月が殺す

岡 辰郎

第1章・胎動

1・高橋翔太

 少女は全裸で、しかもスキンヘッドだった。

 床に仰向けに横たわり、怯えた表情で高橋翔太を見上げる。かすれた声を絞り出した。

「あたし……死ぬの……?」

 着衣の高橋が腹にまたがっている。体重を乗せ、首に回した両手の指を押し込む。

「すぐ、楽になる」

 少女の体格は小学校の上級生程度で、まだ乳房も膨らみ始めたばかりのようだ。全身は、無数の傷やアザの痕跡で覆われている。首から上が無傷なのが、逆に不自然に思える。

 髪の毛が剃られているので、さらに異様さが際立つ。

 気管を潰して酸素を断たれた瞬間、少女は目を見開いた。だが、恐怖は浮かんでいない。もはや、声は出せない。

 高橋はその目をまっすぐに見下ろして、繰り返す。

「もう、楽になるから」

 高橋の目は、無表情だ。

 苦しんではいない。喜んでもいない。楽しんでもいない。

 まるで、日々の仕事の一環に過ぎないとでもいうように、淡々と死に行く少女の瞳を見下ろす。

 少女は、諦めたように目を瞑った。そして、かすかに痙攣を始める。だが、抵抗はしない。身を守ろうとする本能さえ欠けている。徹底的に体を痛めつけられた少女には抵抗する気力すら残っていない――としか見えない。

 諦め切って死を受け入れているのか、長く続いた苦痛から解放されることを歓迎しているのか、笑みさえ浮かべているようだ――。

 照明を落とされた薄暗い部屋の中央、フローリングの床にブルーシートが敷かれていた。シートの上に、漏れた尿がわずかに広がっていく。

 高橋の手の平の中で蠢き、脈打っていた生命が、ふっと消え去った。

 今、この瞬間に、〝人間〟が〝物体〟へと変化したのだ。

 高橋は長い溜息を漏らしてから、少女の首から手を離した。上体を起こし、まるで初めての部屋を見るかのように室内を見渡す。

 そこはまさに、高橋が焦がれていた夢そのものだった。

 マンションはまだ新しい。いわゆる〝新築の匂い〟が感じられるほどだ。6畳を超える広さのその部屋には窓はなく、家具も置かれていない。ウォークインクローゼットを改装した場所だ。生活スペースは隣室に用意されていて、趣味だけに没頭できる空間になっている。

 正面には少し高くなった〝ステージ〟が用意されていて、両端に2体の〝等身大フィギュア〟が置かれている。

 フィギュアのサイズは中学女子程度で、顔つきには幼さが残っている。数年前に放送を終えてからも根強い人気を保つアニメ、『魔法大戦・フェアリーコンバット』のキャラクターだ。少女5人のチームのうちの2人――レモンとミントの変身直後のポーズが再現されている。

 左右の足元からスポットライトで照らされたフィギュアの肌の質感は、本当に生きている少女かと思えるほどリアルだ。その衣装もまた、変身後のアニメの姿を忠実に再現している。当然、一点物の〝特注品〟だ。

 まさに、高橋の夢がそこに具現化している。

 いや、実現の途上にある。

 あと3体、スミレとローズ、そしてチームリーダー的なサクラのフィギュアが必要なのは明らかなのだ。

 高橋は再び、完璧なフィギュアの姿に酔ったかのような満足げなため息を漏らし、独り言をつぶやく。

「すばらしいよね……。ここまでできるなんて、信じられないよ……。でも、全然足りないよね……。ねえ、ローズ……早くみんな揃って戦いたいよね……」

 死んだばかりの少女に語りかけていたのだ。そして、厳しい表情を浮かべる。

 傍にセットしていた、ムービーカメラの録画を停止させる。

 高橋は一つ、〝仕事〟終えた。だがそれは、次の作業を急がなければならないという〝合図〟でもある。

 ここからは、時間との競争だ。

 高橋への〝命令〟は〝女神からの電波〟によって伝えられてくる。その内容は、いつも明確で具体的だった。時に、詳細な地図や図面さえ添えられていることさえある。

 少女を殺すまでの準備、殺し方、殺した後の処理方法まで、事細かな手順を指示してくるのだ。受信した〝電波〟は、スマホのGメールの〈下書き〉として可視化される。高橋はその内容を頭に叩き込むと、データを消去して、命令を着実に遂行していくのが常だった。

