第8話:リメンバー・ザ・ビール
田上沙希
神戸市雑居ビル『秋津』
『ニイタカヤマノボル』
頭の中ではその言葉だけが堂々巡りしていた。セーリングファンのかき回す野暮ったい空気の様にただひたすらに循環している。ソファの合成皮革の感触は滲んだ汗のせいで酷いものだ。
おまけに、TVをつけてみたはいいものの映し出されるのは東西双方のプロパガンダ合戦だけだ。
田上は脳の中をこねくり回すのを止め、キッチンへと向かった。キッチンといっても名ばかりでまな板がはみ出る程のステンレス製の台と二口コンロ。そして、蛇口だけだ。
上の方ではうざったく蛍光灯がチラついている。
冷蔵庫から買ってきたばかりのハムの塊を取り出し、ジャケットの胸ポケットに入れっぱなしにしていたスティレットナイフで薄く切り取る。見せしめに捕虜の皮を剥ぐより、よっぽど気を遣う作業だ。この類の作業ならガイの方が上手いだろう。彼は太平洋戦線で、遠きドイツの地で、コマンド部隊にいたのだから。
サンドイッチ一つ当たり、薄く切ったハムは三枚だ。物事というのは、固定されている方が良いこともある。だって、そうだろう。軍機違反した奴を前線でいちいち裁判にかけるなんて狂気の沙汰だ。よっぽどひどくなけりゃ目をつぶるか、酷けりゃ即KIAにすべきだ。簡便にして、より多くの利便性を持つ。要するにあれだ。
面倒は省くべき。そういう事だ。
田上はオーブンの中へバゲットパンを放り込み、レタスを素手で千切り始めた。外からは闇市の喧騒と怒号と銃声。プログレッシブ・ロックの響きが入り込んできていた。
レタスを手ごろな大きさにちぎり終え、チェダーチーズをスライスし、オーブンからパンを取り出す。世界がかくの如く動いていたら、戦争など起こりようもない。田上は卑屈に笑う。
戦争。戦争だ。ニイタカヤマノボル。嫌な共通性を感じる。
頭から振り払うように、冷蔵庫を開けた。
其処には、いつもと変わらぬ六本の瓶ビールが並んでいる。銘柄はアサヒ。だが、いつもとは違う一本が隅の方に佇んでいた。
ガイから仕事帰りに奢られた代物だった。水っぽくて好きじゃないが、いつものけち臭さから取っておいたのだ。
銘柄はパールクリフIPA。それなりに有名なハワイビール。そう、パール。ハワイ。
ああ、そうだ。
ニイタカヤマノボレ。
どうして、忘れていた。真珠湾攻撃の開始符号だ。英語ばかり使っていて、耄碌していたのか。
背後では、着けっ放しのテレビが御大層に叫び散らしていた。
『終戦20周年を記念して、ユナイテッド・フルーツ・カンパニー総帥のミッキー・カーボとスラヴ・ブリューのスヴェトラーノフ・コーシュキンは共同事業に向けた会合を開く予定とのことです。昨今続く、大手会社への襲撃事件を背景とした緊張の緩和を目的としているとの声もあります』
平和を超える程の、戦争を育てる土壌は無い。
奴等にとって、その指令は1941年に既に下されていた。命令形で。後は、実行するのみなのだ。
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