2・沖信彦

 およそ1ヶ月前――。

 昼下がりのファミリーレストランに、ひときわ大きな女の声が響く。

「お願いします! わたしから別れ話を持ち出したことが今でも気に入らないなら、何をされても構わないから! だから、凪を探して!」

 沖信彦は、困惑していた。

 元嫁の美晴の方からの連絡を望んだことがなかったからだ。唐突に電話が来たことは意外だったし、第一声はさらに唐突だった。

 娘を匿っているのではないかと、半狂乱で沖を罵ったのだ。

『凪を返して! 返してくれないなら訴えます!』

 娘の凪とは別れてから一度も会っていないと納得させるのに、数分かかった。美晴は凪が沖の元にいると信じ込んで、話を聞こうともしなかったのだ。

 わずかに落ち着きを取り戻した美晴は、『すぐに会いたい』と言ってきた。こうして顔を合わせてからも、興奮状態は収まっていない。

 沖は、まず元嫁に冷静さを取り戻させるのが先決だと判断した。でなければ、必要な情報が得られない。

 あえてきつい口調で命じる。

「大声はよせ。迷惑になる」

 午後3時のファミレスは決して混雑はしていない。だが、飛び飛びに固まっているママ会らしい集団は、一斉に修羅場を期待する好奇の目を向けていた。

 美晴は――沖の記憶では宮原美晴になっているはずだが、緊張を隠そうともしていない。他人から凝視されることも意に介していないように見える。沖と過ごしていた頃の美晴は、世間体を気にする小心すぎる女だったのに、だ。

「落ち着いていられないんです! もう、2日になるんだから!」

 その2日間、美晴は食事もしないで1人で耐えていた様子だ。自分を追い込んできた憔悴感が全身から滲み出している。共に暮らす男がいるはずなのに、会話が成り立たないのだろう。顔を合わせることもないのかもしれない。

 でなければ、別れた夫を頼ろうなどとはしない。

 沖にはすでに、問題の根源が見えていた。

 ありふれた〝家庭の事情〟だ。沖の他に、頼れる者がいないのだ。

 娘の凪は沖の実子でもあるのだから、声をかけるのは不自然ではない。娘が一緒にいるのではないかと勘ぐるのも当然だ。探偵業を生業にしている沖に人探しの能力があることも、美晴は熟知している。そもそもそれが、凪を連れて出ていった原因だからだ。

