第7話:空のグラス・底の真実
田上沙紀
神戸市 BAR『ウラジオストク』
『ウラジオストク』。スラヴ・ヴリュー傘下のバー。
そこはジュニパーベリーの香りと山羊の糞のような葉巻の紫煙が立ち込める無駄に瀟洒な空間だ。ヴェルベットの張られた壁面に灰と黒の大理石の床とカウンター。そこに屯するのはシミーを踊る白人達。NKVDが最も嫌いそうな俗物勢ぞろい。金持ちの趣味に思想の差異など関係ないことを思い知らされる。
田上は卑屈に笑いながら、店奥のカウンターへと歩みを進める。日本人らしく微笑を張り付け、ロシア人の間を縫っていく。20年前の自分であれば信じられない所業だろう。お互いに頭をカチ割ろうと躍起になる関係性だったわけなのだから。
店奥のカウンターには、シェイカーをふるう黒髪の女バーテンのミルコとブガチョフがいた。
ブガチョフが恨みったらしく言った。群青のスーツとロレックスが嫌味さを二倍増ししている。
「遅かったな。ヴェトナムで女衒でもやってから此処に来たのか?」
「勿論、金と女と薬のスリーコンボだ」
田上は微笑みを浮かべた。
ブガチョフは眉を顰める。グラスを指で叩く。気を取り直し、本題に入る。
「ひっ捕まえたって言う全黎野郎の件だが、どうだ?」
「質問があんまりハッキリとしないな。らしくないぜ、ブガチョフ」
「コトがコトだ。あの襲撃が俺たちのせいにされそうなんだぞ?」
「私が獅子奮迅の大立ち回りを演じた。アレが?」
田上は誇らしげに嘯き、手元でポケットナイフをくるりと回した。
「田上さん。嬉しいのは分かりますが、此処は刃物もおハジキも厳禁です。お控え願えますか?」
黒髪の女バーテン。ジェシー・ブラックが嗜めてきた。一部の界隈にとっては、相当なご褒美だろう。
「今時、持ち合わせてない奴の方が稀だろうよ、なあ、ブガチョフ」
「真実よりも、建前が大切だってことの例の一つだ。黙ってそのナイフをしまえ」
「あの襲撃に対するアンタらの見解と同じようにか?」
「お前はどっちの味方なんだ?」
「いるべき方にいる。一人でいるのは誰しも寂しいものだろう?レンタルフレンドさ」
「酷い建前だな。日本人の美徳は何処に行ったんだ」
「生憎、この国は変わっちまったんだ。アカい連中と白頭鷲野郎の手によってな」
「お前らはしぶとく生き残っているじゃないか。正直、ナチ共の所よりはマシな状況だぞ、この国は」
「比べるべくもないね。此処は国ですら無くなったんだ。比較対象になるわけがない」
「そうか?一つ一つ問題を潰していけば何かが変わるかもしれんぞ。あの全黎軍とかな」
「無理に本題へ話を持ってきたな。で、奴から何か分かったのかい?」
「ニイタカヤマノボル」
「何だって?新高山登る?」
「意味が分かるか?」
「climb Mt.Nitaka」
「お前が捕まえたあの男を拷問して、漏れた言葉だ。なにかの符号か?」
「そうかもしれない。旧日本軍はそういう符号がお好みだったからな。風情第一さ」
「理解し難いな。お前に何か思い当たる節はないのか?」
「微妙だな。少なくとも、今此処では思い出せそうもない。だが、聞き覚えはあるんだ。脳の端っこに引っかかる感じはある」
「気付けの一杯です?」
ミルコがショットグラスにジンを一杯注いだ。
「素晴らしいバーテンだ。チップは百ドル札だな」
「桁が四つ足りませんよ」
「ミリオンダラー級かい。今回のネタがそのぐらいである事を祈るね」
田上はそう言って、ジンを呑み込んだ。
「御託はいいんだ。さっさと、その暗号の意味を解き明かす必要がある。少なくとも、現状の手掛かりはそれぐらいだ。何でもいい、けつの毛程でも解ったら、直ぐに連絡しろ」
ブガチョフは鬼気迫る表情で続けた。
「でなけりゃ、また俺たちは仲良く向かい合い、機関銃の銃口を向け合うことになる。戦後20周年にそんな事は望んじゃいない筈だ」
田上は罰が悪そうに苦笑いした。
「ハッピー・アニバーサリー」
空のショットグラスを宙へと捧げた。
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