 今回も同様だ。

 だから少女を殺す過程は、録画しなければならなかったのだ。そのデータは後で編集、圧縮して〈下書き〉に添付する。指示が正しく遂行されたかどうかを、女神が確認できるように。それは高橋にとって、女神と一体化するための儀式に不可欠な、いわば捧げ物だった。

 だがまずは、急を要する〝仕事〟を済ませなければならない。用意しろと命じられていた道具は、すでに室内に揃えてある。

 命を失った少女が収められる大きさのスーツケース――銀色のサムソナイトだ。〝電波〟では、型番まで指定してあった。

『重要なのは時間だ』とも強調されていた。

 死後1時間以内に、所定の場所まで届けなければならない。そこから逆算して、少女の首を絞める時間も〝電波〟によって指定されていた。届け先は都内のトランクルームだ。暗唱番号もすでに送られてきている。

〈下書き〉には記入されていなかったが、高橋は死体の運搬を急ぐ理由も理解していた。腐敗を恐れているのではない。それなら、時間の余裕はもっと多い。

 これほど急ぐのは、ポージングのためだ。死体に自由なポーズを取らせるのは、死後硬直が始まってからでは困難だ。およそ死後2時間以内にすべての下準備を終える必要がある。

 おそらく同じ理由で、顔に傷をつけることも禁じられていた。体の傷痕は、衣装や化粧で隠せる。だが顔にまで過剰な化粧を施せば、幼さを残す表情の美しさ、艶やかさが損なわれてしまう。

 それではフェアリーコンバットの再現とは言い難い。あえて〝電波〟で説明されなくとも、高橋にとっては自明の理だった。

〝電波〟の主を〝女神〟と呼ぶのは、高橋の思いつきだった。フェアリーコンバットの指揮官であるアクエリアス王女の別名だからだ。〝電波〟がどこから送られてくるのか追求したことはないが、その目的がフェアリーコンバットを現世に召喚することであるのは疑いようがない。

 女神が、顔に傷がついたフェアリーコンバットを望むはずもない。

 もともと、高橋には少女の顔を傷つける趣味もなかった。

 高橋は優しい手つきで死体をスーツケースに押し込んだ。さらに用意していたリュックを背負うと、スーツケースを引いて玄関に出る。扉をわずかに開けて、廊下に人の気配がないことを確認した。

 特に命じられてはいなかったが、スーツケースの運搬は人目に触れないようにするべきなのだ。少女の死体が収められているのだから、他人に知られることなどあってはならない。わずかなリスクであっても極力排除すべきだ。ブルーシートや尿の始末などは、死体の搬送を終えてから入念に行えばいい。

 キャスターがついたスーツケースを引きずってエレベータに乗り込む。マンションのエントランスに出るまで、住人と遭遇することはなかった。

 一見小綺麗な6階建のマンションには、入館者をエントランス前のインターホンで確認してからロックを解除するセキュリティシステムが完備されている。エントランスホールには、これ見よがしに数台の監視カメラも設置してある。万全の防犯対策が施されていると安心できる外見だ。

 だが〝電波〟には『建物内のカメラはダミーで、常駐する管理人もいない』と記されていた。〝女神〟は、施工主が経費節減の魅力に勝てずに体面を整えただけであることを見抜いているのだ。

 だから高橋は、他人に目撃されないことだけに意識を集中していた。幸い、すれ違った住人はいない。

 エントランスを出ると緊張で詰めていた息を漏らし、すっかり暗くなった空に目をやる。

 いつもより大きく思える満月が、スカイツリーの傍に浮かんでいた。血の染みような赤みを帯びた黄色い月だった。


     ✳︎


 タクシーが視界から消え去るまで、高橋はその場を動こうとしなかった。繁華街には近いが、一本裏道に入っただけで驚くほど人通りが少なくなる場所だ。タクシーを拾ったのもマンションから相当離れてからだ。出発地点を特定される〝手がかり〟を減らすために指定された経路に従ったためだ。

 車を降りてすぐに暗がりに身を隠した高橋は、路地に人影が消えたことを充分に確かめてから行動を再開した。

 その手順もまた〝電波〟で指定された通りだ。裏道を縫いながら、トランクルームを目指す。

 鉄筋コンクリートのビルの中にあるトランクルームの入り口は、無人だ。鍵は必要なく、暗証番号さえ入力すれば通路に入れる。本来はセキュリティ上、指紋認証も備えているのだが、指紋が薄い顧客のために複数の暗証番号を併用することでも認証が可能になっている。奥には細かく区切られた部屋が並び、そのドアも暗証番号だけで解錠できる。