 だが今の夫が――籍を入れたかどうかは確認していないが、本気で美晴の力になろうとするなら、そこに沖が入り込む隙はないだろう。

 そしておそらく、凪が姿を消した理由は今の夫にある。

 沖はあえて冷や水を浴びせるように言った。

「娘を構わない俺から逃げ出して、構いすぎる男を捕まえた結果か」

 美晴は沖を凝視し、一瞬言葉を失った。

 沖の作戦は成功したようだった。

 美晴は、うつむいてつぶやく。

「恨んでいるんですか……?」

「詳しい話を聞こう」

 美晴が上目遣いに沖を見る。

「助けてくれる?」

「凪は、俺の娘だ。美晴は正しい。俺なら多分、凪を探せる」

 美晴は緊張を解いて、わずかに涙をにじませた。

「ありがとう……」

「で、警察には?」

「もちろん届けました」

「敬語はいらない」

 美晴は、ほっとしたようなため息を漏らした。

「うん……。でも、ただの家出だろうって……。思春期だからって……」

「警察は型通りに家出人捜査の手順は踏むだろうが、確かにそれ以上は期待できない」

「あまりに事務的で、素っ気なくて。だから余計に不安で不安で……」

 答えを知りながら、質問する。

「で、旦那は? 何か手を打ったのか?」

 打っていれば自分を頼ることはないと確信していた。それでも、確かめないわけにはいかない。

「すぐ戻ってくるだろうから、って……」

 いわゆる〝よそ行き〟の口調だ。何かを隠そうとしている。沖は、娘の安否を気遣う母親とは別種の〝緊張〟を感じ取った。

 問題は予想以上に深刻かもしれないと思える。

「旦那――宮原、だったか? 凪とうまく行ってないのか?」

「まだ、正式には結婚はしてないの。凪が嫌がってるみたいで……」

「それでももう2年以上になるだろう? 美晴はそいつと暮らしていたいのか?」

「だって、誰かに助けてもらわないと……凪は寮がある女子高に行きたいっていうし……」

「経済状態は?」

「そんなに良くない。私も仕事をやめられないし。優しい人だと思っていたんだけど……」

「俺とは違って、か? 凪は、なぜ嫌がる?」

 美晴の口調に、さらに強い緊張がにじむ。しばらく口をつぐんでいたが、覚悟を決めたように小さくつぶやいた。

「怒らないでね……あの人、凪に暴力を振るうことがあるみたいなの……」

 沖には意外でもあり、納得もできる答えだった。

 臆病すぎるほどの美晴が、暴力的な男と付き合うとは思っていなかった。だが一般的にDVは、まさかと思うような人間が行うことが珍しくない。人の本性は、長く一緒に暮らさないと見えないこともある。

 沖も身を乗り出して声を落とした。状況を正確に判断するためには、聞かなければならないことがある。

「つまり、宮原という男の優しさは、そういう性質のものだったんだ。凪は中2だよな。性的な虐待もあったのか?」

 美晴にも、それが重要な質問であり、避けては通れないという覚悟はあったようだ。

「あったみたい……」

「美晴は暴力を振るわれたか?」

「わたし……? わたしには何も……」

「旦那とのセックスは?」

「どういうこと?」

「週に何回だ?」

 美晴は質問の意味が分からないようだったが、答えを拒みはしなかった。

「そんなには……。月に1、2回、かな……」

「旦那は、美晴を抱いて幸せそうだったか?」

「何でそんなことを? わたしをいじめたいの?」

 核心を突く。

「違う。旦那が美晴と暮らすのは、凪が目当てなのかもしれないと思ってね」

 美晴がかすかに息を呑む。

「まさか……」

 沖は美晴の目を覗き込んだ。

「気づいているんだろう? 美晴はまだ夜勤がある仕事をしているのか?」

「うん……」

「その間、凪は旦那に好きなようにされていたわけだ」

 美晴が観念したように呻く。薄々でも、思い当たることがあるのだろう。

「わたしのせいよね……わたしが弱いから……」

「警察にはDVのことも言ったのか?」

「まさか……。凪が保護された時に、変な目で見られるのも可哀想だし……。児童相談所とか、そんな人たちにも構われたくないから……」

 沖の目にわずかな苛立ちが浮かぶ。

「相変わらず世間体を気にしてるのか」

「そう……なのかな……」

「だから目をそらして、気づかないふりをしていたんじゃないのか?」

「そうなのよね、きっと……。凪を身代わりにして……」

「凪が黙って耐えていたのは、きっと私立高に行きたいからじゃない。美晴のためを思ってだろう。俺を頼らなかったのも分かる。不安定な探偵業で収入は少ないし、ヤクザ者に脅されて怖い思いもしたからな。何より、美晴が俺を嫌っているしな」

 美晴は即座に答えた。

「嫌ってはいないわ。怖かっただけ。普通の暮らしがしたかったのよ」

 沖にはそれも分かっていた。

 事の起こりは、沖が経営する探偵事務所がある浮気調査を請け負った事だった。ありふれた日常業務だ。だが尾行した妻と会っていたのは、政界の大物の息子だった。しかも、見習いの部下のヘマで、調査をしていることを悟られてしまった。

 次の日には名前も明かさない男が現れ、札束を沖の机に置いた。沖が受け取りを拒否すると、その次の日には依頼主だった夫が交通事故を起こし、夫婦ともに死亡した。ダンプカーに追突されたのだという。

 そして事務所に何者かが押し入り、調査資料は消えた。その時点で手を引けば、穏やかでつまらない探偵稼業に戻れたはずだ。10人のスタッフも離散することはなかっただろう。

 だが沖は、義憤に駆られた。死者が出たことが許せなかったのだ。

 手を下した者たちに殺意があったとは思っていない。ただの脅しのはずが、ちょっとした不運が重なった〝事故〟だと考えていた。しかも沖は普段から『正義の追及など場末の探偵には分不相応だ』と自嘲するような男だった。

