許すはずもない。

「集団? 何者なんだ?」

「調査報告が今日中に入る予定です。ですが、あなたは知らない方がいいでしょう」

「〝暴走〟の兆候を見逃したのか? 君らしくないと思うが……」

「管理不足は認めます。他にも対処すべき案件がありましたので。監視対象も我々の監視に感づいて、苛立っている様子です。その組織と手を組んで、我々を出し抜く偽装工作も行なっています。発生してからすでに数ヶ月経っているかもしれません」

「厳しいな……」

「その件についても、報告が入るはずです」

「すでに取り返しがつかないことになっているのか? 責任は誰が取るんだ?」

 佐藤は動じない。

「予算内では最大限の監視体制を敷いていました。単独行動以外の展開は考慮されていませんでしたから。強いて言うなら、予算に上限を設けたことが遠因かと」

 岩本の目が厳しさを増す。佐藤でも見逃しがあると知ったことで、畏れも和らいでいた。

「珍しく言い訳がましいじゃないか。私の責任だと言うのか? それなりの大金は払った。その分は成果を出してほしいものだ」

 だが佐藤は、岩本の嫌味を無表情に受け流す。

「こちらも、それなりの体制を維持していました。いつ始まるかも分からない案件に余分な人材を貼り付けているわけにもいきませんので。有能なスタッフは限られていますし、高額なのです」

 岩本は、これ以上佐藤を責めても自分の立場は良くならないと諦めた。

「だが、また〝暴走〟し始めたことは確信しているのだな?」

「ほぼ確実です」

「ならば、これまで通り対応は一任する。ただし、これは父親としての希望なのだが、できれば本人には危害は加えないでほしい」

 男は一呼吸置いてから言った。

「今回は今までとは様子が違うようです。すでに危険水域を超えているかもしれません。そうでなくても最悪のケースまで行き着く恐れがありますし、あなたとの関係を暴かれる危険もあります。それでも、でしょうか?」

 岩本の声に迷いと苦悩がにじむ。

「とうとうそこまで来てしまったか……」

「兆候を掴めなかったのは私の手落ちです。手を貸している未知の組織の実態解明もこれからです。交渉が可能な相手かどうかも不明です。全力を挙げて現状の把握に努めます。ですが、御社への悪影響を回避するために、緊急に関係を遮断する必要に迫られるかもしれません。今日は、その判断を委ねていただくために直接伺いました」

 佐藤の言わんとすることは、過不足なく岩本に伝わった。

「それでも、血を分けた子供なのだ。しかも、子供たちの中で最も才覚を現している。君の目からは、遊んでいるようにしか見えないだろうが、私は遊びを金に変える能力を認めているんだ。何とか、生かしておいてやりたい……」

 佐藤はその言葉に取り合わない。

「最悪の場合……私に決断を任せていただけますか?」

 岩本がなすべき社運をかけた決断も、すでに腹の中では固まっていた。当然、そちらを第一に考えるべきだ。

「無論、最優先はこの会社の存続だ。これからしばらくは、公官庁方面のネットセキュリティ業務に専念する。会社の評判に少しでも傷がつくと屋台骨が崩れかねない。それさえ守れれば、全権を預ける」

「必要な経費は今の段階では概算も提出できませんが? 組織とも敵対するかもしれません。金で解決ということになれば、その分は計算もできません。よろしいですか?」

「今までと何が違うんだ? 常識から外れていなければ、君の言い値で構わない」

「了解しました。では、この件には今後一切手を出さないでいただきます。私への指示も、緊急事態以外は控えてください。無論、私とこうして会ったことも一切外部に漏らさないでいただきたい」

「報告だけは欠かさないで欲しいのだが」

「まだ未練がおありですか?」

「厄介者ではあっても、実の子供だ。私の気持ちは心に留めておいてほしい」

 男はしばらく考えてから、仕方なさそうに携帯の端末を差し出す。

「では、連絡先を登録してください。今回限りで破棄する番号にしますので」

「ありがとう」

「ただし、過剰な口出しはしないでいただきたい。選択肢が考えられる場合のみ、私から連絡します」

 岩本が連絡先のデータを取り込む。

「分かっているよ。うちのスタッフが開発した暗号化プロトコルで保護されている端末で受けるように設定しておく。君には迷惑をかけない」

「そう願います。私がトラブルに巻き込まれると、他のクライアントにも多大な迷惑がかかりますから」

「それも承知だ。私のような成り上がりが君を使えること自体が、破格の待遇だ。それを踏みにじれば、私の明日はない」

 佐藤は岩本の瞳をじっと見つめ返してから、安心したように小さくうなずいた。

「では、これで」

 岩本は床に目を落として再び小さなため息を漏らした。

「仕事とはいえ、手間をかけさせすまない……。あいつとも、これで終わりになるかもしれないということなんだな……」

 男はすでに、音もなく部屋を去っていた。


     ✳︎


 佐藤は背後でドアが閉じると唇を歪め、喉の奥で独り言をもらした。

「まったくだ。無駄な手間がかかる……。お前が狂ったガキをこしらえたおかげでな……。クライアントに害が及ぶようなら、お前の処分も考えないとな……」

 それは、寡黙で感情を表さない佐藤を苛立たせるほどに瑣末な案件だった。本来ならば、佐藤ほどのプロが関わるほどの重要性はない。というより、本来の業務とは性質が異なる。

 猟奇的な、しかし単なる刑事事件だ。

 岩本が大きな資金を動かせる成り上がりであり、クライアントたちがその資本と才覚を重要視していなければ、何の関わりも持たずに本業に専念できるはずだった。

 岩本は守るべき対象ではある。だがそれは、真のクライアントからの要請があるからにすぎない。だから、岩本にすべての手駒を開示したわけではなかった。教えても隠しても構わないものであれば、わざわざ明らかにする必要はないのだ。

 選択権はクライアントの立場を守らなければならない佐藤にあり、秘匿した情報をどう利用するかも委ねられている。隠した手駒は、岩本を葬る際の武器にもなりうるのだ。

 それでも今は、岩本も〝保護対象〟だ。蟻の一穴は、蟻しか通れないうちに塞がなければならない。

 それが佐藤に課せられた使命でもあった。

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