 それらの情報は、高橋がトランクルーム会社のサイトで調べたものだ。

 高橋は入口を通って個室の前に進んだ。再度周囲の気配を確認して安心すると、ノブの下のテンキーに暗証番号を入力して中に入り、素早くドアを閉める。

 自動的に照明が点灯される。

 3畳ほどの狭い部屋だが、中はほとんど空だ。床の中央に、高さ30センチほどのフィギュアが一体、ポツンと置かれている。

 フェアリーコンバット・ローズ。

 真紅のバラをイメージした衣装を着た、高橋が最も気に入っているキャラだ。空中に飛び出しながら変身する瞬間を立体化している。一般的なフィギュアよりサイズが大きい分、細部も精巧に仕上がっている。

 しかもこのフィギュアは特別だった。

 フェアリーコンバットのセットフィギュアの試作品で、超一流の原型師が彩色まで手作業で作り上げたものだ。その直後に製造工程が簡略化されてサイズも縮小され、しかも元になったキャラに仕様変更が施されたため、量産品とは様々な点で細部が異なる。躍動感もリアリティも段違いであることは、フィギュアファンなら一目で分かる。

 その情報を聞きつけた高橋は、原型師の元に何度も通った。高橋の情熱が認められ、セットで譲り受けることができたのだ。そんな貴重品を5体セットで所有していることは、アニメフィギュア収集家としての高橋の誇りだった。

 このフィギュアは、高額な〝エラー切手〟に近い貴重な一点物なのだ。その価値は5体セットが揃うことでさらに跳ね上がる。ネット上ではコレクターが買取をオファーし合って値がつり上がる一方の超レアアイテムと化している。

 高橋はスーツケースを倉庫の隅に放り出すように手放すと、しゃがんでフィギュアを抱き上げた。

 そして、愛おしげにつぶやく。

「やっと帰ってきたね、ローズ……寂しかったよ……。女神さんの気持ちはよく分かるけど、意地悪すぎるよね」

 高橋はリュックを下ろして中から空のガラスケースを取り出した。コンバット・ローズのフィギュアを収めてリュックに戻す。そして、スーツケースを残してトランクルームを出た。

 これで、命令されたミッションはクリアした。その後の行動は、〝女神〟からは何も指示されていない。

 心身ともに身軽になった高橋は、賑やかな大通りに出るとつぶやいた。

「ちょっと顔を見せに寄ってくかな……。しばらくご無沙汰だから、掘り出し物が見つかるかもしれないし」

 その足が、顔なじみのアニメショップへ向かう。

 フィギュアの収集家としてファンの間ではそこそこ名が知られている高橋は、あちこちのアニメショップのイベントにも呼ばれることも多かった。店長やスタッフの多くは顔見知りで、一般客には教えない裏情報を囁かれることも珍しくない。高額フィギュアにも躊躇なく手を出す高橋は、どのアニメショップにとっても上客だったのだ。

 高橋もまた、価値が上がりそうなレア物を手に入れて転売することで、生活費の多くを捻出している。ネットを使えば海外の富裕層との個人取引も簡単な現代では、意外なほど高収入につながる。高橋はすでに世界中のアニメオタクを固定客として抱え込んでいた。彼らからの依頼で探し物に奔走することも少なくない。

 重要なのは、人気の推移を感知する〝アンテナ〟の精度と、いち早く現物を手に入れるための情報収集力なのだ。ショップとの信頼関係は、こうして共存することで築かれてきた。

 お気に入りのショップへ向かう途中、学習塾の玄関から吐き出される親子たちに遭遇した。中学受験を控えた小学生を、母親たちが迎えに来たのだろう。その中の1組が高橋の〝アンテナ〟を揺さぶった。

 高橋は素早く歩道の端に場所を移し、スマホを取り出す。ネットの地図を調べるようなフリをして、その親子を拡大して写真を撮った。母子たちは何も気づかずに立ち去っていったが、高橋はその場でさらにスマホを操作し続けた。

 撮ったばかりの少女の顔写真に、アニメから抽出した画像を合成していたのだ。少女の顔をしたコンバット・サクラの画像ができ上がる。

 と、高橋は吐き捨てるように舌打ちをした。

「おっと、こいつじゃイメージが違うな……」

 そして、躊躇なく画像を消去した。

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