 なのに、頭では忘れるべきだと分かっていながら、それでも行動してしまった。政治家の息子の身辺を探り始めたのだ。

 そして沖が不在の間に、自宅がヤクザ者たちに襲われた。美晴も凪も、凄まじい恐怖を味わったはずだ。美晴は実際に刃物で浅い切り傷までつけられた。凪は、美晴が悲鳴も出せずに失禁するのを見せつけられていた。

 沖は二度と危険な調査には手を出さないと家族に誓い、とりあえず近くのアパートに転居した。ヤクザ者から凪たちを守るために事務所を解散し、恭順の意を示した。

 襲撃が繰り返されることはなかった。

 だが、凪はそんな沖を嫌ったのか次第によそよそしくなり、美晴にばかり寄り添うようになった。一方の美晴は、いつまで経ってもその恐怖が忘れられなかったようだ。美晴の性格を考えれば、当然とも言えるのだが……。

 数ヶ月後、離婚届を置いて凪を連れて出て行った。

 それでも、沖には他の仕事などできない。結果、独立営業のはぐれ者として、かつての知り合いから半端仕事を請け負うような暮らしを続けている。

 そんな自分を、沖はずっと責め続けてきた。

「分かってる。旦那の件は、後回しだ。凪は誰にも虐待を話せずに、家出した。そう考えるのが普通だな。凪の交友関係は分かるか?」

 美晴がサイドバッグを探ってiPhoneを差し出す。ピンクのケースに、過剰なほどのデコレーションが施されていた。

「凪のよ。中古だったから最近新しい機種に変えたんだけど、捨てずにとってあったの」

 iPhoneを受け取った沖が、ざっと調べる。2世代前の型式だ。しかもケースのデコレーションは、手製らしい。ケーキやドーナツを模した小さなオブジェが散りばめられている。凪にとっての〝カワイイ〟が具体化したのだろう。

 沖はホームボタンを押しながら言った。

「このケースは凪がデコレーションしたのか?」

「どこかから買ってきたみたいだけど……」

 液晶に充電切れの警告は出たが、電源は入った。4桁の数字を入力する。

「あいつ暗証番号は変えてなかったんだな……」

 だが、一旦明るくなったディスプレイはすぐに消えてしまった。バッテリー切れだ。

 美晴が声を上げる。

「使えるの⁉」

「後で充電器を都合する。中の情報から友人関係が分かれば、順番に当たる」

「暗証番号、知ってたのね……?」

「以前乗ってた車のナンバーだ」

「あのオンボロスバル?」

「ずいぶん使い込んだからな。だが、凪は気に入っていた」

「そんなことも知らないなんて……つくづくダメなお母さんよね……」

「済んだ事は忘れろ。反省は凪を見つけてからでいい。その代わり、しっかり話し合え。これ以上凪を傷つけるな」

「ごめんなさい……」

「そもそも、悪いのは俺だ。だが、俺はあんな生き方しかできない。危ない真似はもうしないつもりだが、性根は今でも変われない。だから、凪は美晴が守れ。その責任だけは、投げ出すな。手助けはするから。その方が、凪も幸せだろう」

「はい……。でも……」

「何だ?」

「言いにくいんだけど、あんまりお金がないの。あなたに仕事をお願いするのに……。だから、他のことならなんでもします。できることなら……」

「抱かれてもいいってか?」

「うん……」

 沖の目に厳しさが浮かぶ。

「そんなだから、ダメなんだ。男に寄りかかるな。自分の足で立て」

「だって、わたし、そんなこと、したことないし……」

「それができないと思っているから、凪は美晴に何も話せなかったんだ。凪を苦しめるな」

「そんなこと言われても、急には……」

「だったら、引き受けない」

「ごめんなさい。お金、何とかします。いくらでも払います」

「当てなんかないんだろう?」

「それでも、あなたに探して欲しい」

「これは仕事じゃない」

「え?」

「自分の子供を探すだけだ」

「お願いしていいの?」

「美晴が後の始末をきちんとつけられるというなら、引き受ける。それが済んだら、宮原を調べる。別れなければ、凪を返すわけにはいかないだろう。おそらく、責任を取らせることになる」

「分かってます。わたし、強くなります。できるだけ頑張ります。だから、お願いします。凪がいなくなったら、わたし、生きていけない……」

「だから、それがいけないんだ。凪の負担になるだけだ。1人になっても生きていく覚悟を持て。それなら、凪を返してやる」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る